part9 帰路の途中
[森視点]
車内の揺れは一定で、眠気を誘うはずなのに、
今日は目が冴えて仕方なかった。
出張先からの帰り。
今日一日がやたらと長く感じる。
いや、長かったというより、濃かった。
(……会えたんだよな。)
思い返すと胸の奥がじんわり温かくなる。
彼女が少しだけはにかんで笑った横顔。
財布を忘れて青ざめた声。
重い米袋を持ち上げたときの、力のなさすぎる細い腕。
そして、別れ際の、あの間の取り方。
全部、リアルだ。
画面じゃない。
生身の弓さんだった。
そして、電車が動き出す頃に届いたメッセージ。
『無事に乗れました。ありがとうございました。』
すでに読み返すだけで胸があたたまる。
気をつけて家に着いたのだろうか、
夕飯はどうしたんだろう、
疲れて眠ってないだろうか。
考える必要のないことを、考えてしまう。
(……あの短い文章で、こんなに気持ちが動くのかよ。)
そのあと俺は、
『よかった。またね。』
とだけ返した。
距離を守ったつもりだった。
あれ以上の文章にすると、踏み込みすぎる。
でも、あの二行には、自分の寂しさも混ざっていた。
だからこそ、
「またね」のあとに、
弓さんが何も返してこなくても、
それを責めることはできない。
(返ってこないか……そりゃそうか。)
電車の窓に映る自分の顔は、
思っていた以上に疲れていた。
今日は仕事も早朝からだったし、
そのあと弓さんと山を歩いて、
都会よりもよほど濃い一日になった。
「……そろそろ、つくのか。」
小さく独り言を言って、
座席にもたれかかる。
そのとき、
スマホが震えた。
通知を見ると、
そこには──
《弓さんが配信を開始しました》
の文字が淡く光っていた。
(……来たか。)
たった一時間前まで、
同じ風を吸っていた相手が、
今は画面の向こう側に“戻っている”。
距離が急にもとに戻されたようで、
変な感覚が胸の奥をかすめた。
でも、見ないという選択肢はなかった。
既婚の自分がどうとか、
踏み込みすぎるなとか、
理屈で制御しても、
この瞬間だけは止められなかった。
(今日は……ちゃんと見てあげたい。)
出張帰りで、もう予定はない。
揺れる車内でひとり、
ヘッドホンを耳にあてる。
アプリを開いた瞬間、
画面がぱっと切り替わる。
そこには、
さっきまで山道を一緒に歩いていた弓さんが、
部屋の灯りの中で、
少しだけ疲れた笑顔を浮かべていた。
「こんばんは、弓ですー……なんか今日は腕がもうダメかも……」
声が、少しだけ遠い。
けれど生身の声だ。
たった数時間前と同じ声。
なのに、
どうしてこんなに違って聞こえるんだろう。
(……不思議だな。)
画面越しの彼女のほうが、
なんだか遠い。
でも、
今日感じた温度が、逆に近すぎて、
距離感がわけわからなくなる。
コメント欄がじわじわ動き出す。
俺も名前を打ち込む。
森
「こんばんは。今日はおつかれさまです。」
送信。
ほんの一瞬、呼吸が止まる。
弓
「あっ……こんばんは。いらっしゃい。」
電車が揺れた瞬間、
ほんの少しだけ涙腺が刺激された。
(ああ……その声、さっきも聞いたな。)
でも、今はもう触れられないし、
並んで歩けない。
それがやけに胸に刺さる。
弓
「あのね、今日はほんとに……歩きすぎて……腕がさ……重くてさ……」
コメントが笑いで流れる。
“重いもの持ってたの?”
“筋トレ?w”
弓
「ちがうよー……なんかね、こう……急に荷物が増えちゃって……」
(……米だな。)
言えるはずもないことを、
お互いに“分かっている”のが、
逆に胸を締めつける。
森
「無理しないでください。今日は短めでいいですよ。」
弓
「うん……ありがと。」
その言い方が、
まるで耳元で囁かれたように響いた。
(……マズいな。)
距離を守らないといけないのに、
守るほど寂しくなる。
離すほど近くなる。
まるで逆再生みたいに感情が流れ込んでくる。
電車の窓の外の景色は流れていくのに、
自分の気持ちはどんどん止まっていく。
(今日は……ちゃんと聴こう。)
(仕事の愚痴でも、短い曲でもいい。)
(何をしても……この人は、この時間は、嘘をつかない。)
ヘッドホンの中に、
弓さんの息継ぎが響く。
そして、一本目の音が鳴った。
わずかに震えていて、
でも確かに、
彼女の音だった。
その瞬間、
今日一日の全てが、
胸の中で静かにひとつにまとまった。
(……ほんとうに、不思議な人だよ。)
俺は、
画面の向こうの弓さんに、
今日もう一度、深く落ちていく。




