part8 灯りの下で
[弓視点]
玄関のドアを閉めた瞬間、世界の音が一段階小さくなった気がした。
さっきまでいた駅のざわざわも、
山の静けさも、
森さんの足音も声も、
全部まとめて一気に遠くなっていく。
そこに残るのは、
私と、五キロのお米だけ。
「……おも。」
靴を脱ぐ前に、その場で小さくつぶやいた。
腕が笑っている。
取っ手のあたりが、くっきりと手のひらに食い込んでいる。
でも、その痛みがちょっと嬉しい。
(これ、全部もらったやつなんだよな……。)
「もらった」という言い方は違うのかもしれない。
一応ちゃんと「返すね」とは言ったし、
あくまで“立て替えてもらった”だけ。
でも、
財布を忘れていたあの瞬間の、
胃の底が冷たくなる感じを思い出すと、
あのとき「いいですよ」と言ってくれた声は、
どうしたって“助けてもらった”になってしまう。
だから、少しだけ胸を張って、玄関を上がった。
⸻
キッチンの入り口までお米をずりずり引きずっていって、
そこで力尽きて床に置いた。
「ふぅ……。」
その横に、私もぺたんと座り込む。
腕がじんじんしている。
なんなら肩まで痛い。
(よくこれ持って帰ろうとしたよね、私。
山歩いたあとに五キロって、普通にバカ。)
笑いながら、少しだけ目を閉じた。
山の光が、まぶたの裏に残っている。
あの道。
木漏れ日。
風の音。
横を歩いていた足音。
「……森さん。」
名前が、自然に口から漏れた。
山で並んで歩いているとき、
私はなんだかずっとふわふわしていた。
途中でふざけてみたり、
くだらないこと言ってみたり、
わけもなく笑ったり。
(いや、いつもだけど。)
でも、今日はいつもより少しだけ違っていた。
変に遠慮されてる感じもなくて、
変に踏み込んでくるわけでもなくて、
ただ隣にいてくれる感じ。
あれが、
驚くほど心地よかった。
たぶんその心地よさを、
今こうして腕の痛みと一緒に持って帰ってきてしまった。
「……やば。」
床に大の字になりたい気持ちをこらえて、
なんとか立ち上がる。
その前に、やることがある。
というか、やらなきゃ落ち着かない。
玄関に戻って、
ポケットを探る。
スマホが、指先に触れた。
⸻
部屋に戻って、
ベッドの端に腰を下ろす。
画面をつけると、
ロック画面に映る顔が、少し赤い。
「……え?」
思わずスマホを遠ざけた。
シャワーもまだ浴びていないのに、
頬だけほんのり火照っている。
(いやいや、疲れてるだけ。
体温上がってるだけ。
そう、そういうこと。)
自分に言い聞かせて、
画面をスライドする。
トークアプリを開いて、
新しく増えた名前を探す。
「……あった。」
「森」。
それだけの、すごくシンプルな表示。
アイコンは初期設定のまま。
色だけがぽつんとついている。
(らしいなぁ……。)
変に飾らないところ、ほんとに森さんっぽい。
トーク欄を開く。
何もない真っ白な画面が、
これから何かを書くのを待っている。
(変なこと書いたらどうしよう……とか考えたら、
絶対書けなくなるやつ。)
私は、考えすぎるのがあまり得意じゃない。
考えれば考えるほど、
言葉が出なくなって、
沈黙して、
最終的に「何もしない」が正解みたいな顔をして終わる。
でもそれって、
たぶん一番よくない。
配信だってそうだった。
「誰も見てないし」「どうせ言っても」「大した音出せないし」って考えて、
何も始めない時間が一番長かった。
考えすぎは、動かなくなる病気だ。
だから——
(感じた時に動いとく。)
それが、ここ数年できるようになってきた“新しい自分”のやり方だ。
指が勝手に動く。
『無事に乗れました。ありがとうございました。』
打ち終えて、
誤字がないかだけざっと見て、
そのまま送信ボタンを押した。
送ったあとで、
少し遅れてドキドキが来る。
「……送っちゃった。」
今さら。
敬語でよかったのかなとか、
絵文字あったほうがよかったのかなとか、
呼びかけ書いたほうがよかったのかなとか、
そういうのがあとからわらわら湧いてくる。
(でもまあ、いっか。)
本当に言いたかったことは、
ちゃんと入っている。
“無事に乗れました”
“ありがとうございました”
それ以外の飾りは、
正直どうでもいい。
⸻
とりあえずシャワーを浴びることにした。
服を脱いで、浴室に入って、
鏡に映る自分をちらっと見る。
頬がまだ赤い。
「……さっさと流れろー。」
シャワーの温度を少し高めに設定して、
頭からまとめてかぶる。
今日一日の汗と、
さっきまでいた山の空気と、
駅のざわざわと、
そこに少し混ざった「嬉しい」と「恥ずかしい」を、
全部まとめて流してしまいたい。
でも、
シャンプーを泡立てながら、
結局今日のことを何度も思い出していた。
横で歩いてくれた足音。
財布を忘れて青ざめた自分に、
「大丈夫ですよ」とさらっと言った声。
レジで何事もないような顔をしてカードを出した手。
(……ほんと、ずるいよね。)
優しいのに、
それを武器にしない感じ。
「ほら、これで距離縮まりましたよね?」みたいな匂いが一切ない。
だから余計に沁みる。
「優しくしないで」って言えるほど、
私は大人じゃない。
優しくされたら、
そのぶんだけ素直に嬉しくなる。
嬉しくなったぶんだけ、
ちょっとだけ好きになりそうになる。
そういう単純さを、
私はずっと嫌いになれなかった。
「……やばいなぁ。」
洗い流すお湯の音に、
自分の声がまざる。
こんな調子で配信できるんだろうか。
それもちゃんと仕事として。
⸻
髪をタオルで巻いて部屋に戻ると、
机の上のスマホが、
やけに存在感を放っていた。
まだ画面は消えている。
通知音も鳴っていない。
(……来てるかな。)
変な期待をしないように、
一回深呼吸をしてから手を伸ばす。
タップしてロックを外すと、
トークアプリのアイコンの右上に、
小さく「1」が乗っていた。
心臓が一拍早くなる。
森さんとのトークを開く。
『よかった。
またね。』
短い。
びっくりするくらい短い。
さっきの自分の文章よりずっと短いのに、
それでもしっかり意味があった。
「……またね。」
声に出してみる。
優しい言葉だ。
“またね”は、妙に心に引っ掛かる言葉だ。
次をどこか未来に置き直す感じだ。
そう思ったら、
胸の奥がきゅっとするのが分かった。
何か特別な返事を望んでいたわけでもない。
でも、
あの山で過ごした時間の余熱が、
この二行でふっと冷まされたような気がした。
「そっか。……うん、そっか。またね。か」
自分で言い聞かせるように呟いて、
スマホを伏せる。
少しだけ、
泣きそうになった。
でも涙にはならない。
そこまでじゃない。
ただ、
胸の奥がひりっとした。
天井を見上げた。
「ファンサ、ファンサ。」
口にすると、
少しだけ落ち着いた。
これはファンサだ。
森さんは既婚だし、
私は私でちゃんといる。
だからこれは恋じゃない。
そう決めておかないと、
音が濁る。
音楽は、
嘘をつくとすぐバレる。
それだけは、今日までの人生でよく分かった。
⸻
時計を見る。
配信の時間がじわじわ近づいている。
「……やらないと。」
重たい上半身を起こして、
髪を乾かす。
ドライヤーの音が部屋に広がって、
さっきまでの感情を少しだけ上から塗りつぶしていく。
鏡に映る自分は、
さっきよりは落ち着いて見えた。
頬の赤みも引いて、
いつもの“配信モードの顔”に近づいている。
(そうそう、この顔。この顔でいかないと。)
フルートケースを開ける。
銀色の管を一本ずつ取り出して、
ジョイントをつなげる。
この作業をしているときだけは、
不思議と頭が静かになる。
管を胸の前でくるりと回して、
タンポの感触を指で確かめる。
「……いける。」
息をひとつ、軽く吹き込む。
スケールをゆっくり上がって、ゆっくり降りる。
音はちゃんと鳴る。
いつも通り。
私の身体と、
この楽器と、
部屋の静けさが、
ひとつの空気になっていく。
その感覚だけで、
さっきまでのモヤモヤが少し薄くなった。
(大丈夫、大丈夫。
音出してるときの私は、割とまとも。)
そう信じておかないと、
配信なんて続けられない。
机にスマホスタンドを立てて、
スマホをセットする。
カメラの位置を調整して、
画角に自分がちゃんと入っているか確認する。
いつものルーティン。
でも、
違うのは胸の鼓動の速さだけ。
画面の端にある“開始”ボタン。
親指を近づける。
そこで、また止まる。
(……森さん、来るかな。)
考える意味はない。
来ても来なくても、
配信はやる。
でも考えてしまう。
今日一日を一緒に過ごした人が、
また画面の向こう側に現れるのか。
現れたら、
どんな顔して「こんばんは」って言えばいいのか。
現れなかったら、
それはそれでちゃんと仕事に集中できるのか。
「どっちにしても、めんどくさいなぁ、私。」
小さく笑って、
親指に少しだけ力を込める。
「はい、仕事。」
そう言って、
“開始”を押した。
⸻
画面がぱっと明るくなって、
いつもの配信アプリの画面が立ち上がる。
「……こんばんは、弓です。」
一言目の声が、
自分でも分かるくらい少し浮いていた。
テンションを作りすぎたわけでもないし、
逆に落としすぎたわけでもない。
ただ、
普段より少しだけ“気を張っている”声。
コメント欄に、
ぽつぽつと名前が増えていく。
『こんばーん』
『弓ちゃん今日早いね』
『おつかれさま』
それを見て、
ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
(あ、いつもの人たちだ。)
私がこういう気分の日でも、
画面の向こう側ではいつも通りが流れている。
それが、救いだった。
「今日ね、ちょっと歩きすぎて腕がもうダメかもしれない……。
なんか、めちゃくちゃ重いもの持っちゃって。」
何も説明しないまま、そう言ってみる。
コメントがざわつく。
『え、どうしたw』
『筋トレ?』
『荷物持ちすぎ注意』
笑いながら、
自分でも曖昧な言い方だなと思う。
山のことも、
森さんのことも、
ここで全部話す必要なんてない。
言葉にした瞬間に、
さっきまでの時間が別のものになってしまいそうで怖い。
「とりあえず、腕が筋肉痛になりそうなので、
今日は長い曲は……やめとこかな。
短めのを、ちょこちょこ吹いていこうと思います。」
そう宣言してから、
ちらりと視線をコメント欄の端に送る。
名前を探してしまう癖が、もうついていた。
(……まだ、いない。)
胸が、
ほんの少しだけ沈む。
「……あ、でもちゃんと吹くからね。
愚痴枠じゃないから安心して。」
冗談めかしてそう付け足して、
フルートを構える。
唇にあたる銀色の感触が、
少し冷たくて気持ちいい。
息を吸う。
いつもより少し多めに。
(来ても、来なくても。
私は音を出す。)
そう言い聞かせて、
一音目をそっと放った。
部屋の空気が、
少しだけやわらかく震えた。




