part7 触れてはいけない場所
[森視点]
改札の前で「じゃあ」と言って別れた。
弓さんは、五キロの米袋を抱えて小さく頭を下げたあと、
ぎこちない歩幅で改札の中へ消えていく。
その背中を見送った瞬間、
胸の奥で何かがひゅっと沈んだ。
(……本当に、これでよかったんだよな。)
別に見返りが欲しいわけでも、
何かを期待していたわけでもない。
ただ、財布を忘れて困っていたから、
買い物を手伝った。
その程度の話だ。
それなのに、どうしてこんなに胸がざわつくのか。
自分でもよく分からない。
改札の自動ドアが閉まる。
弓さんの姿は見えなくなる。
その瞬間——
ようやく息を吐いた。
「……ふぅ」
五キロの袋を持って歩いたせいで、
腕よりも肩が痛い。
けれど、その痛み以上に胸の中が妙に忙しい。
(あの距離感、危ないって分かってるのに。)
今日の弓さんは、本能のままに動いていた。
あれが彼女の素なのだろう。
理屈じゃなくて、感覚。
危ういくらい素直で、
危険なほど無防備。
だから——
守ってやりたくなる。
そう思ってしまう自分が、一番危うい。
⸻
駅を出て少し歩いたところで、
ポケットの中のスマホが震えた。
弓さんだろうか、と一瞬思ったが、
ただの通知だった。
(……気にしすぎだ。)
自嘲気味に笑う。
歩きながら、今日一日の映像が頭の中を巡る。
山道の空気。
並んで歩いた足音。
笛を吹くのかと思ったら、
「吹かないよー」って無邪気に笑われた顔。
危険だ。
危険すぎる。
あれほど本能で動く人間を、
自分みたいなタイプが相手にしたら、
簡単に距離を踏み越えてしまう。
だから気をつけていた。
慎重に、慎重に。
何を言うか、どう距離を取るか、
考えて、考えて、線引きをしていた。
なのに——
最後の最後で「LINE交換する?」と言われて、
抵抗らしい抵抗もできず、
気づけば弓さんの名前が登録されていた。
(……本能か。)
彼女は、気持ちが動いたら動く。
良くも悪くも。
それは魅力でもあり、
危険なところでもある。
そして、自分は——
その危うさに弱い。
たぶん昔から。
⸻
帰りの電車の中。
座らないと決めて立ったものの、
つり革を握る手は落ち着かなかった。
さっき別れてから、
何度かポケットのスマホを触りそうになった。
自分から連絡するべきか、
いや、これは自分の立場からするとやりすぎだ、
そう何度も何度も理性で止める。
(あれだけ素直な子から、
何も来ないと気になって仕方ないな……。)
思考の端で、自分の弱さを苦く笑う。
電車が揺れる。
外は少し暗くなってきていて、
車内灯に照らされた窓ガラスに、
自分の顔が映る。
疲れた大人の顔だ。
子どもみたいに誰かを追いかける年齢じゃない。
「……いかんいかん」
小声で言い聞かせる。
今のこれは、ただの余熱だ。
山を歩いた空気。
弓さんの素直さ。
あの時間が、心に残っているだけだ。
そう言い聞かせても、
胸のざわつきは消えない。
(お礼の一言くらい来るだろう。
でも、期待して待つのは卑しいな。
やめとけ。やめとけよ、自分。)
そう思いながら、
つい指先がスマホの画面をタップして、
通知がないことに落胆する。
その繰り返し。
みっともない。
でも、止められなかった。
⸻
降りる駅が近づく。
ポケットから取り出したスマホの画面が、
無機質な明るさを放つ。
その瞬間——
通知が一つ、増えた。
「弓:無事に乗れました。
ありがとうございました。」
息が止まった。
短い。
なのに、
胸の奥にスッと染み込んでくる。
(……素直だな、本当に。)
変に飾らず、
テンションを作らず、
ただ思ったことを、そのまま送ってきた感じ。
その素直さに、
心のどこかを無防備に掴まれる。
(危ないな……。
本当に、危ない。)
彼女が危険なのではない。
危険なのは、
こうして素直さに心を揺らされる自分のほうだ。
お礼を言われたことに、
嬉しさがこみ上げてしまう。
それが、いけない。
(……返すべきか?)
指が、返信ボックスの上で止まる。
返事をすれば、
一歩近づく。
近づけば、
また何かが生まれる。
既婚という立場。
仕事の立場。
年齢。
全部が距離を置くべきだと言っている。
でも、
心臓の奥で、何か小さなものが動く。
「ありがとうと言われて、
何も感じないほど冷たくはなれないな……。」
小さく呟いた声が、
車内のざわめきにかき消される。
結局——
送ったメッセージは、
たった二行だった。
『よかった。またね。』
これ以上は、言えなかった。
これ以上は、言わない方がよかった。
送信ボタンを押したあと、
小さく息を吐く。
(これが限界だ。
ここで止めないと、きっと壊す。)
自分に言い聞かせるように、
画面を伏せた。
でも、
胸の奥の熱だけは、消えていきそうになかった。




