part62 減刑
【弓視点】
「……海へ?」
森さんの声が、少しだけ遠い。
受話口の向こうで言葉が止まった瞬間、空気だけが残って、そこに冬の薄い冷たさがすっと入り込んでくるのがわかった。
わたしは息をひとつ置く。
急がないほうがいい、と身体が先に決めるときがある。
「森さん?」
返事がない時間が、ふいに長くなる。沈黙は怖いのに、森さんの沈黙は、怖がらせたくてやってる沈黙じゃない。
自分を整えるための、痛い沈黙だ。
「……今、って意味じゃなくて」
声が出た。
森さんの声は、出たこと自体が合図みたいに聞こえる。まだ繋がってる、っていう合図。
わたしはそこで、急いで「よかった」って言わない。
言ったら森さんが、またいい顔を作る。
「うん。わかる」
「海、ってさ」
「うん」
「……傷心の、海だろ」
森さんの言い方が、ちょっとだけ照れくさそうで、ちょっとだけ逃げ道を探してる。
わたしの胸の奥が、きゅっと鳴る。
傷心の海なんて、言葉にした時点で、もう行きたいって言ってるのと同じなのに。
「そう」
「海は……寒いぞ」
寒い、って言葉で言い換えられるものが、森さんの中にいくつもある気がする。
寒さ、痛さ、罪悪感、誰かの視線。
見えないのに、いつもそこにあるもの。
「寒いよ」
わたしは笑ってしまいそうになるのを、声の端にだけ混ぜる。笑いは明るくしすぎると、森さんの胸に刺さる。
冬の薄い日差しくらいでいい。
「だからさ、厚着してきて」
「……母親みたいなこと言うな」
「言う。森さん、今日の森さん、そういう日」
言い切ってしまう。
ここは曖昧にしない。
森さんは、曖昧にすると勝手に罪を増やしていく。わたしはそれを止めたい。
「俺さ」
森さんの声が、途中で途切れる。
わたしはその切れ目で、呼吸の音を消すみたいに静かに待つ。言ってもらうのが目的じゃない。
言いたくなる空気を作るのが目的。
「うん」
「……こんなタイミングで、俺が他の女の人と会うのって」
森さんの言葉が、いちばん痛いところを踏むときは、いつも丁寧だ。
丁寧すぎて、わたしの名前がちゃんとそこに入ってない。
わたしはここにいるのに。
「罪悪感?」
あててしまう。
外したくないから。
外したら森さんはまた、「違う」って言いながら、自分をもっと傷つける方へ逃げる。
「……そう」
「うん」
「奥さんに、離婚って言われて」
「うん」
「まだ、ちゃんと終わってないのに」
「うん」
「俺が誰かに会うの、裏切りみたいで」
裏切り。
言葉が重い。
森さんの口から出た重さのぶんだけ、わたしは自分の声を軽くしないように気をつける。
軽くしたら、森さんがひとりで全部背負う。
「森さん」
「うん」
「裏切りたくないんだね」
「……」
「いい顔しようとしてる」
言った瞬間、胸が少し痛む。
わたしが言い当てることで、森さんが縮こまるのは嫌だ。
でも、言い当てないと森さんは、これを“優しさ”に変換して、さらに逃げる。
「俺、悪い癖がある」
癖、と言えたことが、少しだけ救いだと思う。
人は、自分に名前をつけられた瞬間だけ、そこから半歩だけ離れられる。わたしはその半歩を大事にしたい。
「知ってる」
わたしは短く言う。
短いのは、決めつけのためじゃない。森さんが「説明」を始めたら、また裁判になるから。
ここは裁判じゃなくて、呼吸だ。
「でも、今日はそれ、いったん横に置こ」
「横に……」
「横。今は、森さんの息が先」
息、って言葉にしたら、森さんの呼吸が少しだけ大きくなるのがわかる。
受話口の向こうで、空気が動く。
音じゃなくて、気配として。
「海ってさ」
言葉の前に一拍入れる。
森さんの中にある“順番”を、少しだけゆるめるために。
「話すの、楽になるんだよね」
「……波の音で?」
「うん。波が勝手に、間を作ってくれる」
「間は、電話でも作れるだろ」
「電話の間は、森さんが悪い方に使う」
「……」
「黙って、責める顔する」
言い過ぎない程度に、ちゃんと言う。
森さんは、ちゃんと言われないと、自分で勝手にもっとひどい言い方にしてしまう。
わたしは“いま言える分だけ”を渡す。
「俺、黙ってると」
「うん」
「自分のこと、裁判官みたいに扱う」
「うん」
「判決出して」
「うん」
「……刑を長くする」
森さんの言い方が、少しだけ自嘲に寄ってる。
わたしはそこに、笑いを返さない。
笑われたら、森さんは“ほら笑える話だ”ってして、また心を置き去りにする。
「森さん、刑、減刑しよ」
「……どうやって」
「海で」
「それ、雑だな」
「雑でいいよ。今は」
雑がいい。
丁寧さが人を壊すときもあるって、森さんが教えてくれた。
「……弓さん」
「なに、その丁寧」
「いや」
「いま、森さん、丁寧すぎる」
「……癖」
「癖だね」
癖、と言ってくれたことが、ちいさな合図みたいに胸に落ちる。森さんは、今ここで“自分の動き”を見ている。見ているだけで十分だ。直す必要は、いまはない。
「行こう」
言った瞬間、自分の声が少しだけ震える。
震えは怖さじゃなくて、決めたときの震え。
森さんの世界に、わたしが踏み込む音。
「海、行こ。約束」
約束、って言葉を出したのは、森さんのためでもあるけど、わたしのためでもある。
わたしは、わたしのために踏ん張らないと、森さんに合わせて引いてしまう。
引いたら、森さんはまたひとりになる。
「……わかった」
その二文字が、冬の暗い部屋に灯りがつくみたいに聞こえる。大きくはない。
けど、ちゃんと見える。
「ほんと?」
確認は一度だけ。
しつこくしない。森さんの“いい顔”に乗らないために、わたしも余計な飾りをつけない。
「ほんと」
「よし」
よし、って言ったら、森さんの息が少し抜けた気がする。
わたしはそこで、笑い声を大きくしない。
あたたかさは、小さくていい。
「いつにする?」
「……今週は、仕事ある」
「うん」
「週末、なら」
「土日?」
「土曜の方が……」
土曜の方が、って言葉の裏にあるものが見える気がして、見えないふりをする。全部を暴くのは優しさじゃない。
今は、決めることが先。
「土曜、でいい」
「午前でも午後でも。森さんがしんどくない方」
しんどくない方。
言いながら、自分の胸が少し痛い。
森さんはいつも、他の誰かの“しんどくない方”を選ぶ人だ。
今日は一回だけ、森さんの方へ針を振りたい。
「午後」
「了解」
「森さん」
「うん」
「海、行くって言ったの、後悔しない?」
聞きながら、わたしは自分の指先を見つめる。
爪の先が少し冷えている。
冬の夜の冷えが、スマホ越しにも移るみたいだ。
「……後悔すると思う」
正直だ、と思う。
正直を言えた時点で、もう少しだけ大丈夫になる。わたしはそれを、ちゃんと受け取る。
「うん」
「後悔してもいいよ」
一拍。言葉が、森さんの胸に届く速さを、少しだけ遅くする。
「後悔しながら、息しよ」
「……ありがとう」
「うん」
「それと」
わたしは、ほんの少しだけ悪戯を混ぜる。
軽さが必要だ。森さんが“罪”だけで満ちてしまわないための、逃げ道じゃない逃げ道。
「ヒゲ、剃ってきて」
「まだ会ってないのに、言うな」
「言う。海、風強いから、チクチクする」
「俺がチクチクするのか」
「うん。森さん、チクチク担当」
「雑だな」
「雑でいいの」
森さんの声の端に、ほんの少し笑いが入る。
わたしはその小ささに安心する。大丈夫、じゃないけど、少しだけ息が通った。
「じゃあ、また連絡する」
「寒いから、あったかいの飲んでね」
「……お前もな」
「うん」
“お前もな”の言い方が、乱暴じゃなくて、照れ隠しみたいに聞こえる。
わたしは「今の言い方やめて」なんて言わない。
言ったら、森さんはまた丁寧な檻に戻る。
一拍。切れる直前に、森さんの声が小さくなる。
「森さん」
「ん」
「今日、電話できてよかった」
この言葉を言うとき、わたしの喉が少し熱くなる。
熱くなるのは、感情を言葉にしてしまったから。
言葉にするのは怖い。
配信のときみたいに、音に隠せない。
「……俺も」
通話が切れる。
画面が暗くなった瞬間、部屋の音が戻ってくる。エアコンの微かな風、遠くの車のタイヤの音、窓の向こうの街灯の唸りみたいな電気の気配。
(海って、なんだろう)
(森さんを救う場所、じゃない)
(森さんが息をする場所で、わたしも息をする)
(わたしが、わたしのために、そこに立つ)
スマホの画面に映った自分の顔が、少しだけ幼く見える。冷えた指で頬に触れると、皮膚の温度が遅れて追いついてくる。
外はきっと寒い。
海はもっと寒い。
それでも、あの人が「行く」と言った。
窓の隙間で風が鳴る。
音は高くも低くもない、ただの冬の音で、それが不思議なくらい、いまの胸の中と同じ温度だった。




