part61 一旦置いとこ
【森視点】
「……海へ?」
弓の声が言い終わったあとも、受話口の向こうの空気がほどけない。
言葉の形だけをなぞれば軽い誘いなのに、そこに入っている温度は、俺がいちばん触れたくない場所に届く。
喉の奥が狭くなる。
息を吸うと、胸の骨の内側に冷たいものが当たった。
「森さん?」
一拍。
呼ばれているのに、返事がすぐに出ない。
沈黙を作ったのは俺なのに、沈黙に押されるのも俺だ。
「……今、って意味じゃなくて」
声を出してみて、少しだけ安心する。
まだ声が出る。
壊れてはいない。
「うん。わかる」
弓の返しは短い。
短いのに、こちらの逃げ道を塞がない。
「海、ってさ」
「うん」
「……傷心の、海だろ」
「そう」
弓は、そこだけは迷わない。
(やめとけ)
(今の俺が、海に行ったら、だめだ)
(誰がどう見るかを、先に考えるな)
頭の中で二つの声が同じ音量で鳴る。
どちらも俺の声で、どちらも俺を守る顔をしている。
「海は……寒いぞ」
言ってから、自分でも笑いそうになる。
これは天気の話じゃない。
断り文句のつもりでもない。
ただ、別の言葉を言う勇気がない。
「寒いよ」
弓は、ほんの少し笑った気配を混ぜる。
「だからさ、厚着してきて」
「……母親みたいなこと言うな」
「言う。森さん、今日の森さん、そういう日」
一拍。
俺の中で、何かが小さく欠ける。
欠けたのに、痛みは増えない。
代わりに、空気が入る。
「俺さ」
言いかけて、止まる。
何から言えばいいのか、順番がわからない。
離婚という言葉の前にある、毎日の積み重なり。
積み重なりの前にある、自分の癖。
癖の前にある、怖さ。
「うん」
弓は待つ。
促さない。
その待ち方が、こっちの息を整える。
「……こんなタイミングで、俺が他の女の人と会うのって」
言った瞬間、口の中が苦くなる。
自分で言っておいて、言葉の並べ方が下手だと思う。
他の女の人、という言い方は、弓に失礼だ。
でも、別の言い方を選べない。
「罪悪感?」
弓の声が、まっすぐ当ててくる。
角を立てないまま、核心だけを拾う。
「……そう」
「うん」
「奥さんに、離婚って言われて」
「うん」
「まだ、ちゃんと終わってないのに」
「うん」
「俺が誰かに会うの、裏切りみたいで」
一拍。
受話口の向こうで、弓が息を吸う。
息の音が、風みたいに耳を撫でる。
「森さん」
「うん」
「裏切りたくないんだね」
「……」
「いい顔しようとしてる」
言われて、指先が冷たくなる。
まるで見られているみたいだ。
見られていないのに、言い当てられる。
それが、怖いのに、救いになる。
(そうだ。俺は、いい顔をする)
(最後まで、いい顔をして、相手に責められないようにする)
(責められないようにするのは、優しさじゃない)
(自分が壊れないようにしてるだけだ)
「俺、悪い癖がある」
言葉にした途端、肩が少し落ちた。
癖と呼べば、少しだけ距離ができる。
距離ができれば、直せる気がする。
「知ってる」
弓は言い切って、そこで一拍置いた。
「でも、今日はそれ、いったん横に置こ」
「横に……」
「横。今は、森さんの息が先」
息。
その言葉が妙に具体的で、俺の胸の動きを意識させる。
吸って、吐く。
吐くときに、何かが一緒に抜ける。
「海ってさ」
弓が続ける。
言葉の前に、いつもの一拍。
「話すの、楽になるんだよね」
「……波の音で?」
「うん。波が勝手に、間を作ってくれる」
「間は、電話でも作れるだろ」
「電話の間は、森さんが悪い方に使う」
「……」
「黙って、責める顔する」
言い返せない。
言い返したくもない。
否定の言葉を探すより、その通りだと認めた方が早い。
「俺、黙ってると」
「うん」
「自分のこと、裁判官みたいに扱う」
「うん」
「判決出して」
「うん」
「……刑を長くする」
弓が、そこで小さく息を吐いた。
吐息が、冬の窓ガラスに白く曇りを作るみたいに、耳の奥に残る。
「森さん、刑、減刑しよ」
「……どうやって」
「海で」
「それ、雑だな」
「雑でいいよ。今は」
弓の声が柔らかい。
柔らかいのに、逃げ道がない。
(会っていいのか)
(会ったら、もっと壊れるんじゃないか)
(奥さんの信頼を、最後まで守るべきじゃないか)
(でも、守るって何だ)
(守るって言いながら、俺はただ、いい人でいたいだけじゃないか)
指先が、スマホの縁をなぞっているのに気づく。
無意識の動きが、落ち着けと言っている。
落ち着くための動きが、落ち着けない証拠だ。
「……弓」
呼び捨てにしそうになって、止める。
「……弓さん」
「なに、その丁寧」
「いや」
「いま、森さん、丁寧すぎる」
「……癖」
「癖だね」
一拍。
弓は笑わない。
笑って流さない。
そこが、ありがたい。
「行こう」
弓が言った。
「海、行こ。約束」
約束、という言葉が刺さる。
約束は形だ。
形は責任を生む。
責任は、俺の背骨に重りをつける。
でも、その重りがないと、俺は浮いてしまう。
「……わかった」
言った瞬間、胸の奥が少し沈む。
沈むと、足が地面につく。
地面があると、前に進める。
「ほんと?」
弓が確認する。
軽い確認じゃない。
逃げられない確認。
「ほんと」
「よし」
弓が、やっと笑った気配を混ぜる。
その笑いは明るすぎない。
冬の薄い日差しみたいに、弱いのに、あたたかい。
「いつにする?」
「……今週は、仕事ある」
「うん」
「週末、なら」
「土日?」
「土曜の方が……」
言いながら、理由を探す。
日曜は家族の日、という建前がすぐ浮かぶ。
建前は今でも俺を守る。
守りながら、俺を縛る。
「土曜、でいい」
弓は言う。
「午前でも午後でも。森さんがしんどくない方」
しんどくない方。
そんな選び方を、俺はずっとしてこなかった。
誰かがしんどくない方ばかり選んできた。
「午後」
「了解」
弓の返事は短い。
短いのに、決まる。
「森さん」
「うん」
「海、行くって言ったの、後悔しない?」
問われて、言葉が詰まる。
後悔は、もう始まっている。
でもそれは、行くことへの後悔じゃない。
行かないで、自分を罰し続ける方が簡単だった、という後悔だ。
「……後悔すると思う」
正直に言った。
言った瞬間、少しだけ背中が軽くなった。
嘘をつかなかったから。
「うん」
弓はそれを受け取る。
「後悔してもいいよ」
一拍。
「後悔しながら、息しよ」
息。
また息。
弓は今日、そこから離れない。
俺が離れたくない場所を、わざと掴んでいる。
「……ありがとう」
「うん」
「それと」
弓の声が、少しだけ悪戯っぽくなる。
「ヒゲ、剃ってきて」
「まだ会ってないのに、言うな」
「言う。海、風強いから、チクチクする」
「俺がチクチクするのか」
「うん。森さん、チクチク担当」
「雑だな」
「雑でいいの」
電話の向こうで、弓が笑った。
その笑いが、耳の奥に小さく残る。
残ったものが、今日の夜を少しだけ変える気がした。
(奥さんの信頼を裏切りたくない)
(でも、信頼を守るって、俺がひとりで罰を受け続けることじゃない)
(守るって、ちゃんと向き合うことだ)
(向き合うには、息がいる)
(息をする場所が、今の俺には必要だ)
「じゃあ、また連絡する」
弓が言う。
「寒いから、あったかいの飲んでね」
「……お前もな」
「うん」
一拍。
切れる直前に、弓が小さく言った。
「森さん」
「ん」
「今日、電話してくれてよかった」
俺は答えを探して、探して、ようやく言った。
「……俺も」
通話が切れる。
部屋の静けさが戻る。
戻った静けさは、さっきより少しだけ薄い。
窓の外の街灯が、道路の端に細い光を置いている。
その光が、揺れないまま、冬の夜を支えていた。




