part60 嵐中の次の嵐の前兆
【弓視点】
森さんの窓の向こうの風が。
電話の中でまだ揺れている。
それが、変に現実っぽい。
現実は、急に重くなる。
「寒くない?」
私は言う。
「寒い」
森さんが言う。
「閉めていいよ」
「閉めた」
一拍。
風の音が消える。
その代わりに、森さんの呼吸がはっきり聞こえる。
(呼吸って、こんなに音がするんだ。)
「弓」
森さんが言う。
「今、俺、何話せばいいかわからない」
「わからなくていいよ」
私は言う。
一拍。
「話せるとこからでいい」
森さんが短く息を吐く。
「じゃあ」
「うん」
「今日、家に帰ってきたら」
一拍。
「妻の靴がなくて」
私は、唇を噛む。
靴。
そんな具体が、いちばん刺さる。
「……うん」
「最初は、ただの片付けだと思った」
森さんが言う。
「でも、棚の中も空になってて」
一拍。
「これ、もう戻らないやつだって」
私は、机の上のケースを見てしまう。
「戻らないって、決めるの早いね」
私の声が、少しだけ尖る。
尖らせたいわけじゃない。
でも、刺さるから。
「早い」
森さんが言う。
「でも、早く決めないと俺、多分、崩れる」
「崩れるって、どんな」
森さんが少し黙る。
「……泣くとかじゃなくて」
一拍。
「何もできなくなる」
私は、その言葉を胸の中で転がす。
(何もできなくなる。)
(森さんは、何もできなくなるのがいちばん怖い。)
「仕事、休めないの?」
「休めない」
森さんの返事が速い。
速すぎて。
それが、もう答えなんだと思う。
「新しい現場だし」
森さんが続ける。
「今、休んだら」
一拍。
「俺、たぶん戻れない」
「……戻れないって」
「顔が上がらない」
私は目を閉じる。
(森さん。)
(森さんは、自分に厳しすぎる。)
「森さん、顔上げなくてもいいときもあるよ」
「ない」
森さんが即答する。
私は、少し笑う。
笑ってしまう。
「あるよ」
「ない」
「あるって」
一拍。
「今、顔上げたら、余計しんどいときもある」
森さんが、黙る。
黙って。
呼吸が少しだけ深くなる。
「……弓」
「うん」
「弓ってさ」
「うん」
「やっぱり、優しい」
「優しくない」
私は言う。
「私、今日は優しくしてるだけ」
一拍。
「普段は、そんなでもない」
「普段からそうだよ」
森さんが言う。
私は返さない。
返すと、話が甘くなる。
今日は甘くしたくない。
甘くすると、逃げる。
「……森さん」
私は声を落とす。
「奥さん、前から言ってたの?」
「前から、っていうか」
森さんが言う。
「ずっと前から考えてたらしい」
一拍。
「準備もしてた」
「準備って」
「書類とか」
森さんが言う。
「細かいこと、全部」
私は、指先が冷たくなる。
(準備。)
(準備って、時間。)
(時間は、戻らない。)
「森さんは、気づかなかった?」
「気づいてた」
森さんが言う。
「でも」
一拍。
「俺が見ないふりしてた」
その「見ないふり」が。
妙に、森さんらしい。
「森さん、見ないふり、上手いもんね」
私は言う。
森さんが小さく笑う。
笑うのに。
笑いの下に沈みがある。
「上手くない」
「上手い」
私は言う。
一拍。
「上手いから、今日まで持ったんでしょ」
森さんが黙る。
「……そういう言い方、救われる」
「救わない」
私は言う。
「救うのは、森さんが自分でやって」
一拍。
「私は、そばにいるだけ」
森さんの呼吸が止まる。
止まって、また戻る。
「……そば」
森さんが言う。
「そばにいていいのか」
「いいよ」
私は即答する。
でも。
その即答のあとに、自分で怖くなる。
(いいよ、って。)
(私は何を約束してるんだろ。)
「……弓」
森さんが言う。
「弓は、忙しいだろ」
「忙しい」
私は言う。
「でも、今は空いてる」
一拍。
「今は、森さんの話を聞ける」
森さんが小さく「ありがとう」と言う。
私は「うん」とだけ返す。
「弓」
森さんが言う。
「俺、変なこと言っていい?」
「なに」
「離婚って」
一拍。
「こんなに静かなもんなんだな」
私は、喉の奥が痛くなる。
静か。
それは、怖い。
「静かだから、痛いんだよ」
私は言う。
「音がないところに、痛いのが残る」
森さんが「うん」と言う。
その「うん」が、少しだけ震えている。
「弓は」
森さんが言う。
「弓は、俺がこうなって」
一拍。
「どう思う」
私は、少し黙る。
(どう思う。)
(答えが怖い質問。)
でも、森さんは今、答えが欲しい。
答えじゃなくて。
温度が欲しい。
「びっくりした」
私は言う。
「心配した」
一拍。
「森さんが壊れないか」
森さんが黙る。
「……壊れないよ」
「壊れるよ」
私は言う。
「壊れるけど」
一拍。
「壊れても戻る」
森さんが息を吐く。
「弓は、強いな」
「強くない」
私は言う。
「私、ただ、音があるだけ」
一拍。
「音がなかったら、私も壊れる」
森さんが、少しだけ優しい声で言う。
「じゃあ、音、吹け」
「吹かない」
「なんで」
「今、吹いたら」
一拍。
「森さんの声が消える」
森さんが黙る。
その黙りが、少しだけ柔らかい。
「……弓」
「うん」
「弓って、そういうとこ」
森さんが言う。
「ズルいな」
私は笑う。
「ズルくない」
「ズルい」
「ズルいなら、森さんもズルい」
一拍。
「私に言ってくる」
森さんが小さく笑う。
「言いたくなかった」
「でも言った」
「言った」
森さんが言う。
「……弓に言うの、怖かった」
「なんで」
「重いから」
私は即答する。
「重くない」
森さんが「重いよ」と言う。
私は言い返す。
「重いけど、重くない」
一拍。
「重いのは出来事で」
「重くするのは態度でしょ」
森さんが黙る。
「……弓、ちゃんと考えてるな」
「考えてない」
私は言う。
「感じてるだけ」
一拍。
「重いの、嫌いだから」
森さんが、静かに笑う。
「弓らしい」
「うん」
私は頷く。
「森さん」
私は、少し迷ってから言う。
「今、誰かと会ってないの?」
森さんがすぐに返す。
「会ってない」
「本当に?」
「本当」
森さんの声が固い。
固いのに。
その固さが、怖い。
(森さんは、こういう時、まっすぐすぎる。)
「……そっか」
私は言う。
一拍。
「じゃあ、ひとりで抱える気?」
「抱えない」
森さんが言う。
「今日、弓に言った」
「うん」
私は頷く。
「それ、抱えないってことね」
森さんが「うん」と言う。
「森さん」
私は声を落とす。
「奥さんのこと、まだ好き?」
森さんが、すぐに返さない。
返さない時間が長い。
(答えは、ある。)
(でも、言葉にするのが痛い。)
「……好きだよ」
森さんが言う。
一拍。
「好きっていうか」
「うん」
「愛してた」
私は、息を吸う。
(愛してた。)
(過去形。)
それが、きつい。
「愛してた、って言うの、早い」
私は言う。
森さんが小さく息を吐く。
「早いか」
「早い」
私は言う。
一拍。
「好きは、まだ現在でいい」
森さんが黙る。
黙って。
呼吸が少しだけ乱れる。
「……弓」
森さんが言う。
「それ、救うやつだ」
「救わないって言った」
私は言う。
「救ってない」
一拍。
「ただ、今の言葉が嫌だっただけ」
森さんが小さく笑う。
「弓、厳しいな」
「厳しくない」
私は言う。
「私、優しくないから」
森さんが「優しいよ」と言う。
私は返さない。
返すと、また甘くなる。
「森さん」
私は声を柔らかくする。
「今夜さ」
一拍。
「寝る前に、もう一回だけLINEして」
「なんて」
「生きてるって」
森さんが笑う。
「雑だな」
「雑がいい」
私は言う。
「丁寧だと、怖い」
一拍。
「丁寧だと、ほんとに終わりみたい」
森さんが、少しだけ息を吸う。
「……わかった」
「うん」
私は頷く。
「森さん」
「うん」
ここで。
言うか迷う。
言わないで終わるのもできる。
でも、今日は。
少しだけ違う。
(今回だけ。)
(追いLINEしない私が、追い電話してる。)
私は、胸の奥の温度を確かめる。
「……森さん」
一拍。
「今、声聞けてよかった」
森さんが黙る。
「……俺も」
森さんが言う。
その声が、少しだけほどけている。
ほどけているのに。
ほどけすぎない。
それが、ちょうどいい。
電話の向こうで、風の音が混じる。
窓でも開けたのかもしれない。
その音を聞いた瞬間、
ふと、昔の景色がよぎった。
波の音。
水平線。
何も決めなくてよかった時間。
(あのときも、
答えは出なかったけど)
でも、少しだけ、楽になった。
私は、言葉を選ばずに口を開く。
「ねぇ、森さん……」
一拍、置いて。
「海、行かない?」
言ったあとで、
少しだけ胸が早くなる。
でも、不思議と後悔はなかった。
それは、
踏み込みすぎない距離で、
ちゃんと差し出した言葉だったから。




