part6 名前のない曲
[森視点]
朝の空気が、少し澄んでいた。
街の音が遠のいて、呼吸の奥に冷たい風が落ちる。
出張前の予定を、ほんの少しだけずらす。
「寄り道してから行く」と言えば、誰も懐疑的にはならない。
理由はいらない。
ただ、行きたかった。
弓さんが「山に行く」と、あの声で言ったから。
「外で吹きたいな」
「自然の中で、山に行こっかな」
冗談みたいな軽さだった。
でも、半分だけ本気の気配が混じっていた。
そう判断してしまうのは、職業柄なのか、ただの欲なのか。
どちらでもよかった。
確かめたかった。
登山口の手前で、靴紐を結び直す。
砂利が乾いて、踏むと小さく鳴る。
風が頬を撫でて、鳥の声がすぐ近くで揺れた。
人影はない。
空は明るい。
口の中が、少しだけ乾く。
白いカーディガンが風に揺れた。
遠くの木漏れ日が、髪に反射して光る。
立ち止まる。
胸の奥で、時間がひと拍、ずれる。
(……弓さん。)
視線が合って、世界が音を取り戻す。
彼女は小さく笑って、口を開く。
「こんにちは」
「こんにちは」
マイク越しではない声は、やわらかくて、近い。
音が肌に触れる。
それだけのことで、言葉が少し遅れる。
「来てくれたんですね」
「ええ。寄り道です」
「寄り道?」
「はい。たまたま近くまで」
「ふふ、偶然って便利な言葉ですね」
「僕もよく使います」
笑いが風に混ざって、胸の奥が温かくなる。
ふだんの自分なら、ここで余計な言葉を重ねる。
今日は、黙る。
黙ることが、正解に近い気がした。
「歩きますか?」
「ええ。ただ、今日は……吹かないんですよね」
「うん。今日は風を聴く日」
(風を聴く日。言葉の置き方まで、この人は音楽だ。)
並んで歩く。
距離は、肩より少し広い。
靴と砂のこすれる音が、会話の母音みたいに続く。
沈黙がやけに居心地よくて、胸の内に、ゆっくり空気が入ってくる。
「歩くの、好きなんですか」
「うん。人がいない時だけ」
「人がいると?」
「話しかけられるから。静かなのが好き」
「わかります。僕も喋りすぎて疲れるタイプで」
「ふふ、喋りそう」
「よく言われます」
彼女が横を向く。
髪が光を受けて揺れる。
小さな影が頬をかすめて、形を変える。
その一瞬に、呼吸の長さを合わせる。
(言葉はいらない、が、言わずにいられるほど、今日は賢くない。)
踊り場のベンチが空いていた。
二人で腰を下ろす。
拳ふたつぶんの距離。
飲みかけていない冷たいペットボトルが、彼女の右手から差し出される。
「冷たいけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
キャップが開く音が小さく鳴って、喉の奥に冷たさが落ちる。
二口でやめる。
止め方を見られている気がして、姿勢がすこしだけ正しくなる。
「昨日の配信……最初、誰もいない時間、ありましたよね」
「ありました」
「そこで、質問しました。“どの山、行くの?”って」
「見ました」
「弓さんは、少し迷ってから、名前を言いました」
「小さくね。独り言くらいの小ささで」
「独り言でした」
「独り言でした」
「偶然」
「偶然」
同じ温度で言葉が重なる。
便利だ。
今日のための言葉みたいだ。
本当のことも、守りたいことも、同じ布で包める。
「今日、吹きますか」
「一本だけ。……長いのじゃない」
「短いの、嬉しいです」
「短いと、覚えていられる?」
「はい。長いのは家に持ち帰ると形が変わる。短いのは、そのまま持てます」
「そういう言い方、好き」
「弓さんの“好き”は貴重なので、心でメモします」
「ずるい」
「はい」
彼女が立ち上がる。
周りを一度、左右、背中側まで静かに見る。
安全の確認。
息の位置の確認。
布をほどき、笛を出す所作が、画面より遅くて、目を離せない。
一本目。短い。
でも、終わりの静けさが長い。
拍手をしない。
最後の薄い膜が空気に溶けていくのを、呼吸で見送る。
「もう一本、お願いできますか」
「欲張り」
「似合わないのに、欲張る日です」
「……うん。もう一本だけ」
二本目は、さらに短くて、柔らかい。
息の抜き方に、誰かの前で吹く“怖さ”がほどける感じが、ほんの少し混ざる。
チャックの音がかすかに鳴って、彼女が布を押し込む。
「終わり」
「ありがとうございます」
「礼、早い」
「お礼を先に言うと、今日がきれいに終わりやすい気がして」
「……その言い方、助かる」
きれいに終わる。
それは今日の合言葉。
線の話はしない。
言えば、台無しになる。
きれいに、終わる。
それでも、半歩だけ、近づきたい。
下り始める。
拳ひとつぶん、距離が縮む。
喋らなくても、足音のテンポだけで会話になる。
駅の高架が見え始めた頃、彼女の指が、リュックの前ポケットで止まった。
「……あ」
「どうしました」
「財布、家。朝、入れ替えて、そのまま。チャージ、ない」
明るい声の形は保たれている。
語尾だけ、少し上ずる。
歩幅も速度も変えない。
声の重さだけ、すこし落とす。
「提案してもいいですか」
「はい」
「駅の手前の小さなスーパーで米を買います。支払いは僕。受け取るのは弓さん。運ぶのも弓さん。改札の手前で別れます」
「運ばない」
「運びません」
「なんで米って分かったの」
「昨日の配信で、“白と茶色が切れかけ”と」
「言ったっけ」
「小さく」
「独り言、多いな、私」
「独り言が聴こえる距離に、たまたま居合わせました」
「偶然」
「偶然」
二人で笑う。
今日、何回目の偶然だろう。
便利すぎて、いつか叱られそうだ。
少なくとも、今日は許してほしい。
自動ドアが開いて、蛍光灯の白い光が落ちる。
惣菜の匂い。
レジのピッという音。
お米の棚の前で、二キロと五キロを見比べて、彼女は五キロを持つ。
腕に重さが乗る前に、ハンカチを差し出す。
「取っ手にどうぞ」
「ありがとう」
会計を済ませて、手渡すとき、指が触れない距離を測る。
触れたくないのではない。
触れたら、考えてしまうから。
考えないでいたい。
今日は、とくに。
改札の手前で止まる。
白い床に、言葉の置き場所がぽっかり空く。
時間が柔らかくなる。
呼吸が浅くなる。
こういう瞬間に、人は余計なことを言う。
言わない、と決める。
「ここまで、ありがとうございました」
「いえ」
沈黙。
終わらせ方を選ぶ沈黙。
彼女が吸って、吐いて、決める。
「……もし、よかったら、連絡先、交換します?」
すぐに頷かない。
断るわけでもない目で、まっすぐ見る。
条件を言葉にするための一拍。
「条件、決めさせてください」
「はい」
「必要なときだけ使う。名前と住所は出さない。終わるときは“ありがとう”で終わる」
「それ、好き」
「よかった」
QRの音が小さく鳴る。
画面に「弓」「森」。
短い名前が並ぶだけで、守るべきものが見やすくなる。
見やすければ、越えにくい。
越えにくければ、安心に似る。
「お米、落とさないで」
「落とさないように、ゆっくり歩きます」
「歩くの遅いの、好き」
「遅いのは、助かります」
彼女が改札を通る。
振り返る。
会釈を返す。
扉が閉まって、窓枠が彼女を連れていく。
遠くなる。
遠くなるのは、安心に似ている。
完全な安心ではないが、今日はそれでいい。
ポケットの中で、スマホが震える。
弓:無事に乗れました。
弓:ありがとうございました。
短い返事に、時間がかかる。
短くするほど、時間がかかる。
森:よかった。
森:おやすみなさい。
送信。
——もっと近づきたい、は文にならない。
文にしないことが、今日の礼儀だ。
礼儀に甘えることが、今日の自分の弱さだ。
弱さを認めて、思考を止める。
家に帰る。
靴を揃え、水を置く。
手を洗うと、さっきの取っ手のハンカチの手触りを、掌が思い出す。
連絡先の画面を開いて、閉じる。
もう一度開いて、閉じる。
三回目で、閉じたままにできた。
できた自分に、少しだけ救われる。
ベッドに横になって、天井の角を見る。
四つ。
線は四本。
一本消す想像をして、やめる。
四角のままが、安心に似る。
似ている、で十分だ。
今日は、とくに。
目を閉じる前に、短く願う。
明日も、遅く歩けますように。
必要なときだけ、二行で済みますように。
それでも、半歩だけ、近づけますように。
両方を願うのはずるい。
ずるいが、心の中だけなら、許してほしい。
⸻
翌日。
会議室の空調は、いつも強すぎる。
配った資料の角が、きちんと揃っているかを無意識に見てしまう。
言い切る文だけで進める。
説明を長くすると、形が変わってしまう。
昨日の自分への警報が、仕事にも移っているのが分かる。
それでいい。
今日は、それでいい。
昼休み、米売り場の棚の前で、五キロの袋を眺める自分に気づいて、さすがに笑ってしまう。
ハンカチの厚みのことまで考えていて、我ながら可笑しい。
誰もいない通路で、表情を元に戻す。
夜。
連絡先の画面を一度だけ開く。
何も打たないで閉じる。
閉じる速度が、昨夜より少し速い。
遅いのは助かる。
速く閉じられるのも、助かる。
その矛盾を、今日のところは、よしとする。
⸻
数日後。
通知が灯る。
「弓 夜笛配信」
開く。
最初の挨拶に、少しだけテンポの違いがある。
落ち着きに似ているが、戻りきらない何かが混ざっている。
「こんばんは。弓です」
コメント欄が賑やかになる。
最初に挨拶を打つ癖を、今日はやめる。
流れを見る。
呼吸を見る。
息継ぎの間。
話題の切り替え。
——距離を戻そうとしている。
僕も、同じ芝居をする。
「こんばんは。いい照明ですね」
彼女が少し笑う。
微細な変化に、画面のこちらまで呼吸が楽になる。
「ありがとうございます。……前より、柔らかくしたくて」
「柔らかいのは、助かります」
コメントが重なって笑いになる。
彼女は、短く吹くと言った。
一本。
名前はまだ。
短いやつ。
短い音が、前より小さく始まって、前より遠くへ行く。
終わってから、拍手の絵文字が流れる。
僕は二行、置くだけにする。
「いい音でした」
「ありがとうございました」
それだけで、十分だ。
“まだここにいる”と“まだ始まっていない”が、同時に残る。
そこに居たい。
少なくとも、今日は。
⸻
夜風を入れるために、窓を半分だけ開ける。
紙が一枚、風にめくられる。
机の角を指でそろえて、電気を消す。
歩幅を遅くする。
遅いのは助かる。
助かる、を何度も言っている自分を、少しだけ笑う。
枕元のスマホが光ることはない。
静かなままの通知欄が、救いに似る。
似る、で十分だ。
今日は、とくに。
⸻
数日たつ。
仕事の帰りに、駅のホームで立ち位置をいつもより半歩後ろにする。
扉が目の前で止まる場所じゃなくて、ひと呼吸分、遠い場所。
安全の練習。
安全に甘える練習。
甘えながら、ほんの少しだけ、欲を持つ。
(今度、また山に行くと言ったら、僕はどうするだろう。)
答えを出さない。
出さないことが、今の答えだ。
電車が滑り込んできて、風が頬を撫でる。
昨日と同じ温度。
同じ温度に、少し救われる。
⸻
ひと月のうちに、弓さんの枠は少し賑やかになっていった。
新しい常連が増えて、コメントの流れが速くなる。
僕は相変わらず、最初に挨拶を置かない日を選ぶ。
空白の作り方を、やっと覚えた。
それでも、ときどき、彼女が沈黙を怖がるのが画面越しに伝わる。
そのときだけ、短く差し込む。
「ここ、きれいですね」
「その短いの、好きです」
「水、忘れないで」
たぶん誰が読んでも、当たり障りのない言葉。
でも、彼女の肩の動きが一拍だけ軽くなる瞬間を、僕は知っている。
画面の視線の置き方、息の拾い方、声の立ち上がり。
それだけで、今日は十分だ。
十分、を自分で決める。
決められるうちは、まだ、戻れる。
戻れる、と言い聞かせる。
思考を止める練習を続ける。
それでも、半歩だけ、近づきたい。
その矛盾ごと、抱えて眠る。
——明日も、遅く歩く。
——必要なときだけ、二行で。
——きれいに終われますように。
(そして、願わくば。
また、短い音を一本だけ。
誰にも見えない角度で。
僕と、彼女だけに分かるくらいの小ささで。)




