表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/62

part6 名前のない曲


[森視点]


朝の空気が、少し澄んでいた。

街の音が遠のいて、呼吸の奥に冷たい風が落ちる。

出張前の予定を、ほんの少しだけずらす。

「寄り道してから行く」と言えば、誰も懐疑的にはならない。

理由はいらない。

ただ、行きたかった。

弓さんが「山に行く」と、あの声で言ったから。


「外で吹きたいな」

「自然の中で、山に行こっかな」


冗談みたいな軽さだった。

でも、半分だけ本気の気配が混じっていた。

そう判断してしまうのは、職業柄なのか、ただの欲なのか。

どちらでもよかった。

確かめたかった。


登山口の手前で、靴紐を結び直す。

砂利が乾いて、踏むと小さく鳴る。

風が頬を撫でて、鳥の声がすぐ近くで揺れた。

人影はない。

空は明るい。

口の中が、少しだけ乾く。


白いカーディガンが風に揺れた。

遠くの木漏れ日が、髪に反射して光る。

立ち止まる。

胸の奥で、時間がひと拍、ずれる。


(……弓さん。)


視線が合って、世界が音を取り戻す。

彼女は小さく笑って、口を開く。


「こんにちは」


「こんにちは」


マイク越しではない声は、やわらかくて、近い。

音が肌に触れる。

それだけのことで、言葉が少し遅れる。


「来てくれたんですね」


「ええ。寄り道です」


「寄り道?」


「はい。たまたま近くまで」


「ふふ、偶然って便利な言葉ですね」


「僕もよく使います」


笑いが風に混ざって、胸の奥が温かくなる。

ふだんの自分なら、ここで余計な言葉を重ねる。

今日は、黙る。

黙ることが、正解に近い気がした。


「歩きますか?」


「ええ。ただ、今日は……吹かないんですよね」


「うん。今日は風を聴く日」


(風を聴く日。言葉の置き方まで、この人は音楽だ。)


並んで歩く。

距離は、肩より少し広い。

靴と砂のこすれる音が、会話の母音みたいに続く。

沈黙がやけに居心地よくて、胸の内に、ゆっくり空気が入ってくる。


「歩くの、好きなんですか」


「うん。人がいない時だけ」


「人がいると?」


「話しかけられるから。静かなのが好き」


「わかります。僕も喋りすぎて疲れるタイプで」


「ふふ、喋りそう」


「よく言われます」


彼女が横を向く。

髪が光を受けて揺れる。

小さな影が頬をかすめて、形を変える。

その一瞬に、呼吸の長さを合わせる。


(言葉はいらない、が、言わずにいられるほど、今日は賢くない。)


踊り場のベンチが空いていた。

二人で腰を下ろす。

拳ふたつぶんの距離。

飲みかけていない冷たいペットボトルが、彼女の右手から差し出される。


「冷たいけど、どうぞ」


「ありがとうございます」


キャップが開く音が小さく鳴って、喉の奥に冷たさが落ちる。

二口でやめる。

止め方を見られている気がして、姿勢がすこしだけ正しくなる。


「昨日の配信……最初、誰もいない時間、ありましたよね」


「ありました」


「そこで、質問しました。“どの山、行くの?”って」


「見ました」


「弓さんは、少し迷ってから、名前を言いました」


「小さくね。独り言くらいの小ささで」


「独り言でした」


「独り言でした」


「偶然」


「偶然」


同じ温度で言葉が重なる。

便利だ。

今日のための言葉みたいだ。

本当のことも、守りたいことも、同じ布で包める。


「今日、吹きますか」


「一本だけ。……長いのじゃない」


「短いの、嬉しいです」


「短いと、覚えていられる?」


「はい。長いのは家に持ち帰ると形が変わる。短いのは、そのまま持てます」


「そういう言い方、好き」


「弓さんの“好き”は貴重なので、心でメモします」


「ずるい」


「はい」


彼女が立ち上がる。

周りを一度、左右、背中側まで静かに見る。

安全の確認。

息の位置の確認。

布をほどき、笛を出す所作が、画面より遅くて、目を離せない。


一本目。短い。

でも、終わりの静けさが長い。

拍手をしない。

最後の薄い膜が空気に溶けていくのを、呼吸で見送る。


「もう一本、お願いできますか」


「欲張り」


「似合わないのに、欲張る日です」


「……うん。もう一本だけ」


二本目は、さらに短くて、柔らかい。

息の抜き方に、誰かの前で吹く“怖さ”がほどける感じが、ほんの少し混ざる。

チャックの音がかすかに鳴って、彼女が布を押し込む。


「終わり」


「ありがとうございます」


「礼、早い」


「お礼を先に言うと、今日がきれいに終わりやすい気がして」


「……その言い方、助かる」


きれいに終わる。

それは今日の合言葉。

線の話はしない。

言えば、台無しになる。

きれいに、終わる。

それでも、半歩だけ、近づきたい。


下り始める。

拳ひとつぶん、距離が縮む。

喋らなくても、足音のテンポだけで会話になる。

駅の高架が見え始めた頃、彼女の指が、リュックの前ポケットで止まった。


「……あ」


「どうしました」


「財布、家。朝、入れ替えて、そのまま。チャージ、ない」


明るい声の形は保たれている。

語尾だけ、少し上ずる。

歩幅も速度も変えない。

声の重さだけ、すこし落とす。


「提案してもいいですか」


「はい」


「駅の手前の小さなスーパーで米を買います。支払いは僕。受け取るのは弓さん。運ぶのも弓さん。改札の手前で別れます」


「運ばない」


「運びません」


「なんで米って分かったの」


「昨日の配信で、“白と茶色が切れかけ”と」


「言ったっけ」


「小さく」


「独り言、多いな、私」


「独り言が聴こえる距離に、たまたま居合わせました」


「偶然」


「偶然」


二人で笑う。

今日、何回目の偶然だろう。

便利すぎて、いつか叱られそうだ。

少なくとも、今日は許してほしい。


自動ドアが開いて、蛍光灯の白い光が落ちる。

惣菜の匂い。

レジのピッという音。

お米の棚の前で、二キロと五キロを見比べて、彼女は五キロを持つ。

腕に重さが乗る前に、ハンカチを差し出す。


「取っ手にどうぞ」


「ありがとう」


会計を済ませて、手渡すとき、指が触れない距離を測る。

触れたくないのではない。

触れたら、考えてしまうから。

考えないでいたい。

今日は、とくに。


改札の手前で止まる。

白い床に、言葉の置き場所がぽっかり空く。

時間が柔らかくなる。

呼吸が浅くなる。

こういう瞬間に、人は余計なことを言う。

言わない、と決める。


「ここまで、ありがとうございました」


「いえ」


沈黙。

終わらせ方を選ぶ沈黙。

彼女が吸って、吐いて、決める。


「……もし、よかったら、連絡先、交換します?」


すぐに頷かない。

断るわけでもない目で、まっすぐ見る。

条件を言葉にするための一拍。


「条件、決めさせてください」


「はい」


「必要なときだけ使う。名前と住所は出さない。終わるときは“ありがとう”で終わる」


「それ、好き」


「よかった」


QRの音が小さく鳴る。

画面に「弓」「森」。

短い名前が並ぶだけで、守るべきものが見やすくなる。

見やすければ、越えにくい。

越えにくければ、安心に似る。


「お米、落とさないで」


「落とさないように、ゆっくり歩きます」


「歩くの遅いの、好き」


「遅いのは、助かります」


彼女が改札を通る。

振り返る。

会釈を返す。

扉が閉まって、窓枠が彼女を連れていく。

遠くなる。

遠くなるのは、安心に似ている。

完全な安心ではないが、今日はそれでいい。


ポケットの中で、スマホが震える。


弓:無事に乗れました。

弓:ありがとうございました。


短い返事に、時間がかかる。

短くするほど、時間がかかる。


森:よかった。

森:おやすみなさい。


送信。

——もっと近づきたい、は文にならない。

文にしないことが、今日の礼儀だ。

礼儀に甘えることが、今日の自分の弱さだ。

弱さを認めて、思考を止める。


家に帰る。

靴を揃え、水を置く。

手を洗うと、さっきの取っ手のハンカチの手触りを、掌が思い出す。

連絡先の画面を開いて、閉じる。

もう一度開いて、閉じる。

三回目で、閉じたままにできた。

できた自分に、少しだけ救われる。


ベッドに横になって、天井の角を見る。

四つ。

線は四本。

一本消す想像をして、やめる。

四角のままが、安心に似る。

似ている、で十分だ。

今日は、とくに。


目を閉じる前に、短く願う。

明日も、遅く歩けますように。

必要なときだけ、二行で済みますように。

それでも、半歩だけ、近づけますように。

両方を願うのはずるい。

ずるいが、心の中だけなら、許してほしい。



翌日。

会議室の空調は、いつも強すぎる。

配った資料の角が、きちんと揃っているかを無意識に見てしまう。

言い切る文だけで進める。

説明を長くすると、形が変わってしまう。

昨日の自分への警報が、仕事にも移っているのが分かる。

それでいい。

今日は、それでいい。


昼休み、米売り場の棚の前で、五キロの袋を眺める自分に気づいて、さすがに笑ってしまう。

ハンカチの厚みのことまで考えていて、我ながら可笑しい。

誰もいない通路で、表情を元に戻す。


夜。

連絡先の画面を一度だけ開く。

何も打たないで閉じる。

閉じる速度が、昨夜より少し速い。

遅いのは助かる。

速く閉じられるのも、助かる。

その矛盾を、今日のところは、よしとする。



数日後。

通知が灯る。

「弓 夜笛配信」

開く。

最初の挨拶に、少しだけテンポの違いがある。

落ち着きに似ているが、戻りきらない何かが混ざっている。


「こんばんは。弓です」


コメント欄が賑やかになる。

最初に挨拶を打つ癖を、今日はやめる。

流れを見る。

呼吸を見る。

息継ぎの間。

話題の切り替え。

——距離を戻そうとしている。

僕も、同じ芝居をする。


「こんばんは。いい照明ですね」


彼女が少し笑う。

微細な変化に、画面のこちらまで呼吸が楽になる。


「ありがとうございます。……前より、柔らかくしたくて」


「柔らかいのは、助かります」


コメントが重なって笑いになる。

彼女は、短く吹くと言った。

一本。

名前はまだ。

短いやつ。


短い音が、前より小さく始まって、前より遠くへ行く。

終わってから、拍手の絵文字が流れる。

僕は二行、置くだけにする。


「いい音でした」

「ありがとうございました」


それだけで、十分だ。

“まだここにいる”と“まだ始まっていない”が、同時に残る。

そこに居たい。

少なくとも、今日は。



夜風を入れるために、窓を半分だけ開ける。

紙が一枚、風にめくられる。

机の角を指でそろえて、電気を消す。

歩幅を遅くする。

遅いのは助かる。

助かる、を何度も言っている自分を、少しだけ笑う。


枕元のスマホが光ることはない。

静かなままの通知欄が、救いに似る。

似る、で十分だ。

今日は、とくに。



数日たつ。

仕事の帰りに、駅のホームで立ち位置をいつもより半歩後ろにする。

扉が目の前で止まる場所じゃなくて、ひと呼吸分、遠い場所。

安全の練習。

安全に甘える練習。

甘えながら、ほんの少しだけ、欲を持つ。


(今度、また山に行くと言ったら、僕はどうするだろう。)


答えを出さない。

出さないことが、今の答えだ。

電車が滑り込んできて、風が頬を撫でる。

昨日と同じ温度。

同じ温度に、少し救われる。



ひと月のうちに、弓さんの枠は少し賑やかになっていった。

新しい常連が増えて、コメントの流れが速くなる。

僕は相変わらず、最初に挨拶を置かない日を選ぶ。

空白の作り方を、やっと覚えた。

それでも、ときどき、彼女が沈黙を怖がるのが画面越しに伝わる。

そのときだけ、短く差し込む。


「ここ、きれいですね」

「その短いの、好きです」

「水、忘れないで」


たぶん誰が読んでも、当たり障りのない言葉。

でも、彼女の肩の動きが一拍だけ軽くなる瞬間を、僕は知っている。

画面の視線の置き方、息の拾い方、声の立ち上がり。

それだけで、今日は十分だ。

十分、を自分で決める。

決められるうちは、まだ、戻れる。


戻れる、と言い聞かせる。

思考を止める練習を続ける。

それでも、半歩だけ、近づきたい。

その矛盾ごと、抱えて眠る。


——明日も、遅く歩く。

——必要なときだけ、二行で。

——きれいに終われますように。


(そして、願わくば。

 また、短い音を一本だけ。

 誰にも見えない角度で。

 僕と、彼女だけに分かるくらいの小ささで。)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ