part59 嵐中の静けさ
【弓視点】
「今、大丈夫だった?」
窓の外が、白っぽい。
夕方の光が、部屋の角を薄く削っていく。
「うん」
森さんの返事は短い。
短いけど。
短いから、わかる。
「……ごめんね」
私は、言ってから気づく。
何を謝ってるのか、自分でも曖昧だ。
「謝ることじゃないよ」
森さんが言う。
いつもみたいに、言う。
でも、いつもより少し遅い。
「人生って難しいね、ってLINE」
私は息を吸う。
「見たとき、喉が詰まった」
(あの文面は、森さんの癖だ。)
(軽く言うふりをして、軽くない。)
「そうか」
一拍。
「仕事中だった?」
「昼休み」
私は頷く。
頷いたところで、伝わらないのに。
「ごはん食べた?」
「食べたよ」
「えらい」
自分でも、変な褒め方だと思う。
でも、こういう時は、こういうのがいい。
森さんは、笑うでもなく。
でも、少し息が抜けた音がする。
「……弓、今どこ」
「家」
私はテーブルの上を見る。
ケースが二つ。
小さいのと、大きいの。
「今日も練習してた?」
「うん」
「忙しいのに」
「忙しいからする」
一拍。
「忙しい方が、頭が静かになるから」
(これは、ほんと。)
(音があると、余計なことが減る。)
「そういうとこ、弓だな」
森さんの声が、少しだけ戻る。
それが、嬉しい。
嬉しいけど。
嬉しいって言葉を、今は置かない。
「森さんは」
私は指先でケースの縁をなぞる。
「どうしたの」
言った瞬間、声が柔らかくなりすぎるのがわかる。
(でも、今日はいい。)
「……いや」
森さんが言いかけて止まる。
止まる音が、電話の向こうで沈む。
「言うの、怖い?」
「怖いっていうか」
「うん」
「言ったら、現実になる感じ」
「……現実じゃないの?」
言ってから、少しだけ後悔する。
きつい。
でも、きつい言い方じゃない。
ただ、確認。
森さんは、すぐに返さない。
「……現実だよ」
「そっか」
私は、息を吐く。
「じゃあ、聞く」
一拍。
「聞くけど、私は上手く返せないよ」
「それでいい」
森さんが、即答する。
その即答が、逆に重い。
重いっていうより。
必要とされる形が、わかる。
「俺、離婚することになった」
言い方が、軽い。
軽いのに。
重い。
(森さんは、こういう時、軽く言う。)
(軽く言うのは、守るため。)
「……え」
私は、声が小さくなる。
部屋の音が消える。
外の車の音も、遠い。
「うそ」
「ほんと」
「いつ」
「最近」
森さんは言葉を選んでいる。
「最近、って、いつ」
私は聞く。
聞き方が、少しだけ詰める形になる。
(詰めたいわけじゃない。)
(状況がわからないのが、怖い。)
「この数週間」
「奥さんは」
「出てった」
一拍。
「実家に」
私は手のひらを見てしまう。
なにも書いてないのに。
「……森さん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
森さんが言う。
その言い方が、真っ直ぐで。
逆に、胸がきゅっとする。
「でも、大丈夫って言わないと、崩れる」
「崩れていいよ」
「崩れたら、仕事が終わる」
森さんの声に、疲れが滲む。
(森さんは、仕事のこと、いつも最後にする。)
(今日は最初に出てる。)
「仕事、覚えてる途中なんだよね」
私が言うと。
森さんが短く「うん」と返す。
「……それなのに、こんな」
「こんな、って言わない」
私は言う。
一拍。
「起きたことは、起きたこと」
「弓、冷たいな」
森さんが、冗談みたいに言う。
私は、ほんの少しだけ安心する。
冗談の形が戻ってる。
「冷たくない」
「うん」
森さんの声が柔らかい。
「冷たくない」
私はもう一回言う。
「私、冷たくできない」
(森さんに対して、冷たくできない。)
(それは、たぶん、今も。)
「……ありがとう」
森さんが言う。
その「ありがとう」が、少し遅い。
「でも、言うの迷った」
「うん」
「弓の負担になるって思った」
「負担じゃないよ」
私は言う。
一拍。
「負担って言うなら、森さんが一人で抱える方が、私には負担」
森さんが黙る。
黙って、呼吸だけが聞こえる。
(今の、言い過ぎかな。)
(でも、嘘じゃない。)
「……そういう言い方」
森さんが言う。
「前も、そうだったな」
私は胸の奥が少しだけ熱くなる。
前。
その言葉が、ここに混ざるのが嫌なのに。
嫌って言うほど、嫌じゃない。
でも、揺れる。
「前って、いつ」
私は、わざと知らないふりをする。
森さんは、わざとわかってる。
「海のとき」
森さんが言う。
私は、笑ってしまいそうになるのを抑える。
(海は、まだ言わないって決めたのに。)
(森さんが言うのは、いい。)
「……あのとき、森さん、やさしかった」
「やさしかったのは、弓だよ」
「違う」
私は言う。
一拍。
「私は、ただ、行きたかっただけ」
森さんが小さく笑う。
「それが、やさしさだよ」
私は返さない。
返すと、話が逸れる。
今日は逸らしたくない。
「奥さん、なんて言ったの」
「もう、自由にさせてほしいって」
森さんの声が、少しだけ擦れる。
「……それ、きついね」
「きつい」
一拍。
「でも、そう言われる理由も、わかる」
森さんが言う。
わかる、って言う人は、だいたい自分を責めている。
「理由、わかる?」
「わかる」
「森さんが悪いの?」
「悪い、とかじゃない」
森さんはすぐに否定する。
否定の仕方が、丁寧すぎる。
「悪い、とかじゃないけど」
一拍。
「俺が、ちゃんと向き合ってなかった部分もある」
私は、唇を噛む。
(向き合うって、なに。)
(向き合うって、できる人とできない人がいる。)
「森さん」
「うん」
「森さんは、向き合ってたよ」
「……向き合ってない」
「向き合ってた」
私の声が少し強くなる。
「だって、逃げてない」
森さんが黙る。
「逃げてない人は、向き合ってる」
私は続ける。
一拍。
「逃げるって、ほんとに消えることだから」
森さんの呼吸が深くなる。
「……弓」
「うん」
「弓も、逃げたことあるだろ」
私は、一瞬、言葉が止まる。
(ある。)
(あるけど。)
(それを言われると、痛い。)
「あるよ」
私は言う。
「でも、私は、逃げたって言わない」
「なんで」
「逃げたって言うと、私が私じゃなくなる」
森さんが、また黙る。
「……そういうとこ」
森さんが言う。
「弓って、強いんだよな」
「強くない」
私は言う。
一拍。
「強いふりはできる」
「それが強さだよ」
私は、ケースを少しだけ押さえる。
「森さん」
「うん」
「今、家?」
「家」
「ひとり?」
「ひとり」
「部屋、寒い?」
「寒いっていうか」
森さんが言う。
「音がないのが寒い」
私は、その言葉が刺さる。
音がないのが寒い。
(わかる。)
(私も、音がないと、だめになる。)
「じゃあ」
私は言う。
一拍。
「音、つけて」
「音?」
「テレビでも、ラジオでも」
「……今、弓の声があるけど」
「それ、今だけ」
私は笑う。
「私、ずっと喋れない」
「たしかに」
森さんも少し笑う。
その笑いが、少しだけ救いになる。
「……弓」
森さんが言う。
「ごめんな」
「なにが」
「こんなの言って」
「言ってよかった」
私は即答する。
一拍。
「言ってくれないと、私、後から知るのが嫌」
「後から?」
「誰かの噂とかで」
森さんが息を吐く。
「……そうだよな」
「うん」
私は頷く。
「森さんは、私のこと、どう思ってLINE送ったの」
「……どう思って、って」
森さんが言葉を探す。
「誰にも言えないって思った」
「うん」
「でも、弓なら」
一拍。
「聞いてくれるかなって」
私は、少しだけ目を閉じる。
(聞く。)
(聞くよ。)
(聞くけど、私は、受け止めきれない。)
「聞くよ」
私は言う。
一拍。
「でも、私、上手に慰められない」
「慰めてほしいわけじゃない」
森さんが言う。
「ただ、聞いてほしい」
「うん」
私は、呼吸を整える。
「今、泣きそう?」
「泣きそうっていうか」
森さんが言う。
「泣くタイミングがわからない」
その言い方が、森さんだ。
(泣くタイミングがわからない、って。)
(泣けない人の言い方。)
「じゃあ、泣かなくていい」
私は言う。
一拍。
「泣かないで、いい」
「……弓は泣く?」
「泣かない」
「嘘」
森さんが言う。
「嘘じゃない」
「泣くくせに」
私は少し笑う。
「泣くけど、泣かない」
森さんがまた笑う。
「それ、意味わからん」
「意味わからない方がいい」
私は言う。
一拍。
「意味わかると、しんどい」
森さんが、短く「うん」と返す。
「森さん」
私は声を落とす。
「今日、寝れる?」
「寝れると思う」
「思う、か」
「寝ないと、明日死ぬ」
「死なない」
「死ぬ」
森さんが言う。
私は言い返す。
「死なない」
一拍。
「死なないけど、きつい」
「きつい」
森さんが、素直に言う。
「……弓」
「うん」
「弓は、最近どう」
私は、少し困る。
(最近。)
(最近は、音ばっかり。)
(音ばっかりで、他は空っぽ。)
「最近は」
私は、ケースの留め具に触れる。
「楽器が増えた」
「増えた?」
「増えた」
「また?」
「また」
森さんが小さく笑う。
「弓らしいな」
「らしい、ってなに」
「音に逃げる」
私は、少しだけムッとする。
でも、否定できない。
「逃げてない」
「逃げてる」
森さんが言う。
「逃げてるけど、逃げてない」
私が言う。
一拍。
「音は、私の場所だから」
森さんが静かになる。
「……どんなの増えたの」
「秘密」
「なんで」
「まだ、ちゃんと鳴らせてないから」
(ちゃんと鳴らせてない。)
(それが悔しい。)
(だから言いたくない。)
「弓、そういうとこ」
森さんが言う。
「変なプライドあるよな」
「あるよ」
私は、即答する。
一拍。
「だって、高いんだもん」
森さんが、息を吐いて笑う。
「高いよな、楽器」
「高い」
私は言う。
「でも」
一拍。
「安いので誤魔化すの、もう嫌になってきた」
「……成長したな」
「うん」
私は、短く答える。
「成長した」
(成長した、って言っていいのは、音のことだけ。)
「自分で判断できるようになった」
私は続ける。
「良いものがわかる」
一拍。
「わかるから、欲しくなる」
「わかるから、苦しくなる」
森さんが言う。
「そう」
私は言う。
「わかるから、逃げられない」
森さんが、少しだけ息を吸う。
「弓、教えるのも上手いもんな」
「うん」
私は頷く。
「音のことなら、言える」
一拍。
「音のことなら、言葉になる」
「それ、すごいことだよ」
森さんが言う。
私は、少しだけ黙る。
(すごいのかな。)
(でも、森さんが言うと、すごい気がする。)
「森さん」
私は声を柔らかくする。
「私さ」
一拍。
「森さんのLINE、見たとき」
「うん」
「びっくりして」
「うん」
「でも」
私は言葉を探す。
「変に、落ち着いた」
森さんが黙る。
「落ち着いた?」
「うん」
私は言う。
「森さんが困ったとき」
一拍。
「私が、森さんに声かけるのは、変じゃない」
森さんが、少しだけ笑う。
「変だよ」
「変じゃない」
「弓、優しいんだよ」
「優しくない」
私は言う。
一拍。
「私は、ただ、森さんがどうでもいい人じゃないだけ」
森さんの呼吸が、少し深くなる。
「……弓」
「うん」
「ありがとう」
「うん」
私は言う。
「ありがとう、じゃない」
一拍。
「まだ、なにもしてない」
「話を聞いてくれてる」
「聞いてるだけ」
「それが、今、でかい」
森さんの声が、少しだけ震える。
震えてるのに、震えてないふりをしている。
(森さん。)
(森さんは、こういう人。)
「……森さん」
私は指先を握る。
「今、ひとりでいるの、きつい?」
「きつい」
「じゃあ」
私は言う。
一拍。
「今日、もうちょっとだけ話す?」
森さんが少し黙って。
「いいのか」
って言う。
「いいよ」
私は即答する。
「じゃあ、もうちょっと」
森さんの声が、少しだけ軽くなる。
軽くなるけど。
軽くなりきらない。
「弓はさ」
森さんが言う。
「なんで、俺に電話しようと思った」
私は一瞬、止まる。
(なんで。)
(普段なら、追いLINEしない。)
(普段なら、忙しいって言って終わらせる。)
「……なんでだろ」
私は言う。
一拍。
「なんか」
「うん」
「今回は、ちょっと違った」
森さんが黙る。
「違った?」
「違った」
私は言う。
「放っておいたら」
一拍。
「森さん、変に笑って終わらせそうだったから」
森さんが息を吐く。
「……バレてるな」
「バレるよ」
私は言う。
「だって、森さん、いつもそう」
森さんが小さく笑う。
「弓の前では、隠せないな」
「隠さなくていいよ」
私は言う。
一拍。
「隠される方が、私が困る」
森さんが黙る。
「……困る?」
「困る」
私は言う。
「どうしたらいいか、わからないけど」
一拍。
「わからないって思うのが、嫌」
森さんが、短く「うん」と言う。
「森さん」
「うん」
「今さ」
私は、少しだけ部屋を見回す。
楽器が増えた部屋。
増えたのに、まだ足りない感じがする部屋。
「森さんの家」
一拍。
「音、ほんとにないの?」
「ない」
森さんが言う。
「冷蔵庫の音ぐらい」
「じゃあ」
私は言う。
「窓、開けて」
「寒い」
「一瞬でいい」
森さんが少し笑う。
「弓、変なこと言うな」
「変じゃない」
私は言う。
一拍。
「外の音、聞いて」
森さんが、少し間を置く。
「……今、開けた」
電話の向こうで、空気が変わる。
遠くで車の音。
風の音。
「聞こえる?」
「聞こえる」
森さんが言う。
「それ」
私は言う。
一拍。
「生きてる音」
森さんが、黙る。
黙って、呼吸だけが返ってくる。
「……弓」
森さんが言う。
「弓、そういうこと言うんだな」
「言うよ」
私は言う。
「音のことなら」
一拍。
「言える」
森さんが、ゆっくり息を吐く。
「……ありがとう」
「うん」
私は言う。
「今のは、ありがとうでいい」
森さんが小さく笑う。
「弓、成長したな」
「したよ」
私は言う。
「音だけ」
一拍。
「音だけは、ちゃんと成長した」
森さんが「それで十分だよ」と言う。
私は、その言葉を胸の中に置く。
置くけど。
まだ、温度が合わない。
温度が合わないまま、置く。
「森さん」
「うん」
私は少し迷う。
迷ってから、言う。
「……今日さ」
一拍。
「もし、森さんが耐えられなくなったら」
「うん」
「また、電話して」
森さんが黙る。
「……それ、重くないか」
「重くない」
私は言う。
一拍。
「今は、重くない」
森さんが、少しだけ笑う。
「今は、って言い方」
「今は、って大事」
私は言う。
「先のこと、わからないから」
森さんが「そうだな」と返す。
「……弓」
森さんが言う。
「弓は、優しいよ」
「優しくない」
私は言う。
一拍。
「私は、ただ、森さんが嫌いじゃないだけ」
森さんが黙って。
少しだけ、息を吸う。
「それで、十分だよ」
森さんの声が、少しだけ落ち着く。
私は、胸の奥の音を聞く。
自分の心臓。
それが、一定になっていく。
(今日は、ここから先がある。)
(でも、今日は、ここまででいい。)
私は、次の言葉を飲み込む。
飲み込んで、息だけにする。
「……森さん」
「うん」
「もう少しだけ、話そ」
「うん」
森さんの返事が、今度は少し早い。
電話の向こうで、風の音がまだ残っている。
窓が開いたままなんだろう。
それが、少しだけ安心になる。
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