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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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part58 コネクト

【弓視点】


朝の光は薄い。

カーテンの隙間にだけ、白い線が落ちている。

部屋の空気がまだ冷たくて、息が短くなる。

布団の中で、指先だけが先に起きる。


スマホは枕元にある。

画面を点ける前に、私は一回だけ深呼吸をする。

(今日は何が来てるんだろう。)

そんなことを考える癖がついた。


昨日も配信をした。

夜が深いほど、私は元気に見える。

元気に見えるように、声を作る。

明るい言葉を選ぶ。

笑い方を、いつもより少しだけ大きくする。


本当は眠い。

本当は、洗い物が溜まってる。

本当は、楽器を拭かなきゃいけない。

本当は、譜面も開かなきゃいけない。

(でも、配信が始まると、そっちが先。)


私の部屋には、楽器が増えた。

壁際に立てたケースが、いつの間にか二つになって。

三つになって。

そこに、細い袋みたいなものがぶら下がって。

棚の上に、手入れ用のオイルが並ぶ。


楽器は高い。

私の生活は、余裕があるわけじゃない。

けど、もう「わからないから安いのでいい」とは言えなくなった。

音の立ち上がり。

息の抜け方。

指の滑り。

鳴らした瞬間に、身体のどこが反応するか。

それが、自分でわかるようになってしまった。


それは、いいことだと思う。

その代わり、選ぶのが苦しくなる。

(これなら安くてもいい。)

(これは、安くしちゃだめ。)

そういう境界線が、わかってしまう。


昔は、誰かに言われたまま買えた。

「これがいいよ」って言われたら。

「そうなんだ」って。

お金さえ出せば、判断は預けられた。

でも今は違う。

私が決める。

私の音になる。

だから、逃げられない。


そのぶん、誇らしくもある。

誰にも見えないところで、私だけが知ってる成長。

ケースの重さが増えた分だけ、私は前に進んでいる。

そんな気がする。


忙しい。

忙しいのは、ありがたい。

ライブのサポート。

合同ライブ。

知り合いのツテ。

配信時間の拡大。

練習の時間。

移動の時間。

連絡の返信。


忙しいと、スマホは触らない。

触りたくても、触れない。

触り始めると、全部が溶けるから。


だけど、配信アプリだけは見る。

癖みたいに。

自分の枠の数字。

通知。

タイムライン。

誰が来たか。

誰が離れたか。


LINEは、見ない。

見ない、というより。

見ようとする前に、別のことが始まってしまう。

それで、翌日の昼になる。


キッチンで水を流しているときだった。

蛇口の音が、思ったより大きい。

水の匂いが立つ。

眠気が、まだ皮膚の内側に残っている。


ふと、スマホが目に入る。

画面は黒い。

黒いままの板。

私は濡れた手を拭いて、持ち上げる。


通知が溜まっている。

その中に、森さんの名前がある。


心臓が、一拍遅れて鳴る。

(森さん。)

声に出さないのに、口の中が少し乾く。


私は、画面を開く。

文面は軽い。

軽いふりをしている。

軽いふりの奥に、硬いものが見える。


「独り身になってしまいました、あはは」


……え。

息が止まる。

水の音が遠くなる。

指先だけが冷たくなる。


(どういうこと。)

(独り身って、どういう意味。)

私は、すぐに文章の続きを探す。

ない。

軽い文だけが、そこに置かれている。


私は、スマホを持ったまま、流しの前で立っている。

足元の床が、少しだけ傾いて見える。

気のせい。

自分でそう言い聞かせる。


森さんの家庭のことは、私は全部は知らない。

全部は、聞いていない。

聞く場所じゃない。

そういう線は、ずっと二人の間にあった。


それでも。

それでも、私は知ってる。

森さんが軽く言うときほど、本当は軽くないこと。

だから、怖い。


(返信しなきゃ。)

(でも、何て。)


私は、親指を置く。

一文字目が出ない。

背中が、薄く汗をかく。

部屋の湿度が急に上がったみたいに感じる。


とりあえず。

とりあえず、聞くしかない。

私は短く打つ。


「え……どういうこと?」


送信。

青い矢印が飛ぶ。

それだけで、少しだけ肩が落ちる。

やっと呼吸が戻る。


すぐ返事が来るとは思わない。

森さんも忙しい。

私も忙しい。

そして、こういう話は、すぐ返すものじゃない。

(すぐ返せるなら、最初からこんな言い方しない。)

そう思う。


それでも私は、画面を閉じない。

閉じたら、見なかったことにしてしまいそうだから。


テーブルの上に、練習用の譜面が開いている。

ページの端が少し反っている。

昨日、急いで閉じた跡。

その横に、クロス。

息を通した楽器の匂いが、まだ残っている。


私は、楽器ケースに手を置く。

硬い。

冷たい。

その感触で、少し落ち着く。

(私は音楽の人。)

(そうじゃないと、私は揺れる。)


スマホが震える。

通知。

森さん。


「人生って難しいね」


その一行が、胸の真ん中に落ちる。

音がしないのに、鈍い音がした気がする。

(難しいね、って。)

(それ、何を指して言ってるの。)


私は、文字を追いながら、指先に力が入っているのに気づく。

爪が白い。

私は、手を緩める。


森さんは、今。

誰にも言えない場所にいる。

そんな気がする。

誰かに言いたいのに、言えない場所。

言葉が外に出ない場所。


私は、そこに触ってしまった。

触ってしまったのに、もう引けない。


(大丈夫かな。)

(大丈夫じゃないよね。)


いつもなら、私は考えない。

考えないというより、考える前に別のことが始まる。

配信。

練習。

準備。

眠気。

日々。


でも今回は、少し違う。

森さんの文章が、私の時間を止めた。

止められるのが、怖い。

止めたままにするのが、もっと怖い。


私は、もう一度打つ。

短く。

遠くから投げるみたいに。


「大丈夫?」


送って、すぐに後悔する。

大丈夫って何。

大丈夫じゃないに決まってる。

(でも、それしか言えない。)


私は、キッチンの椅子に座る。

背もたれが冷たい。

窓の外は、昼の光。

昼の光は、夜より残酷だ。

全部が見える。

逃げ場がない。


配信アプリを開いてしまう。

癖だ。

ホーム画面の上に、待機の表示が出る。


「しばらくお待ちください」


その文字を見て、変な笑いが出そうになる。

(いま、待ってるのはどっちだろう。)

私は笑えない。

喉が詰まる。


言葉が、上に上がってこない。

胸の奥で、何かが引っかかっている。

それが何なのか、ちゃんとはわからない。


ただ、放っておけない。

それだけは、はっきりしていた。


私はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。

画面は明るいまま。

森さんの名前が、そこにある。


人生って難しいね。


その一文が、何度も頭の中で反響する。

軽い言葉のはずなのに、

奥に沈んでいく感じがした。


(これ、LINEで済む話じゃない。)


そう思った瞬間、

自分でも少し驚いた。


普段の私なら、

「そうだね」

「大丈夫だよ」

そんな短い言葉を返して、

あとは時間に任せていたと思う。


でも、今回は違った。


森さんの言葉が、

今までと同じ場所から出ていない気がした。

もっと深いところ。

普段は触れないところ。


私は、指先に力を入れる。

画面を強く押さないように、気をつけながら。


(聞いたほうがいい。)

(聞かないと、たぶん後で後悔する。)


それは義務感じゃない。

責任でもない。


ただ、

どうでもいい相手ではない、

それだけ。


私は文字を打つ。

少し迷って、消して、

また打つ。


「……電話、してもいい?」


送信。


追いLINEは、ほとんどしない。

自分から踏み込むのも、あまり得意じゃない。

それでも、今回は指が止まらなかった。


既読がつくまでの時間が、

やけに長く感じる。


キッチンの時計が、

一秒ずつ音を立てて進む。

カチ、カチ、という音が、

やたら大きい。


(断られてもいい。)

(今は無理って言われてもいい。)


そう思おうとするけど、

胸の奥は、少しだけ不安でざわついている。


スマホが震える。


「いいよ」


短い返事。

でも、それで十分だった。


私は画面を閉じて、

一度だけ目を閉じる。

肩の力が、ほんの少し抜ける。


電話をかける前に、

息を整える。


配信の声じゃない。

明るく作る声でもない。


ちゃんと聞くための声。

ちゃんと話すための声。


私は通話ボタンを押す。


呼び出し音が鳴る。

電子音が、一定の間隔で続く。


その間、

私は自分の部屋を見回す。


増えた楽器。

積み重なったケース。

手入れの行き届いた金属の光。


ここまで来た。

ここまで積み重ねた。


それでも、

人の気持ちは、

音みたいには扱えない。


呼び出し音が止まる。


繋がる直前の、

一瞬の静けさ。


私は、少しだけ背筋を伸ばす。


「もしもし」

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