表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

57/62

part57 ステップ

【森視点】


我が家は五人家族だった。


俺と、妻と、子どもが三人。


子どもたちは三人とも、もう巣立っている。


家は広いままだ。

広いまま、音だけが減った。



結婚は十九でした。

早い。

今ならそう言われる。

だからこそ子供も、もう巣立っている。


当時の俺は、早く結婚したかった。

恋愛が嫌いだった。


好きとか、嫌いとか。

その二文字で、心が振り回されるのがしんどかった。


自分の感情が、思ったより敏感だという自覚があった。

だから、抜けたかった。


恋愛という不安定な場所から。

できれば、早く。



妻と出会ったのは、その流れの中だった。


妻は俺より年上だった。


頭が良かった。


綺麗だった。


愛嬌があった。


声をかけられやすい人だった。


それは、外から見ると羨ましい種類の魅力だった。


でも、本人はそれを誇りにしていなかった。


むしろ、疲れると言った。


気を遣う性格だった。


気を遣うから、人を寄せる。


人が寄るから、もっと気を遣う。


その循環で、疲れていた。



「人と関わらなくていい場所に行きたい」


妻は、時々そう言った。


静かなところ。


誰にも見られないところ。


俺も似たところがあった。


似ている、と思った。


似ているから、うまくいくと思った。


でも、似ていることは、分かり合えることとは違った。



二人とも、気を遣った。


相手に気を遣わせないように、気を遣った。


弱音は吐かない。


吐けば、相手が気を遣う。


本音は晒さない。


晒せば、相手が気を遣う。


俺たちは、たぶん、ずっと鎧を着ていた。



良かれと思ってやることが、裏目になることがあった。


うまくいかない理由が、見えない。


見えないから、直せない。


直せないから、また気を遣う。


気を遣うから、言わない。


言わないから、伝わらない。


その繰り返しだった。



それでも、生活は続いた。


子どもが育った。


忙しさが、間を埋めた。


用事が、感情を押し流した。


押し流されたものは、なくなったわけじゃない。


ただ、底に沈んだ。


沈んだまま、溜まった。



子どもが巣立ってから、家は静かになった。


静かになって、沈んだものが浮き上がるようになった。


逃げ場が減った。


埋める音が減った。


二人の鎧の、擦れる音だけが残った。



俺は最近まで、仕事を覚えるので必死だった。


新しい資格を取った。


その資格を持って、現場で一年やった。


前の仕事は、人を引っ張る立場だった。


その役職を捨てた。


全くの異業種に転職した。


自分の技術で飯を食える場所が欲しかった。


何があっても。


自分が一人下がれば、なんとかなる場所が欲しかった。



人を助けるのが嫌いになったわけじゃない。


ただ、疲れた。


人の期待を背負うのに疲れた。


助けたい気持ちはあるのに、体が動かない日が増えた。


その矛盾を、家に持ち帰りたくなかった。


持ち帰ってしまっているのに。


持ち帰りたくなかった。



そんな中で、妻が少し暗かった。


最初は、気のせいだと思った。


俺が忙しいから、そう見えるだけだと思った。


妻も疲れているのだと思った。


でも、暗さは消えなかった。


むしろ、形を変えていった。



ある日、妻が言った。


「もう、私を自由にしてください」


声は静かだった。


静かなのに、揺れなかった。


揺れない言葉は、怖い。


怒鳴られた方が、まだ分かる。


泣かれた方が、まだ触れられる。


でも、妻は泣かなかった。


淡々としていた。



俺は返事を探した。


探したまま、言葉が出なかった。


出なかったというより。


出せなかった。


「どうして」


そう言いたかった。


でも、それは自分が聞く言葉じゃない気がした。


俺は、今までの積み上げに、目を向けないできた。


妻は、ずっと前から向き合っていた。


その差が、今ここに出た。



妻は言った。


「前から考えてた」


「準備もしてた」


準備。


その言葉が、胸に刺さった。


俺だけが、今日を生きていた。


妻は、ずっと先の今日を生きていた。



「気を遣い続けるのが、もう無理」


妻はそう言った。


俺は思った。


気を遣うことなんて、離れることに比べれば些細だろう、と。


些細だから、耐えればいい、と。


その考えが、もう妻には届かなかった。


妻にとっては、それが“些細じゃない”日々だった。



俺は、なんだかんだで妻を愛していた。


気を遣っている、ということは。


大事にしている、ということだと思っていた。


大事にしているから、黙るのだと。


大事にしているから、我慢するのだと。


そう思っていた。


妻は、そうは受け取っていなかった。



悲しい。


寂しい。


つらい。


その言葉を、口に出すのが怖かった。


言った瞬間に、安っぽくなる気がした。


本当に痛いのに。


言葉の形にすると、嘘みたいになる。


だから、黙った。


黙る癖は、こういうときに最悪だ。



「もっと頑張るから」


それも言えなかった。


頑張る、という言葉が。


結局また、妻に何かを背負わせる気がした。


妻が欲しいのは、頑張りじゃなかった。


自由だった。


その自由を、俺は今まで渡してこなかった。



妻の動きは早かった。


本当に、準備していた。


書類。


手続き。


段取り。


淡々と進んでいく。


俺だけが、そこに置いていかれていた。



金銭面の分与は、妻の言う通りにした。


争う気持ちは湧かなかった。


争えば、勝つか負けるかの話になる。


そうじゃない。


そうじゃないことだけが、分かっていた。


俺は、黙って頷いた。



「弁護士とか、そういうのはいい」


妻は言った。


俺も、そう思った。


争って勝っても。


戻るものが戻るわけじゃない。


戻ってほしいのは、関係じゃない。


時間だった。


時間は戻らない。


だから、争う意味がない。



妻は実家に帰っていった。


荷物は、思ったより少なかった。


少ないことが、余計につらかった。


それだけでいいのか、と思った。


それだけで、全部が終われるのか、と思った。



車のドアが閉まる音がした。


一回。


もう一回。


二回目はトランクだった。


その音が、妙に澄んでいた。


澄んでいる音は、切れる。


切れた音は、戻らない。


戻らないことだけが、分かった。



家の中が静かになった。


冷蔵庫の低い唸りが、夜になると大きい。


換気扇の音がない。


食器の音がない。


ドライヤーの風がない。


足音がない。


俺の足音だけがある。



靴を揃えた。


誰も見ていない。


見ていないのに、揃えた。


揃えないと、落ち着かない。


落ち着かないものが、増えすぎている。


だから、揃えた。



仕事がある。


翌朝も、会社へ行く。


覚えることは山ほどある。


今は、身動きが取れない。


取れないのに、心だけがどこかへ行く。


行き先がない。


だから、同じ場所でぐるぐるする。



出社した。


挨拶した。


笑った。


笑えた。


笑えた自分に、少し腹が立った。


腹が立つほどの元気もない。


ただ、薄く怒った。


薄い怒りは、すぐ消えた。



資料を読んだ。


読んだのに、頭に入らなかった。


同じ行を、三回読む。


三回読んでも、意味が滑る。


指でなぞって、ようやく止まる。


止まっても、心がいない。


心がいないまま、時間だけ進む。



帰宅した。


玄関が暗い。


暗いのに、妙に整っている。


整っているのが、妻の不在を強調する。


妻の気配だけが、生活の形として残っている。


残っているのに、本人はいない。



台所の蛇口をひねった。


水が出る。


当たり前が、当たり前じゃなく見えた。


湯気が立つ。


湯気はすぐ消える。


消えるものを見ていると、胸がざらつく。



孤独を謳歌しよう、なんて気持ちも。


一瞬、よぎった。


それは罪悪感の形をしていた。


よぎった瞬間に、自分で自分を殴りたくなる。


でも。


よぎってしまう。


人間は、そういうものだ。



「いかないで」


そう言えばよかったのか。


「ごめん」


そう言えばよかったのか。


「もっと話そう」


そう言えばよかったのか。


言葉は、今さらいくらでも出る。


出るのに、もう届かない。


届かない言葉は、ただの音だ。



この話を、聞いてほしかった。

咄嗟に浮かぶの、弓さんの顔だ。


ただ、この期に、弓さんと付き合おうとか。

会おうとか。


そういう話じゃない。

ただ、誰かに聞いてほしかった。


妻を責めたいわけでもない。

自分を正当化したいわけでもない。


ただ、穴が空いた。

穴の風が寒い。


寒いと言うと、情けない。


でも、寒い。



“女性の痛みは、女性で癒すのが早い”


そんなことを、昔どこかで聞いた。

正しいかどうかは分からない。


でも、今の俺には。


その言葉が、言い訳みたいに便利だった。


誰かに寄りかかりたい。


その欲を、綺麗に見せるための言い訳。


そういう自分が、嫌だった。



弓さんに連絡するのは、重い。


怖い。


思われたくない。


「うわ、重い」


そう思われたら終わる。


終わる、という言葉がまた違う。


もう、これ以上。


誰かに嫌われたくない。



でも。


指がスマホを開いてしまう。


開いて、LINEを開いてしまう。


弓さんのアイコンが出る。


それだけで、胸の奥が小さく鳴る。


鳴る音が、情けない。


情けないのに、止まらない。



書こうとして、消す。


書こうとして、消す。


「話、聞いて」


重い。


消す。


「ちょっと、しんどい」


弱い。


消す。


「元気?」


嘘になる。


消す。



軽く。


軽くしないと。


軽くしないと、相手の負担になる。


軽くしないと、自分が崩れる。


軽く。


軽く。


そうやって、俺はいつも本音を削ってきた。


削った結果が、今なのに。


また削る。


癖は、こういうときに勝手に動く。



文章を打つ。


打って、止める。


消して、また打つ。


短く。


冗談みたいに。


笑いにするみたいに。


笑えないのに。


笑いにする。



「独り身になってしまいました、あはは」


最後の「あはは」で、指が止まる。


止まったまま、画面が滲む。


滲むのは涙じゃない。


目が乾いているだけだ。


乾いた目は、痛い。


痛い目で、送信ボタンを見る。



送信を押す音は鳴らない。

鳴らないのに、押した感触だけが残る。


スマホの画面が、白く光る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ