part57 ステップ
【森視点】
我が家は五人家族だった。
俺と、妻と、子どもが三人。
子どもたちは三人とも、もう巣立っている。
家は広いままだ。
広いまま、音だけが減った。
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結婚は十九でした。
早い。
今ならそう言われる。
だからこそ子供も、もう巣立っている。
当時の俺は、早く結婚したかった。
恋愛が嫌いだった。
好きとか、嫌いとか。
その二文字で、心が振り回されるのがしんどかった。
自分の感情が、思ったより敏感だという自覚があった。
だから、抜けたかった。
恋愛という不安定な場所から。
できれば、早く。
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妻と出会ったのは、その流れの中だった。
妻は俺より年上だった。
頭が良かった。
綺麗だった。
愛嬌があった。
声をかけられやすい人だった。
それは、外から見ると羨ましい種類の魅力だった。
でも、本人はそれを誇りにしていなかった。
むしろ、疲れると言った。
気を遣う性格だった。
気を遣うから、人を寄せる。
人が寄るから、もっと気を遣う。
その循環で、疲れていた。
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「人と関わらなくていい場所に行きたい」
妻は、時々そう言った。
静かなところ。
誰にも見られないところ。
俺も似たところがあった。
似ている、と思った。
似ているから、うまくいくと思った。
でも、似ていることは、分かり合えることとは違った。
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二人とも、気を遣った。
相手に気を遣わせないように、気を遣った。
弱音は吐かない。
吐けば、相手が気を遣う。
本音は晒さない。
晒せば、相手が気を遣う。
俺たちは、たぶん、ずっと鎧を着ていた。
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良かれと思ってやることが、裏目になることがあった。
うまくいかない理由が、見えない。
見えないから、直せない。
直せないから、また気を遣う。
気を遣うから、言わない。
言わないから、伝わらない。
その繰り返しだった。
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それでも、生活は続いた。
子どもが育った。
忙しさが、間を埋めた。
用事が、感情を押し流した。
押し流されたものは、なくなったわけじゃない。
ただ、底に沈んだ。
沈んだまま、溜まった。
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子どもが巣立ってから、家は静かになった。
静かになって、沈んだものが浮き上がるようになった。
逃げ場が減った。
埋める音が減った。
二人の鎧の、擦れる音だけが残った。
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俺は最近まで、仕事を覚えるので必死だった。
新しい資格を取った。
その資格を持って、現場で一年やった。
前の仕事は、人を引っ張る立場だった。
その役職を捨てた。
全くの異業種に転職した。
自分の技術で飯を食える場所が欲しかった。
何があっても。
自分が一人下がれば、なんとかなる場所が欲しかった。
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人を助けるのが嫌いになったわけじゃない。
ただ、疲れた。
人の期待を背負うのに疲れた。
助けたい気持ちはあるのに、体が動かない日が増えた。
その矛盾を、家に持ち帰りたくなかった。
持ち帰ってしまっているのに。
持ち帰りたくなかった。
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そんな中で、妻が少し暗かった。
最初は、気のせいだと思った。
俺が忙しいから、そう見えるだけだと思った。
妻も疲れているのだと思った。
でも、暗さは消えなかった。
むしろ、形を変えていった。
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ある日、妻が言った。
「もう、私を自由にしてください」
声は静かだった。
静かなのに、揺れなかった。
揺れない言葉は、怖い。
怒鳴られた方が、まだ分かる。
泣かれた方が、まだ触れられる。
でも、妻は泣かなかった。
淡々としていた。
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俺は返事を探した。
探したまま、言葉が出なかった。
出なかったというより。
出せなかった。
「どうして」
そう言いたかった。
でも、それは自分が聞く言葉じゃない気がした。
俺は、今までの積み上げに、目を向けないできた。
妻は、ずっと前から向き合っていた。
その差が、今ここに出た。
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妻は言った。
「前から考えてた」
「準備もしてた」
準備。
その言葉が、胸に刺さった。
俺だけが、今日を生きていた。
妻は、ずっと先の今日を生きていた。
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「気を遣い続けるのが、もう無理」
妻はそう言った。
俺は思った。
気を遣うことなんて、離れることに比べれば些細だろう、と。
些細だから、耐えればいい、と。
その考えが、もう妻には届かなかった。
妻にとっては、それが“些細じゃない”日々だった。
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俺は、なんだかんだで妻を愛していた。
気を遣っている、ということは。
大事にしている、ということだと思っていた。
大事にしているから、黙るのだと。
大事にしているから、我慢するのだと。
そう思っていた。
妻は、そうは受け取っていなかった。
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悲しい。
寂しい。
つらい。
その言葉を、口に出すのが怖かった。
言った瞬間に、安っぽくなる気がした。
本当に痛いのに。
言葉の形にすると、嘘みたいになる。
だから、黙った。
黙る癖は、こういうときに最悪だ。
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「もっと頑張るから」
それも言えなかった。
頑張る、という言葉が。
結局また、妻に何かを背負わせる気がした。
妻が欲しいのは、頑張りじゃなかった。
自由だった。
その自由を、俺は今まで渡してこなかった。
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妻の動きは早かった。
本当に、準備していた。
書類。
手続き。
段取り。
淡々と進んでいく。
俺だけが、そこに置いていかれていた。
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金銭面の分与は、妻の言う通りにした。
争う気持ちは湧かなかった。
争えば、勝つか負けるかの話になる。
そうじゃない。
そうじゃないことだけが、分かっていた。
俺は、黙って頷いた。
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「弁護士とか、そういうのはいい」
妻は言った。
俺も、そう思った。
争って勝っても。
戻るものが戻るわけじゃない。
戻ってほしいのは、関係じゃない。
時間だった。
時間は戻らない。
だから、争う意味がない。
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妻は実家に帰っていった。
荷物は、思ったより少なかった。
少ないことが、余計につらかった。
それだけでいいのか、と思った。
それだけで、全部が終われるのか、と思った。
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車のドアが閉まる音がした。
一回。
もう一回。
二回目はトランクだった。
その音が、妙に澄んでいた。
澄んでいる音は、切れる。
切れた音は、戻らない。
戻らないことだけが、分かった。
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家の中が静かになった。
冷蔵庫の低い唸りが、夜になると大きい。
換気扇の音がない。
食器の音がない。
ドライヤーの風がない。
足音がない。
俺の足音だけがある。
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靴を揃えた。
誰も見ていない。
見ていないのに、揃えた。
揃えないと、落ち着かない。
落ち着かないものが、増えすぎている。
だから、揃えた。
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仕事がある。
翌朝も、会社へ行く。
覚えることは山ほどある。
今は、身動きが取れない。
取れないのに、心だけがどこかへ行く。
行き先がない。
だから、同じ場所でぐるぐるする。
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出社した。
挨拶した。
笑った。
笑えた。
笑えた自分に、少し腹が立った。
腹が立つほどの元気もない。
ただ、薄く怒った。
薄い怒りは、すぐ消えた。
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資料を読んだ。
読んだのに、頭に入らなかった。
同じ行を、三回読む。
三回読んでも、意味が滑る。
指でなぞって、ようやく止まる。
止まっても、心がいない。
心がいないまま、時間だけ進む。
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帰宅した。
玄関が暗い。
暗いのに、妙に整っている。
整っているのが、妻の不在を強調する。
妻の気配だけが、生活の形として残っている。
残っているのに、本人はいない。
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台所の蛇口をひねった。
水が出る。
当たり前が、当たり前じゃなく見えた。
湯気が立つ。
湯気はすぐ消える。
消えるものを見ていると、胸がざらつく。
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孤独を謳歌しよう、なんて気持ちも。
一瞬、よぎった。
それは罪悪感の形をしていた。
よぎった瞬間に、自分で自分を殴りたくなる。
でも。
よぎってしまう。
人間は、そういうものだ。
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「いかないで」
そう言えばよかったのか。
「ごめん」
そう言えばよかったのか。
「もっと話そう」
そう言えばよかったのか。
言葉は、今さらいくらでも出る。
出るのに、もう届かない。
届かない言葉は、ただの音だ。
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この話を、聞いてほしかった。
咄嗟に浮かぶの、弓さんの顔だ。
ただ、この期に、弓さんと付き合おうとか。
会おうとか。
そういう話じゃない。
ただ、誰かに聞いてほしかった。
妻を責めたいわけでもない。
自分を正当化したいわけでもない。
ただ、穴が空いた。
穴の風が寒い。
寒いと言うと、情けない。
でも、寒い。
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“女性の痛みは、女性で癒すのが早い”
そんなことを、昔どこかで聞いた。
正しいかどうかは分からない。
でも、今の俺には。
その言葉が、言い訳みたいに便利だった。
誰かに寄りかかりたい。
その欲を、綺麗に見せるための言い訳。
そういう自分が、嫌だった。
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弓さんに連絡するのは、重い。
怖い。
思われたくない。
「うわ、重い」
そう思われたら終わる。
終わる、という言葉がまた違う。
もう、これ以上。
誰かに嫌われたくない。
⸻
でも。
指がスマホを開いてしまう。
開いて、LINEを開いてしまう。
弓さんのアイコンが出る。
それだけで、胸の奥が小さく鳴る。
鳴る音が、情けない。
情けないのに、止まらない。
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書こうとして、消す。
書こうとして、消す。
「話、聞いて」
重い。
消す。
「ちょっと、しんどい」
弱い。
消す。
「元気?」
嘘になる。
消す。
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軽く。
軽くしないと。
軽くしないと、相手の負担になる。
軽くしないと、自分が崩れる。
軽く。
軽く。
そうやって、俺はいつも本音を削ってきた。
削った結果が、今なのに。
また削る。
癖は、こういうときに勝手に動く。
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文章を打つ。
打って、止める。
消して、また打つ。
短く。
冗談みたいに。
笑いにするみたいに。
笑えないのに。
笑いにする。
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「独り身になってしまいました、あはは」
最後の「あはは」で、指が止まる。
止まったまま、画面が滲む。
滲むのは涙じゃない。
目が乾いているだけだ。
乾いた目は、痛い。
痛い目で、送信ボタンを見る。
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送信を押す音は鳴らない。
鳴らないのに、押した感触だけが残る。
スマホの画面が、白く光る。




