part56 2年の行方
【弓視点】
画面の右上で、赤い点がふっと灯る。
それだけで、胸の奥の温度が変わる。
息が浅くなる。
マイクの前で、笑う準備をする。
⸻
あれから二年が過ぎた。
二年って、長いようで短い。
長いようで、短いって言うと、全部が軽くなる気がして嫌だった。
でも短い。
本当に、短い。
森さんが配信に来なくなった日から。
あのアイコンが、当たり前みたいにそこにあった日々から。
⸻
夜の配信が終わると、部屋がいきなり静かになる。
さっきまで人の声が流れていたのに、空気だけが残る。
音が止まって、湿度だけが残る。
洗い物がシンクにある。
泡が乾いて、白い線みたいになっている。
それを見るたびに、ため息が出る。
(明日でいいや)
そう思って、手を洗って、顔だけ落として、そのままベッドに倒れる日が増えた。
眠い。
本当に、眠い。
眠いのに、頭だけは冴えてしまう時がある。
そのときは、スマホの明かりが眩しすぎて、画面の白が痛い。
仕事の連絡が入っていれば、そのまま準備をする。
服を選んで、髪を乾かして、カバンに入れて。
心は追いついていないのに、体だけが動く。
連絡がなければ、少しだけ練習する。
笛を構えて、息を入れて。
音が出ると、少し救われる。
救われるって言葉が好きじゃないのに、そうなる。
気合があれば、洗濯を回す。
回して、干して。
干しながら、なぜか泣きそうになるときがある。
理由はわからない。
わからないから、余計に嫌になる。
昔は、その隙間に森さんへ電話をかけようとした。
一日の空いたところ全部が、森さんで埋まってほしいみたいに。
埋めたら安心するみたいに。
でも今は、そういう気持ちがない。
ない、というより。
そこまで熱くならない。
(私って、こんなに簡単に変わるんだ)
そう思って、自分が怖くなる。
森さんが悪いわけじゃない。
私が、私のままなだけだ。
⸻
「今日もお疲れさま」
配信で言う言葉が、だんだん上手になった。
上手になった、っていうか。
ちゃんとそれっぽく言えるようになった。
優しく。
丸く。
相手が安心する形に。
それをやっている間だけ、私はちゃんと存在している気がする。
褒められる。
「かわいい」
「今日も癒された」
「音色が好き」
「頑張ってる」
コメントは、あたたかい。
あたたかいのに。
胸の内側まで入ってこない。
ガラス越しに触られているみたいで、温度だけが手前で止まる。
(私がガラスを置いてるんだろうな)
その答えが見える瞬間がある。
でも、見えるだけで、外せない。
外すと、崩れる気がする。
⸻
生ライブを増やした。
ライブハウス。
小さいバー。
イベントスペース。
配信だけの世界にいると、全部が配信の正しさでできてしまう。
そこに溺れかけたことがある。
スイッチを入れれば、誰かが褒めてくれる。
肯定される。
わかりやすい。
でも、残らなかった。
本当に残らなかった。
一週間。
一か月。
半年。
一年。
節目みたいに、ふっと消える。
何も言わずにいなくなる人が多い。
それが普通なんだってわかっている。
わかっているのに、体の奥が冷える。
生ライブは、冷える。
空気が、はっきり冷える。
会場の照明が眩しい。
汗の匂いがする。
ドリンクの氷が溶ける音がする。
誰かの笑い声が、近い。
そして、演奏が終わった瞬間の拍手が、逃げない。
スマホみたいに閉じられない。
そのまま残って、こっちを見る。
私はその視線が苦手で。
苦手なのに、欲しくて。
欲しいのに、怖い。
(私、めんどくさい)
その言葉が、二年経っても消えない。
むしろ、濃くなる。
みんな素敵だった。
前向きで、努力している。
自分のことを笑える人が多い。
自分の弱さを、弱さとして見せられる人が多い。
私は音楽に対してはストイックだと思っていた。
練習も、勉強も、ちゃんとやっているつもりだった。
でも、人間性としては自信がない。
自己肯定感が低い。
褒められても、心が動かない。
(動くのが怖いのかもしれない)
動いたら、また誰かに預けてしまう気がする。
預けて、また、失う気がする。
⸻
私は異質なんだって、わかった。
わかった、というより。
知ってしまった。
ライブでたくさん会った人たちの中で、私は浮いていた。
浮いているのに、笑っていた。
笑っているのに、どこにもいなかった。
「弓ちゃんって、儚いよね」
そう言われると、胸の奥が縮む。
儚いって、褒め言葉の形をした、距離だ。
「儚い」と言われた場所に、触られたくない。
触られたくないのに、触ってほしい。
矛盾が、ずっと消えない。
(私って、何なんだろう)
たまに、鏡の前で考える。
鏡の中の私は、ちゃんと化粧してる。
髪も整ってる。
目だけが、少しだけ薄い。
薄いのが、わかる。
自分の目が、自分を信じていない。
⸻
恋愛の話も、増えた。
年頃だねって言われる年齢になっていく。
街中でのナンパ。
忘年会でのお誘い。
紹介。
リスナーからのDM。
ライブでの告白。
私は断るのが苦手だから。
あと、可能性に賭けたい気持ちもあるから。
会ってみることもあった。
デートも数回した。
みんな紳士で、優しかった。
私を肯定してくれた。
私みたいな面倒な人なのに。
それが、逆に怖い。
優しさが、続く気がしない。
(本当の私を知ったら離れていく)
そう思ってしまう。
そう思ってしまうような形で、私は喋ってしまう。
本音を出さない。
楽しいねって言う。
うんって笑う。
帰り道、ひとりになると、空気が冷たい。
その冷たさが、一番正直だ。
森さんでさえ、配信から離れていった。
あの人は大人だったのに。
あの人は紳士だったのに。
あの人でさえ、距離を取った。
(自業自得だ)
それもわかっている。
わかっているのに。
それでも、寂しい。
⸻
結婚は、したいと思う。
思うだけだ。
誰かと暮らす想像をすると、息が詰まる。
私の機嫌。
私の気分。
私の面倒くささ。
それを毎日誰かが見続ける。
見続けられる。
それが、怖い。
恋愛に向かない。
じゃあ何に向くんだろう。
音楽に向いてると言えるほど、才能があるわけじゃない。
演奏ひとつで人を感動させる人がいる。
本当に一握り。
私はそこじゃない。
努力で上がる分だけ、上がっている。
でも、限界みたいな壁が見える瞬間がある。
そのとき、胃の奥がひゅっと縮む。
(上手く吹けないのが一番つらい)
それは嘘じゃない。
だから、場数を増やした。
知り合いのライブのサポート。
配信時間の拡大。
ソロライブはまだ力がないから。
他のライバーさんとの合同ライブ。
できるだけ、外に出る。
できるだけ、人に会う。
できるだけ、自分を追い込む。
追い込むと、考える暇がなくなる。
暇がなくなると、泣かなくて済む。
泣かなくて済む日が増えると、私は元気になった気がする。
気がするだけで。
本当は、根っこは変わっていない。
⸻
森さんとの連絡が減ったことで、活動時間が戻った。
戻った、って言い方が嫌だ。
森さんと話す時間は、私の中では活動じゃなかった。
甘えだった。
寄りかかりだった。
でも、現実は現実だ。
時間は限られていて。
私は自分の時間を、音楽へ寄せていった。
森さんと連絡を取ると、身動きができなくなる。
それを、私は知っている。
だから「このままでいいじゃん」を続けた。
踏み込んでこないなら、そのまま。
踏み込んできたら、そのとき考える。
そうやって、流されていった。
二年経っても、流されるのが得意なままだった。
⸻
困ったとき。
苦しくなったとき。
うまくいかなくなったとき。
結局、私は森さんに声をかける。
「少しだけ話していい?」
その一言が打てる自分に、安心してしまう。
森さんは、いつも紳士に返してくる。
すぐじゃないときもある。
でも、ちゃんと返ってくる。
「大丈夫ですか」
「今、少しなら」
「落ち着いたらでいいですよ」
文章が丁寧だ。
そこに余計な熱がない。
昔みたいに踏み込んでこない。
それが、助かる。
助かるのに、どこかで寂しい。
寂しいのに、ほっとする。
(適切な距離)
それが、森さんの優しさなんだと思う。
私はこんなことをしたのに。
勝手に傷つけて。
勝手に冷たくして。
勝手に頼って。
森さんは、それでも話を聞いてくれる。
大人だと思う。
私はそこまで大人じゃない。
⸻
二人の関係は、ここまでだと思う。
終わるとかじゃない。
発展がない。
付き合うこともない。
別れることもない。
友人として、細々と残る。
その細さが、妙にリアルだ。
私は森さんの人生に乗っかれない。
森さんも、私の人生に乗っかってこない。
乗っかれるわけがない。
森さんには家庭がある。
責任がある。
私は私の人生を、私が考えなくちゃいけない。
森さんはアドバイスはくれる。
でも人生の決定を代わってくれるわけじゃない。
その当たり前が、二年かけて、やっと体に馴染んだ。
馴染んだぶんだけ、怖くなる。
(じゃあ私は、誰に甘えるの)
そう聞くのは、卑怯だ。
自分で立てって話なのに。
⸻
配信をしていて思う。
肯定してくれる人が残る。
合わない人が去っていく。
それは間違いない。
その世界がすべてみたいに感じてしまうのも、わかる。
でもそれは、成長が止まる場所でもある。
会社の社長みたいに。
人に言われにくい立場になる人みたいに。
寄せ付けなくなった瞬間に、止まる。
止まっているのに、褒められる。
褒められると、止まっていることに気づけない。
私は女で、若さが武器になる部分がある。
見てほしいわけじゃない。
でも、武器にならざるを得ない。
それを受け入れたくなくて、私は音楽に逃げる。
音楽は裏切らない。
裏切らないけど、残酷だ。
努力の結果が出る。
結果が出ないことも、出る。
⸻
森さんが配信に来なくなってから。
リスナーの言葉は心地よかった。
溺れかけたことがある。
とりあえず付ければ、褒めてくれる。
「大好き」
「いつもありがとう」
「最高」
その言葉は、手軽な毛布みたいだった。
包まれる。
あたたかい。
でも、朝になると薄い。
薄いのがわかる。
薄いのに、また夜に包まりたくなる。
その繰り返しが、自分でも嫌だった。
(みんな残らなかった)
それが、一番こたえた。
こたえるのに、私はまた配信をつける。
つけないと、静かすぎて怖い。
怖いのは、部屋じゃない。
自分の中の空洞だ。
⸻
もっとたくさん考えていれば、変わっていったんだろうか。
そう思う。
でも私は、考えるより先に感覚が動く。
動いたあとに、理由を探す。
理由を探すと、後悔が見つかる。
後悔を見つけると、また動けなくなる。
(私は私のままでいい)
そう思っていた。
変わらずにいればいいと。
そのままの自分を肯定してくれる人がいるから。
その世界が優しいから。
でも、優しい場所だけで生きると、弱くなる。
弱いまま、年齢だけが進む。
若さが薄くなる。
そのときに何が残るのか。
私は、それが怖い。
⸻
ライブの帰り道。
冬の夜。
息を吐くと、白くなる。
白い息が街灯に溶けて、すぐ消える。
その消え方が、私みたいだと思う。
思うのに、笑ってしまう。
笑うと、寒さが少しだけ和らぐ。
私はそうやって、自分を誤魔化すのが上手だ。
上手になっただけで、救われたわけじゃない。
⸻
そして、また困ったときに私は森さんへ声をかける。
声をかけて、安心する。
安心して、また自分の足で立とうとする。
その繰り返し。
発展しない関係。
それでも、途切れない関係。
それが、今の私には必要なんだと思う。
必要だと思いたい。
本当は、ただ手放せないだけかもしれない。
⸻
私はこの先、どうすればいいんだろう。
答えは出ない。
出ないけど、明日の練習はある。
明日の仕事もある。
次のライブもある。
次の配信もある。
だから私は、今日も一回だけ音を出す。
息を入れる。
音が出る。
それだけで、少しだけ光が戻る。
戻った光を、握りしめるみたいに。
マイクの赤い点が消えた部屋で。
笛の残響が、天井の角に薄く溜まっていく。
音が消える前に、私は目を閉じる。




