part55 心の奥の鍵
【森視点】
夜の工場は、昼より静かに聞こえる。
同じ騒音でも、人が減ると、機械の音だけが浮いてくる。
低くうなっているモーターと、時々鳴る警報の試験音。
その合間に、自分の呼吸のリズムが挟まる。
スマホの画面だけが、やけに白い。
LINEのトーク一覧に、弓の名前が、まだそこにある。
(消す理由も、もうないんだよな)
指先で、一度だけその名前の上に触れて、すぐ離した。
開いてしまえば、過去のログが全部目に入る。
見たら最後、少しだけ、あの頃の温度を思い出してしまう。
それを、今さら反芻しても仕方がない。
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あれから二年が経った。
俺は、部長職を手放して、全く別の業界に来た。
給料だけ見れば、きっと前の方が良かった。
それでも、もうあの頃みたいに「人を引っ張る役」を続ける気力は残っていなかった。
人の顔色を見て、
誰かの本音を探って、
会社の都合と、目の前の人の心と、その間に立ち続ける。
そういう役回りに、いい加減、体のどこかが軋んできていた。
今は、決まった設備を、決まった手順で動かす。
故障すれば、その原因を探して、手を入れる。
責任はあるけれど、
目の前の相手が「数字」や「機械」になったぶんだけ、気持ちはだいぶ軽くなった。
自分の技術で飯を食えるようになっておきたい。
何かあっても、自分一人が下がれば済むような場所にいたい。
ここに来るまでに、資格を一つ取った。
その資格のおかげで、こうして現場で働けている。
二年間、ずっとその準備と実務に追われてきたら、
気づいた時には、あの頃の「盛り上がった気持ち」は随分と遠くなっていた。
⸻
それでも。
人を助けたいという癖だけは、なかなか消えてくれない。
仕事でもそうだし、プライベートでもそうだ。
「この人は今、立ち位置を見失ってるな」
そう感じてしまうと、どうしても頭が勝手に動いてしまう。
どう声をかければ届くか、どこまで踏み込めば壊さないか。
そのクセが、弓との関係をここまで複雑にした。
あの頃は、俺の心の方が前に出ていた。
いろんなものに線を引ききれず、
「助けたい」と「抱きしめたい」が、同じ場所に並んで座っていた。
今は、助けたいという方だけが、痕跡として残っている。
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弓から連絡が来るのは、いつも突然だ。
「ねえ」
とか
「聞いて」
とか。
昔と変わらない短い呼びかけだけど、そこに乗ってくる空気は少し違う。
前みたいな浮いた温度は、もうあまり感じない。
どちらかというと、疲れた人が、たまたまベンチを見つけて腰を下ろした、そんな感じに近い。
俺は、だいたい仕事終わりか、休憩の時間にそれを開く。
配信のこと。
リスナーのこと。
演奏のこと。
家のこと。
話題はいろいろだけれど、根っこにあるのは同じだ。
「私はこの先、どうしたらいいんだろう」
それを、本人ははっきりとは言葉にしない。
「この人に、たくさん踏み込ませたらまずい」
どこかでそれを知っているから、
ギリギリのところでブレーキをかけながら、
それでも誰かに聞いてほしくて、俺に声をかけてくる。
俺は、前みたいには踏み込まない。
「それはこうした方がいいよ」と、断定はしない。
彼女の足首に新しい鎖をつけないように、
自分の足首にも余計な輪を増やさないように、
言葉を選んで返信する。
「そういう考え方もあるね」
「こういうパターンも、もしかしたらあるかも」
「最終的にどうしたいかは、弓が決めた方がいいと思う」
聞けば、大人の対応だ。
俺自身も、そのつもりで書いている。
ただ本音を言えば、
そんなふうに距離を測っている自分を、どこかで少しだけ情けなく思っている。
本当は、さっさと全部切ってしまった方が楽なのかもしれない。
⸻
二年前に決めたことがある。
もう二度と、自分の心を誰にも渡さない。
誰かの気配に、自分の生活の温度を合わせるのは、
一生に一度で十分だった。
家族は別だ。
あれは、また別の話だ。
そうじゃなくて、
自分の中の一番奥の部屋に、誰かを入れてしまうあの感じだ。
一度入れてしまうと、鍵を閉め直すのに途方もない時間がかかる。
弓との一件で、それを骨身に染みて知ってしまった。
だから、今は鍵をかけたまま、部屋の前で椅子に座っている。
奥に人を住まわせない代わりに、
玄関の前で話を聞く。
それが、今の俺にできるギリギリの距離感だ。
⸻
顔を見たいかと聞かれたら、見たい。
弓の表情は、声よりも情報量が多い。
目線の揺れ方や、頬の動きで、その日の機嫌や疲れがだいたいわかる。
ただ、それを「見たい」と思う自分を知っているから、
安易に会いに行くことはしない。
気楽な気持ちには、どうしてもならない。
「友達なんだから、普通に会えばいいじゃないですか」
もし誰かにそう言われたとしても、その“普通”の感覚を、もう持ち合わせていない。
一度、境界を踏み越えてしまった後の関係に、元の形式は当てはまらない。
今の少し離れた位置が、俺にとっても、弓にとっても、多分いちばん安全だ。
そう思おうとしている自分も含めて、
全部ひっくるめて「これでいい」と、自分に言い聞かせている。
⸻
弓の配信には、もう行かない。
あの枠に俺のアイコンが並ぶだけで、
空気が少しだけ変わることを知ってしまった。
弓は、俺を意識してしまう。
演奏の合間の言葉選びが、少しだけ硬くなる。
その様子を見ていると、
「ここはもう、俺の居場所じゃないな」と思う。
ラジオ感覚で音だけ聞けばいい、
そう思った時期もあった。
でも、画面を開けば、アイコンが目に入る。
画面を開かなければ、音も聞けない。
どちらにしろ、中途半端になるくらいなら、完全に引いた方がいい。
俺は、そういう選び方しかできない。
⸻
その代わりに手に入れた時間で、
資格の勉強をして、
新しい仕事を覚え、
現場の癖を体に叩き込んだ。
本屋で技術書を買い、
家でノートを開き、
休みの日には配線図を眺めて過ごす。
「この時間、前は全部、弓に使ってたな」
ふとした拍子に、そんなことが頭をよぎる。
後悔しているわけではない。
あの時間が無駄だったとは思わない。
あの時あの場所でしか見えなかった世界もあった。
弓の音色が、俺の中の何かを、たしかに呼び起こしてくれた。
けれど、それをもう一度やるかと聞かれたら、
多分、同じ深さまでは沈まない。
二年前のあの熱量は、
自分でも少し異常だったと、今ならわかる。
⸻
執着は、もうない。
そう言い切れる自分もいる。
夜中にふと目が覚めた時に、
弓のことを考えなくなった。
前は、
「今、配信してるかな」
「ちゃんと食べてるかな」
そんなことを何度も考えていた。
今は、目が覚めたら、
明日の点検と、
朝一番の打ち合わせのことを考える。
「この仕事、どこまでスキル伸ばせるかな」
「次は何の資格を取ろうか」
そんな、地に足のついた話題が、
自然と頭の中を埋めるようになった。
その意味では、俺の生活は安定した。
ただ、安定と引き換えに、
どこかの部屋にしまい込んだものがあるのもわかっている。
それをもう一度取り出すかどうかは、
きっとこの先も、自分次第なんだろう。
⸻
それでも、弓から「聞いて」と連絡が来れば、
俺は多分、これからも返信する。
短くても、
時間がかかっても、
何かしらの言葉を返してしまう。
それは、恋愛でも、執着でもない。
ただ、
「一度、自分の心を預けてしまった相手」
としての、最低限の責任みたいなものが、どこかに残っている。
友人として会うかと聞かれれば、
きっと顔は合わせられる。
でも、友人レベルの気楽さで時間を割けるかと言われると、
そこまで軽くはなれない。
会えば、必ず何かを思い出す。
何かを思い出せば、また少しだけ自分のバランスが揺れる。
だから、
「たまに連絡が来るくらい」
その程度の距離が、今の俺にはいちばんちょうどいい。
⸻
工場の夜勤明け、
ロッカー室の窓から、薄い朝の光が差し込む。
制服を脱いで、作業靴を棚に戻す。
スマホを取り出すと、通知は特に来ていない。
弓からも、
誰からも。
静かな画面を見て、
少しだけホッとして、
少しだけ物足りなさを覚える。
その矛盾ごと、
自分の一部として受け入れていくしかない。
二度と誰にも心は渡さないと決めたくせに、
どこかでまだ、
「誰かの話を聞く自分」でいたいと望んでいる。
そういう性分なんだろう。
それを変えようとしても、多分変わらない。
だったらせめて、
自分の壊れない範囲で、
誰かの話を聞ける人間でいよう。
弓に対しても、
これから出会う誰かに対しても。
そう思いながら、
俺はスマホをポケットにしまい、
今日もまた、機械の音のする方へ歩いていく。
心の一番奥の部屋には、鍵をかけたまま。




