part53 受け入れる別れ
【弓視点】
配信アプリを閉じても、
部屋の中にはまだ、さっきまでの音が残っていた。
画面の向こう側で笑っていたはずの人たちが、
いきなりいなくなる感じが、
いつまでたっても慣れない。
リングライトを切る。
白い光が消えて、
蛍光灯だけの色に戻る。
影のかたちが、
一瞬でやわらかくなる。
「……ふぅ」
声になっているのかどうか、
自分でもよくわからない息が漏れた。
キッチンのシンクには、
マグカップと皿がそのまま置いてある。
洗おうかな、と思って、
その場で足が止まる。
(あとでいいや)
いつもと同じ決まり文句みたいに、
心の中でそう言って、
テーブルの上のスマホを手に取った。
⸻
通知の数字が、ひとつだけ光っている。
森さん。
「……」
指先に、すこしだけ力が入る。
嬉しいとか、
怖いとか、
そういう言葉じゃ追いつかない感じが、
胸の奥でひとつだけ膨らむ。
タップして、
トーク画面をひらく。
一行だけ、新しい文字があった。
「弓さん、配信行くのはもうやめますね。」
一度読んで、
画面を離す。
意味は、
最初からちゃんとわかる。
でも、
頭に入るのと、
胸に落ちてくるのには、
少し時間がずれる。
喉の奥が、すこしだけ熱くなった。
(ああ……そう、なんだ)
声には出さない。
言葉にすると、
何かが決まってしまう気がして、
舌の上で止めた。
⸻
スマホをテーブルに伏せて、
椅子の背もたれに体を預ける。
背中に当たる布の感触が、
今日はいつもより冷たく感じた。
最近の夜のことを、
順番に思い出す。
仕事から帰って、
とりあえずシャワーを浴びて、
洗濯しようか悩んで、
とりあえず後回しにして、
眠気が強かったら
ソファに倒れ込んで、そのまま少し寝て、
起きてから慌てて準備して、
配信をつける。
隙間の時間は、
前みたいに電話したりしなくなった。
スマホを手に取っても、
トーク画面を開くことは減って、
動画を見たり、
他のライバーの枠を覗いたり、
そんなふうに流れていった。
(それでも、森さんのアイコンは、ずっとあった)
配信中、
コメント欄にその丸が見えるたび、
一瞬だけ息が止まる。
名前を読むのに、
前より少しだけ勇気がいる。
自分がどう映っているのか、
考えたくないのに考えてしまう。
笑うたびに、
誰に向けている笑顔なのか、
自分でもわからなくなる。
⸻
「やめますね。」
文末の「ね」が、
じわじわと残ってくる。
「やめます。」じゃなくて、
「やめますね。」
決定の宣言みたいで、
でも少しだけ、
こちらの反応を待っているみたいな形。
返事を打とうとして、
画面をもう一度ひらく。
キーボードが出てくる。
白いキーが並んで、
何でも書いていいよ、と
言っているみたいに見える。
何でもは、書けない。
(どうしようかな)
「そっか。」
と打とうとして消す。
「寂しい」
と打とうとして消す。
「なんで?」
と打とうとして、
それも消す。
問いかけたところで、
答えが出る問題じゃないのは、
わかっていた。
自分だって、
ちゃんと説明できないまま
ここまで来てしまった。
結局、
指が選んだのは
短い言葉だった。
「うん、ごめんね」
打ってから、
少しだけ眺める。
謝る理由なんて、
きちんと並べ始めたら
終わらないくらいある。
でも、この二文字には
どれも入れなかった。
全部まとめて、
遠くから軽く押し出すみたいに
「ごめんね」と置いた。
送信ボタンを押す。
吹き出しが右側に移動して、
画面の中に固定される。
もう消せない形になって、
やっと指先から力が抜けた。
⸻
椅子から立ち上がる。
シンクの中の食器が、
小さく触れ合って音を立てた。
水を出す。
冷たい水が、
金属の流し台を叩く音が、
さっきまでの配信の残響とぶつかり合う。
スポンジに洗剤をつけて、
マグカップを洗う。
こうしている間は、
少しだけ考えなくてすむ。
森さんが枠にいると、
最近は呼吸の仕方がわからなくなる瞬間があった。
名前を呼ぶと、
空気の重さが変わる気がして、
他のリスナーの顔が見えなくなる。
呼ばなければ、
それはそれで胸の奥がざわざわして、
配信中なのに、
ひとりで何かを抱えているみたいな感覚になる。
(どっちにしても、息がしづらかった)
蛇口をひねって、
泡を流す。
白い泡が消えていくのを見ていると、
胸の中の感覚も
少しだけ薄くなっていく気がする。
⸻
森さんがいない枠のことを想像する。
コメント欄から、
ひとつだけ特別な丸が消える。
それで、
やりやすくなる部分もきっとある。
誰かに見られている、
という意識が減って、
もっと雑に、
もっと軽く、
笑えるかもしれない。
新しく来た人の名前を
ひとつずつ拾って、
刈り上げくんや、
他のリスナーが盛り上げてくれて、
その波に自分も素直に乗れるようになる。
そう考えると、
喉のあたりが少しだけ楽になる。
楽になってしまう自分に、
小さく驚く。
(あ……私、もう、前とは違うんだ)
言葉にすると、
どこかで怒られそうで、
心の中だけでそっと触れて、
指先ですぐ離す。
⸻
タオルで手を拭く。
リビングに戻ると、
スマホの画面は暗いままだった。
森さんからは、
何も返ってきていない。
それが自然で、
正しい形に思える。
やりとりが続いてしまうと、
どこかでまた
変に期待してしまうかもしれないから。
ソファに腰を下ろして、
天井を見上げる。
蛍光灯の光が、
少しだけ揺れて見えた。
(これで、よかったんだよね)
問いかけるような、
でも答えはいらないような文が、
胸の中で丸くなる。
涙は出なかった。
ほんとうに悲しいときは、
泣けないことを、
前にも一度知っている。
ただ、
ひとりになった部屋の空気が、
いつもよりすこし冷たく感じるだけ。
その冷たさごと、
布団にもぐり込んでしまえばいい。
明日も仕事がある。
夜にはまた配信がある。
森さんのいないコメント欄で、
ちゃんと笑えるかどうかは、
そのときになってみないとわからない。
でも、
進んでいくのはきっと、
そっちなんだろうな、と思いながら
目を閉じた。




