part52 決別
しばらくお待ちください
【森視点】
配信のBGMが、
スマホのスピーカーから薄く滲んでいた。
弓さんの声が、その上を滑っていく。
新しい名前がいくつも流れて、
色のついたアイコンが、
水面に投げられた小石みたいに波紋を広げていた。
俺のアイコンも、その中に混じっていた。
画面の端で、
小さく丸く、ただそこにあるだけ。
コメントを打とうとして、やめた。
フリック入力のカーソルだけが、
白い画面の上で点滅している。
(何を書けばいいんだろうな)
前は迷わなかった。
「おつかれさま」とか、
「今日も良かったよ」とか、
たいしたことのない一言を投げるだけで、
弓さんは少し声の温度を変えてくれていた。
「森さん、ありがとう」
名前を呼ばれるたびに、
画面越しでも分かるくらい、
空気がやわらかくなった。
あの変化を、俺は何度も拾ってきた。
今、同じ言葉を打っても、
きっと違う場所に落ちていく。
新しいリスナーの笑い声。
刈り上げくんの、場を回すコメント。
弓さんはそれにちゃんと応えて、
枠を大きくしようとしている。
そこに俺が割り込む理由は、
もうどこにもない。
「……」
配信画面の右上にある「×」に指を乗せた。
一瞬だけ、弓さんの笑い声が大きくなった気がした。
誰かが投げたアイテムの効果音が鳴る。
スクリーン越しの盛り上がりから、
指先だけが、滑るように離れていく。
タップすると、音が途切れた。
部屋の空気が一気に薄くなったように感じて、
思わず深く息を吸った。
⸻
LINEを開く。
トーク画面には、
そこそこ長いやり取りが積もっている。
配信リンク。
どうでもいいスタンプ。
眠い、だるい、きつい、
そんな短い愚痴。
(よく続いたよな)
指先でスクロールしながら、
過去に止まるのをやめた。
新しく打つべき言葉は、
もう決まっている。
「弓さん、配信行くのはもうやめるね。」
文章を打ち込んでから、
一度だけ全部選択して、消した。
「弓さん、配信行くのはもうやめますね。」
「ね」を「ますね」に変えただけなのに、
画面の印象が少しだけ遠くなった。
どちらが本音に近いのか、
自分でもよくわからない。
送信ボタンに親指を乗せて、
十数秒ほど止まった。
押さなければ、このままだ。
押せば、元には戻らない。
(戻る場所なんて、とっくにないだろ)
そう思って、ゆっくり押した。
メッセージが画面の右側に寄って、
小さな吹き出しになった。
既読はつかない。
弓さんは、まだ配信中だ。
スマホを見ていない時間のほうが、
あの人にはきっと似合っている。
画面を伏せた。
⸻
静かになった部屋で、
過去のシーンが勝手に再生される。
初めて長く話した夜。
「森さんって、変わってるよね」
そう言って笑った声。
あのときの弓さんは、
まだ配信のやり方も安定していなくて、
コメントに追われて、
自分の話すペースをなくしていた。
「落ち着いて話していいよ」と言ったら、
「じゃあ付き合って」と返された。
その“付き合って”に、
余計な意味なんてないことは分かっていたけれど、
どこかで救われた気がした。
眠る前にかかってきた通話。
配信で吐き出せなかった弱音。
誰にも見せていない“素”みたいなものを、
少しだけ覗かせてもらっている気がしていた。
(勘違いだったとしても、あの時間は本物だった)
それだけは、否定したくなかった。
「好き」と言われた夜があった。
その言葉を、そのまま信じ切ることはできなくて、
それでも、
信じたい自分もいた。
好きと依存の境目なんて、
最初から曖昧だったのかもしれない。
⸻
ベッドに仰向けになって、天井を見た。
(後悔するんだろうな)
少し時間が経てば、
きっとそう思うに決まっている。
あのまま何も言わずに、
配信に居続ければよかった、とか。
弓さんの変化を、
ただ遠くから眺めていればよかった、とか。
自分だけが傷つけば済むやり方を、
選ばなかったことを責める夜が、
この先いくつかは来ると思う。
(それでも、たぶん慣れる)
今までだってそうだった。
離れていった人も、
自分から手放した場所も、
時間をかければ全部、
生活の中に溶けていった。
最初の数日は、
通知が鳴らないことに違和感が出るだろう。
それから、
「あ、今日も鳴ってないな」と
意識する時間が少しだけ減っていく。
そのうち、
意識しようとしないと
思い出せないくらいになる。
そこまで持っていった経験は、
何度かある。
今回もきっと、同じだ。
同じだと信じないと、
今は立っていられない。
⸻
スマホを手に取って、
ホーム画面に並んだアプリを眺める。
前から積んだままの電子書籍。
買って満足していた資格の問題集アプリ。
開くだけ開いて、ほとんど使っていない筋トレの記録。
(時間、空くよな)
夜のこの時間、
いつもなら配信の通知を待っていた。
雑に家事を片付けて、
ヘッドホンを用意して、
コメント欄に潜り込む準備をしていた。
そこにぽっかり穴が空く。
「……資格の勉強でもするか」
口に出してみると、
思っていたよりも現実味があった。
前から取ろうと思っていたものがある。
本も買った。
問題も印刷した。
それでも、
配信を優先して後回しにしてきた。
今なら、その時間をそこに突っ込める。
他にも、
途中で止まっている趣味がいくつも頭に浮かぶ。
ギター。
読みかけの音楽理論の本。
色々あるさ
(埋めるものなんて、いくらでもある)
強がりだと、自分でもわかっている。
だけど、こうでもしないと
空いたスペースに
弓さんのことばかり
流れ込んでしまう。
スマホが震えた。
伏せていた画面に、
小さな光が滲む。
裏返して、
通知だけを確認する。
「弓」
名前の横に、
短い文が一行。
「うん、ごめんね」
それだけだった。
謝られる筋合いなんて、本当はない。
俺が勝手に決めて、
勝手に抜けただけだ。
それでも、
「ごめんね」の二文字が、
線香花火の最後みたいに
小さく弾けて消えた。
(らしいな)
声には出さずに、
心の中でだけ呟く。
深く考えて選んだ言葉じゃない。
そのとき浮かんだ文字を、
そのまま送っただけなのが分かる。
優しいとも冷たいとも言えない、
ちょうど真ん中の温度。
そこに、今の距離が全部出ていた。
トーク画面は開かなかった。
返信も打たなかった。
この先、何か送るべき言葉が
見つかる気もしなかった。
⸻
スマホの電源を落とした。
部屋の中から、
小さな光がひとつ減る。
代わりに、
本棚の影がいつもよりくっきりして見えた。
明日になったら、
資格の本を鞄に入れよう。
休憩時間に、
一ページだけでも開いてみよう。
そう決めることで、
ようやく呼吸が少しだけ楽になった。
天井を見上げる。
静かな天井は、
何も答えてくれない。
それでも、
その沈黙に体を預けるしかない夜も、
きっと悪くはないんだろうと思いながら、
目を閉じた。




