part5 偶然を装うファンサ
[弓視点]
配信ソフトのカウントが消える。赤いランプが灯って、私の部屋だけが少し舞台みたいになる。
「こんばんは。弓です」
声が自分の耳にも少し高く聞こえる。(ちょっと緊張してる。深呼吸して。)
コメント欄が動き始める。
【ハル】こんばんは!
【カオル】弓さん、おかえり〜
【リリィ】今日も笛?雑談?
「ただいま。えっと、今日は……最初は雑談してから、少しだけ吹こうかな」
(言葉、選ばない。思った順に出していく。沈黙を怖がらないで、でも空白は作りすぎないで。)
「最近ね、外の空気、吸いたいなって。ずっと部屋で吹いてると、音が壁に当たって戻ってくるでしょ?あれ、ちょっと苦しくなる時があって」
【ハル】わかる〜
【カオル】じゃあ外配信!?
【リリィ】虫は?笑
「虫は……だめです」
自分で笑ってしまう。(正直に言うと、屋外は恥ずかしい。けど——)
「山とか川とか、自然の中でね。音が空に溶けるの、聴いてみたいなって。……私が」
【??】いいね!
【ハル】外ライブ、見たい!
【カオル】場所どこ!?
(来た。そこ、掘られると困る。)
「外配信は、しないかな。人に見られたら吹けないから。……でも、もし、だれもいなかったら、来てくれた人にだけ——聴かせてあげるよ。冗談だけど」
【ハル】その冗談、信じるぞw
【リリィ】どこの山にするの?
【カオル】ヒント〜
「ひみつ」
(即答。目線はレンズ。笑いは軽く、でも早く切らない。)
【森】風に乗る音、きっときれいですね。
(あ。来てる。)
「“風に乗る音”、いい言い方。そういうの、好きです」
(好きって言った。言葉が少し前に出た。戻さない。今日は戻さない。)
「じゃあ、一本だけ。短いの、吹きます」
笛を取って、唇に当てる。短い旋律を二つ。余韻が部屋の角に触れて薄くほどけていく。(戻ってくる音も、今日はやさしい。)
曲を終えるとコメントが流れる。
【ハル】はぁ〜…
【リリィ】短いの、刺さる
【カオル】もっと!
「今日はこれくらいで。来てくれてありがとう。またね」
配信を切る。赤いランプが消える。(言った、「好き」って。外の話もした。……うん、今日はここまででいい。)
机の端にリュックを出して、明日のメモを付箋に書く。「笛/布/水/カーディガン/財布」——(財布、朝、入れ替える。忘れない。)
電気を落とす前に、一度だけスマホを見た。通知は静か。静かで助かる。
――
翌夜。
マイクの前に座って、開始ボタンを押す。まだ視聴者は「0」。音声のレベルメーターだけが小刻みに跳ねる。
「こんばんは。弓です」
(テストみたい。もう一回。)
「聞こえてますかー」
数字が「1」になる。コメントがひとつだけ灯る。
【森】こんばんは。どの山、行くの?
(最初に来たの、森さんだ。……どうする?誰もいない。今だけ。いまだけ、私と森さんだけの空気。言わないでおこう、のほうが安全。——でも、言ったら楽になる。言っても、ばれない瞬間なら。)
私はマイクに少し近づいて、声を落とした。
「……○○山。内緒ね」
言い終えた瞬間、視聴者が「3」になった。
「こんばんは、いらっしゃい。今日もありがとう」
(言った。小さく。たぶん、届いた。届いてしまった。——深く吸って、吐く。)
「一本だけ、吹きます。短いやつ」
笛を構える。短い旋律。今夜は、出だしの息がほんの少し震えた。(誰かの耳に、合図みたいに刻まれる音。)
曲が終わる。
【ハル】ナイス
【カオル】今日もありがとう
【リリィ】息の音、好き
「ありがとう。今日はここまで。おやすみなさい」
配信を切る。椅子の背にもたれて、肩から力が落ちる。(言った。山の名前。独り言の大きさで。あれは冗談じゃない。……でも、約束でもない。)
机の端の付箋。「財布」に丸をつける。リュックを開けて、笛と布と水を入れる。(“来ない”かもしれない。“来る”かもしれない。どっちでもいい顔で行く。どっちでもよくない気持ちのまま行く。)
――
朝。
駅のホームに立つ私の足先は、小さく内側へ向いた。(いつもそう。緊張すると足が頼りなくなるから、内側に寄せてバランスを取る。)
各駅停車。窓の外が畑になって、家が減って、山の影が大きくなる。
(来てる、かも。来てない、かも。どちらの可能性も同じ重さで持っていく。会いたい、は言わない。ファンサ、って心の中で何度も言っておく。安全、って言葉も置いておく。)
登山口。
お土産屋と古いベンチ。靴ひもを結び直す。
(今日は“吹かない”。人がいる場所では。吹くなら、一本だけ、下りる手前で。見られないタイミングで。)
リュックのポケットを撫でる。鍵、ハンカチ、リップ。(財布は——朝、入れ替えた。……はず。帰りにもう一度、確認する。)
最初の坂を上がる。木の匂いと水の匂い。(音、吸ってくれる空気だ。)
砂利がひとつ転がる音。
私は笛を布でくるみ直して、顔を上げる。少し離れたところに人影。私より先に、その人が半歩だけ下がる。視線が合う。
「……こんにちは」
(配信と同じ声が出た。よかった。)
「こんにちは」
森さんは、正面に回り込まず、距離を保って会釈する。
「配信で……いつも聴いています。ここに居ても大丈夫ですか」
「大丈夫です。——歩きますか。今日は、吹かないので」
「はい。邪魔にならない距離で」
「そんなに距離、いらないですよ」
(自分で言って、頬が熱くなる。言葉が前に出すぎた。戻さない。今日は戻さない。)
並んで歩く。最初の数分は、木と鳥と靴だけがしゃべる。
私は沈黙が苦手なはずなのに、今日は平気。(横の足音が、沈黙の居場所を作ってくれる。)
「森さん、歩くの、速いですか」
「遅い方です。弓さんに合わせます」
「合わせてくれるの、助かる」
「合わせるの、好きです」
「好き?」
「安心させられるので」
「それ、ずるい言い方」
「ずるい、ですね」
(正直。言い方がまっすぐで、ずるい。好き。)
踊り場のベンチが空いている。並んで腰を下ろす。拳二つぶん、距離。
私は未開封の水を差し出す。
「冷たいけど、どうぞ」
「ありがとうございます」
キャップが開く小さな音。二口、止めるところで止まる人だ。(きれいな止め方、好き。)
「昨日……最初、誰もいない時間、ありましたよね」
森さんがふたを閉めながら言う。
「ありました」
「そこで、質問しました。“どの山、行くの?”って」
「見ました」
「弓さんは、少し迷ってから、名前を言いました」
「小さくね。独り言くらいの小ささで」
「独り言でした」
「独り言でした」
「偶然」
「偶然」
(同じ温度で重ねられる言葉って、安心する。——“偶然”は便利。私の逃げ道でもある。)
「今日、吹きますか」
彼が先に聞く。
「一本だけ。……長いのじゃない」
「短いの、嬉しいです」
「短いと、覚えていられる?」
「はい。長いのは、家に持ち帰ると形が変わる。短いのは、そのまま持てます」
「そういう言い方、好き」
「弓さんの“好き”は貴重なので、心でメモします」
「ずるい」
「はい」
私は立ち上がる。(人がいないかどうか、左右と背後、ぜんぶ見る。)
笛を布から出して、唇に当てる。一本、短く。
終わって、拍手の音を待つ——来ない。(そうだ、今はふたりだ。拍手は要らない。静けさで十分。)
「もう一本、お願いできますか」
「欲張り」
「似合わないのに、したい日です」
「……うん。もう一本だけ」
さらに短く。二本目は、息の抜き方が柔らかくなる。(誰かの前で吹く“怖さ”が、少しだけほどけた。)
笛を布に包んで、チャックを閉める。
「終わり」
「ありがとうございます」
「礼、早い」
「お礼を先に言うと、今日がきれいに終わりやすい気がして」
(“きれいに終わる”。その言い方、助かる。私も、その線でいきたい。)
下り始める。半歩、さっきより近い。
駅の高架が見えてきたころ、私はリュックの前ポケットを探る。鍵、ハンカチ、リップ——(財布、ない。)
「あ」
森さんがすぐに見る。
「どうしました」
「財布、家。朝、入れ替えて、そのまま。チャージ、ない」
明るい声で言ったけど、語尾が上ずるのが自分でも分かる。(言わないで帰るのは無理。ここは、ちゃんと言う。)
森さんは歩幅も速度も変えない。声だけ、慎重に落とした。
「提案してもいいですか」
「はい」
「駅の手前の小さなスーパーで米を買います。支払いは僕。受け取るのは弓さん。運ぶのも弓さん。改札の手前で別れます」
「運ばない」
「運びません」
「なんで米って分かったの」
「昨日の配信で、“白と茶色が切れかけ”と」
「言ったっけ」
「小さく」
「独り言、多いな、私」
「独り言が聴こえる距離に、たまたま居合わせました」
「偶然」
「偶然」
(偶然。今日、何回言った?でも、便利。今日くらい、許してほしい。)
自動ドア。蛍光灯。惣菜の匂い。
お米の棚の前で、二キロと五キロ。私は五キロを持ち上げる。ずしっと来る。
会計をしてもらって、私は取っ手にハンカチを巻く。
「これで手、痛くない」
「配信で見ました」
「見られてた」
(くすっと笑う。たぶん、今の笑い方は、配信ではしないやつ。)
改札の手前で止まる。人は少ない。
五キロの重さが腕にいる。呼吸を整える。(ここが“終わり方”の場所。)
「ここまで、ありがとうございました」
「いえ」
(“じゃあ”で切る?切れる?切りたい、けど——)
「……もし、よかったら、連絡先、交換します?」
森さんはすぐに頷かない。まっすぐ見る。断られている感じはしない。確認している目。
「条件、決めさせてください」
「はい」
「必要なときだけ使う。名前と住所は出さない。終わるときは“ありがとう”で終わる」
「それ、好き」
「よかった」
私はQRを開く。小さく音が鳴る。画面に「弓」「森」。それだけ。(このくらいの情報量が、今日の私たちにはちょうどいい。)
「お米、落とさないで」
「落としたら、連絡します」
「そのための連絡先ではない、と思いますが」
「冗談。たぶん」
笑って、改札を通る。振り返ると、森さんが会釈する。私は小さく手を上げる。
ホームで電車を待ちながら、五キロの袋を膝に置く。(正直な重さ。責任、ってこういう感じ。)
電車が来る。乗り込む。座る。スマホを出す。
(ありがとう、だけでいい。長く書かない。約束の使い方で。)
弓:無事に乗れました。
弓:ありがとうございました。
送信。(“必要なときだけ”。今日は、必要だった。)
車輪の音が一定になっていく。
窓に映る自分が少し赤い。(歩いたから。言ったから。名前を、場所を、ありがとうを。)
明日、台所で白い湯気を見るとき、今日の会話がまた思い出になる。
——そのときは、また短い曲を一本。自分だけに聴こえる音量で。誰にも見えない角度で。私と、私が選ぶ人だけに分かるくらいに。




