part49 誰?
【森視点】
弓さんに会うのは、
少し怖かった。
配信から離れて、
LINEもほとんど来なくなって。
俺だけが、
前の温度を引きずっているような気がしていた。
(このまま、自然消滅みたいになっていくんだろうか)
そんな予感を、
どうしても飲み込めなかった。
だから無理やり時間を作った。
今日を逃したら、
次に会えるのは二ヶ月以上先になるとわかっていたから。
駅の改札前は、人の音で満ちていた。
アナウンスと足音が混じって、
遠くでかすれたメロディが流れている。
少し遅れて現れた弓さんは、
画面越しよりも細く見えた。
「おつかれさまです」
「おつかれー」
軽い声。
そこに、
特別な色はついていない。
(これが“今”の距離なんだろうな)
一度だけそう思って、
飲み込んだ。
駅から少し離れたカフェに入る。
窓際の席に座ると、
午後の光がテーブルの端だけを白く照らしていた。
弓さんはアイスカフェオレ、
俺はホットコーヒーを頼んだ。
「最近どう? 仕事」
「まあ、相変わらずですね。
バタバタしてます」
「だよね。
なんか、いつも忙しそうだもん」
そう言って笑う顔は、
配信で見るときとあまり変わらない。
けれど、
目の奥の温度だけが少し違うように見えた。
少しだけ沈黙が落ちる。
氷のぶつかる音が、
グラスの中で小さく鳴った。
「……弓さん」
自分の声が、
思ったよりも低く出た。
「はい?」
「最近、少し……距離がありますよね」
弓さんは、
ストローを指で軽く押しながら首をかしげた。
「そうかな?」
本当にそう思っているような、
ただ面倒な話を避けているだけのような、
そのどちらにも見える顔だった。
(わからない)
その一言に尽きた。
「前より、
LINEも電話も減ってますし」
「うん。
なんか、あんまり意味ないなって思って」
「意味、ですか」
「うん。
文字とか電話って、気持ち伝わんないじゃん。
会えば大丈夫なんだけどね」
会えば大丈夫。
その言葉が、
胸のどこかで引っかかる。
(じゃあ……会えない時間は全部、“大丈夫じゃない”のか)
そう聞き返すのはやめた。
「でも、今度会えるのも、だいぶ先になりそうです」
「うん。
次は二ヶ月くらい空いちゃうかも」
さらっと言われる。
俺は、
その二ヶ月のあいだに何度も考えるだろうことを想像していた。
弓さんは、
そこに何も乗せていない。
その温度差が、
ゆっくりと広がっていく。
カフェオレを一口飲んでから、
弓さんがふいに言った。
「……あのね」
「はい」
「私、彼氏つくろうと思う」
テーブルの上の光が、
少しにじんだ気がした。
「……彼氏」
繰り返す声が、
自分でも驚くほど乾いている。
弓さんは、
当たり前みたいな顔でうなずいた。
「うん。
森さん、奥さんいるじゃん。
このままだとさ、私だけ変な感じになりそうで。
依存とか、そういうの」
ストローの先で氷をつつきながら続ける。
「だから、ちゃんと“正しい形”に戻りたいなって思ってる」
(正しい形)
その言葉だけが、
輪郭を持って胸の奥に残る。
「最近ね、
同じライバーの子に男の人紹介してもらっててさ。
優しい人らしいよ」
口調は軽い。
俺の知らないところで進んでいた話を、
今ここで初めて知らされている。
(そうか。
もう、そこまで行ってるんだ)
驚いているのか、
傷ついているのか、
それとも単に遅れて事情を知っただけなのか。
自分の感覚が、
うまく分類できなかった。
弓さんは続ける。
「森さんのこと、嫌いになったとかじゃないよ。
会うと落ち着くし」
「……落ち着く」
「うん。
でも、それとこれとは別っていうか」
別。
簡単に線を引かれる。
「俺は……」
言いかけて、
言葉を探す。
「俺は、弓さんの人生に口を出せる立場じゃないです」
「うん。ないよ」
即答だった。
それが正しいのはわかっている。
正しいのに、
胸の奥で何かが静かに軋んだ。
「でもね」
弓さんは、
少しだけ声をやわらかくした。
「森さんと会うの、嫌じゃないんだよ。
落ち着くし。
だから、今みたいにたまに会えればいいかなって思ってる」
今みたいに。
(……今みたいに、ってどんな状態だ)
配信にはほとんど来なくなって、
LINEも減って、
でも思い出したように会って。
そのあいだ、
俺がどういう温度で待つのかについては、
一度も話題に上らない。
「弓さんは、それでいいんですね」
「うん。
私はね。
森さんは? 離れたいの?」
まっすぐに聞かれる。
(離れたい)
(でも、離れられない)
二つの言葉が同時に浮かんで、
喉の手前でせり合っていた。
「……離れたいわけでは、ないです」
ようやく出た方の言葉を選ぶ。
弓さんは、
それを聞いて小さく笑った。
「じゃあ、このままでいいじゃん。
なんでそんな重くなるの。
ちょっとめんどくさいよ」
氷がカランと鳴る。
(めんどくさいのは、俺なんだろうか)
(それとも、関係そのものか)
答えは出ない。
「……弓さんは、自分のことめんどくさいって言ってましたよね」
前に聞いた言葉を思い出す。
弓さんはあっさり頷いた。
「うん。
私めんどくさいよ?
でもさ、森さんって、そういう子好きなんでしょ。
よく言われるもん。
めんどくさい子にハマるタイプだよねって」
苦笑する。
「ほんとはね、そういうの封印してたんです。
人に構いすぎると、どろどろになるってわかってたから」
「ふうん。
でも、もう開けちゃったじゃん」
弓さんは、
悪びれもなくそう言った。
その通りだった。
コーヒーはほとんど冷めていた。
店を出る頃には、
夕方の光に少しだけ青みが混じっていた。
駅までの道を並んで歩く。
信号待ちのあいだ、
弓さんは信号機ではなく、
遠くの空を見ていた。
(終わらせた方がいい)
(でも、今横にいるこの人を、
今ここで手放せるかといえば、
たぶん無理だ)
自分で自分に
呆れるような感覚があった。
駅前を避けて、
少し人通りの少ない道にそれた。
ビルの影が長く伸びて、
風の音だけが耳に触れる。
「弓さん」
立ち止まって呼ぶ。
「なに?」
振り向いた顔は、
いつもの配信よりもずっと無防備だった。
考えるより早く、
身体が動いた。
腕を伸ばして、
そっと抱き寄せる。
弓さんの身体が、
一度だけ小さく震えた。
それから、
力を抜くみたいに胸のほうに重みを預けてくる。
拒まれることはなかった。
息を吸う音が、
すぐ耳のそばでふるえた。
髪が頬に触れ、
微かな匂いがした。
少しだけ顔を離して、
そのまま唇を重ねる。
弓さんは、
目を閉じた。
押し返されることも、
拒絶されることもない。
ただ、
静かに受け入れられていた。
(……これは、何なんだろう)
理屈はどこにも見当たらない。
さっきまで「彼氏をつくる」と言っていた人が、
今こうして俺の腕の中にいる。
弓さんの指先が、
シャツの裾を弱い力でつまむ。
その小さな動きだけが、
今ここにある本音のように思えた。
唇を離しても、
しばらくのあいだ、
弓さんは目を開けなかった。
風が少し強く吹いて、
ビルの隙間で音を立てる。
「……ねえ」
弓さんが、
胸元に顔を寄せたまま言う。
「今のままじゃ、ダメ?」
問いかけなのか、
確認なのか、
自分に言い聞かせているのか。
そのどれにも聞こえた。
返事が喉で渋滞する。
「正しい形」がどこにあるのかも、
「終わるべき場所」がどこなのかも、
もうわからなくなっていた。
ただ、腕の中の温度だけが、
やけに現実的だった。




