part48 依存だったんだ
【弓視点】
配信ボタンを押す前に、
指先が少しだけ冷たくなる。
いつもと同じことをしているだけなのに、
今日はその冷たさが
少し長く残った。
「……こんばんは。弓です」
マイクに声を乗せる。
狭い部屋の空気が、
一度喉を通って、
画面の向こうに放り出されていく感じがする。
イヤホンの中で、
わずかな残響が返ってくる。
それを聞いて、
やっと「始まった」と思う。
⸻
最初のコメントが
ゆっくり流れてきた。
〈〇〇:こんばんは〉
〈△△:今日も来ました〉
〈刈り上げ:おつ〉
「〇〇さん、こんばんは」
「△△さんも、今日もありがとう」
「刈り上げくん、おつかれさま」
名前を一つずつ拾いながら、
喉の奥を少しずつ温めていく。
コメント欄の文字を追いながら、
その中に
見慣れた二文字がないことに気づくのは、
ほとんど反射みたいなものだった。
(今日も……来てないか)
そこで一度、
視線を画面から外した。
⸻
「今日はね」
何を話すか決めていたわけじゃないのに、
声だけが先に動く。
「外、静かなんですよ」
「さっきまで雨の音してたんですけど、
今はもう止んでて」
窓の外をちらっと見る。
ガラスの向こうで、
街灯の白い輪郭が少し滲んでいる。
部屋の中では、
冷蔵庫の小さな音と、
パソコンのファンの回る音が
かすかに重なっていた。
〈〇〇:こっちはまだ降ってる〉
〈△△:雨音好き〉
「雨の音、いいですよね」
「わたしも好きです」
言いながら、
(こういう話をするとき、
森さんはいつも何か一言くれたな)と
ふっと思い出す。
「その音、いいですね」とか。
「今の情景、好きです」とか。
そういう短い一行が、
必ずどこかに落ちていた。
今日は、その一行はない。
それでも枠は流れていく。
⸻
「そうだ」
話題を変えるみたいに、
息を吸い直す。
「刈り上げくん」
〈刈り上げ:はい〉
「この前、文字のこと言ったじゃないですか」
「ちょっときつく見えちゃうかもって」
刈り上げくんのコメントは、
前より少しだけ丸くなった。
文の最後に
ひとつだけ絵文字が足されたり、
言い切っていた言葉が
少しだけ柔らかくなったり。
「前より、
他の人も入りやすくなってる気がします」
「変えてくれて、ありがとう」
それは、
本当にそう思っている言葉だった。
〈刈り上げ:こちらこそ〉
〈刈り上げ:言ってくれたおかげです〉
〈〇〇:たしかに前よりやわらかい〉
〈△△:コメント読みやすくなった〉
コメント欄が
ふわっと明るくなる。
「みんな、ちゃんと見てますね」
「そういうの、すごく助かります」
枠のことを一緒に考えてくれる人がいることが、
どれだけ心強いかはよく分かっている。
少し前まで、
そういう話は
ほとんど森さんとしかしてこなかった。
(いつの間にか、
刈り上げくんに相談する方が
当たり前みたいになってる)
そのことに気づいた瞬間、
胸のどこかが
小さく揺れた。
⸻
「一本だけ、吹こうかな」
そう言って、
手を伸ばして笛を取る。
「音、大きかったら教えてくださいね」
マイクとの距離を少しだけ離して、
息を吸う。
肺の奥に入ってくる空気の冷たさを
きちんと確認してから、
指を穴に置いた。
一音目が、
部屋の壁に当たって跳ね返る。
その反射が
少し遅れて耳に戻ってきて、
やっと音になったと実感する。
〈〇〇:この曲すき〉
〈△△:今日の音、やさしい〉
〈刈り上げ:安定の音色〉
コメントの気配を感じながら、
指を動かす。
(森さんなら、
今の一瞬を拾ってくれたかもしれない)
そう思う瞬間が、
ところどころにあった。
音の揺れ方とか、
息の抜け方とか、
わたし自身が言葉にできない部分を
いつも見つけてくれていた。
今は、その言葉はどこにもない。
ただ音だけが、
ここから向こうへ流れていく。
⸻
曲を終えたとき、
静けさが少し重く落ちてきた。
「ふう……」
小さく漏れた息まで、
マイクが拾ってしまう。
〈〇〇:おつかれさま〉
〈△△:耳が喜んでる〉
〈刈り上げ:今日の揺れ方、好きでした〉
「聴いてくれて、ありがとう」
「そう言ってもらえるの、うれしいです」
ひとつひとつ、
コメントに触れていく。
(前みたいに、
森さんからの感想を
どきどきしながら待ってる自分は
もういないんだな)
ふと、そう思う。
寂しいような、
ほっとしているような、
どちらとも言えない感覚が
胸の奥で混ざり合った。
⸻
「最近、少し思ったことがあって」
自分で話を振っておきながら、
何を言うかは
まだはっきり決めていなかった。
「ずっと“好き”だと思ってたものが、
そうじゃなかったんだ、って
ふいに分かるときってありませんか」
コメントの流れが、
少しだけゆっくりになる。
「好きというより、
そこに寄りかかってただけだったんだな、って」
声にしてみると、
その言葉は自分に向けて
一番強く響いた。
〈〇〇:あるかも〉
〈△△:分かる気がします〉
〈刈り上げ:依存ってやつ?〉
「依存、って言葉が
いちばん近いのかもしれないですけど」
「名前をつけたら
少し楽になる気もするし」
「でも、
まだはっきりそうだとは言えない感じもあって」
(たぶん、
森さんのことなんだろうな)
心の中でだけ、
その名前を置く。
「前みたいな、
胸がきゅっとなる感じは
ほとんどなくなったんです」
「でも、
いなくなってほしいわけじゃないんです」
「この感じが、
いちばんややこしいなって」
自分で言いながら、
苦笑いが少し混ざる。
〈〇〇:なんとなく分かる〉
〈△△:距離が変わるときの感じかな〉
コメントを見て、
(伝わってる)と
少しだけ安心する。
⸻
「全部受け止めてくれる人だ、って
思ってた人が」
「そうじゃなかったんだって
分かる瞬間とか」
「その逆とか」
言葉を選ぶように、
ゆっくり話す。
(森さんは、
全部を受け止めてくれる人じゃなかった)
それは
どこかで知っていたはずのことだった。
でも、
はっきり突きつけられたとき、
自分の中の何かが
静かにほどけた。
(夢が一枚、
はがれたみたいな感じ)
そう思うと、
少しだけ呼吸がしやすくなる。
「それに気づいたときに」
「“好き”だと思っていた気持ちが
違う形に変わっていくんだろうな、って」
そこまで話して、
自分から話題を切った。
「……はい。
難しい話はこれくらいにして」
〈〇〇:切り替えはやい〉
〈△△:でもいい話だった〉
〈刈り上げ:そういうの話してくれるの、好きです〉
「聞いてくれて、ありがとう」
「暗くしすぎると、
ここに来づらくなっちゃうから」
「ちゃんと戻れる場所、残しておきたいなと思って」
それは、
前に森さんから
何度も言われたことだった。
(今も結局、
その言葉に寄りかかってるんだよな)
心の中で、
小さくそうつぶやく。
⸻
他愛のない話を
いくつか挟んでから、
時間を見た。
「そろそろ、
終わりにしようかな」
〈〇〇:今日もおつかれさま〉
〈△△:また来ます〉
〈刈り上げ:いい枠でした〉
「今日も来てくれて、ありがとう」
「みんながいてくれるから、
続けられてます」
名前を一人ずつ読みながら、
そのたびに
胸の中で小さく礼を言う。
森の名前は、
やっぱりどこにもない。
(これが、
今の“普通”なんだろうな)
その言葉を飲み込むようにして、
最後の挨拶をする。
「じゃあ、
今日はこのへんで」
「おやすみなさい」
配信を切るボタンを押す。
赤いランプが消えた。
⸻
静かな部屋に、
自分の呼吸の音だけが残る。
(森さんがいない方が
やりやすい部分も、たしかにある)
その事実を
認めたくない気持ちと、
認めてほっとしている気持ちとが
同じ場所に座っている。
(離れたいわけじゃないのにな)
そう思いながら、
暗くなった画面を指先でなぞる。
通知は、
何も鳴らない。
その静けさが、
少しだけ
心細く感じられた。




