part47 排除
【森視点】
暗くした天井を見上げながら、
耳の奥で、さっきの「うん」が
何度も形を変えて響いていた。
肯定にも聞こえる。
諦めにも聞こえる。
ただの相槌にも、
約束の合図にも。
(どれなんだろうな)
考え始めると、
どこまでも落ちていきそうで、
途中でやめた。
俺が欲しかったのは
「うん」じゃなくて、
その前に続く何か別の言葉だった気もする。
でもその「別の何か」を
弓さんが持っていない、ということを
一番よく知っているのも俺だ。
(分かってて、
まだ期待してたんだな)
目を閉じると、
疲れた自分の笑い顔みたいなものが
ぼんやり浮かんだ。
⸻
翌日、
枠の時間になっても
アプリを開かなかった。
通知は来ていた。
「配信が開始されました」。
いつもの定型文だ。
アイコンの上に
小さな赤い丸がついている。
それを見ているだけで、
胸のどこかがざわついた。
(今日は……やめておこう)
自分の中で
はっきりそう言葉にした。
行けば、
昨日の続きを
何かしら感じることになる。
弓さんの声の温度とか。
コメント欄の空気とか。
自分の名前が出るか出ないか、とか。
今の状態の俺には、
それを全部受け止める余裕は
どう考えてもなかった。
スマホを裏返す。
画面の光が消えると、
少しだけ呼吸が楽になる。
(これが正しいかどうかは分からないけど)
(今は、ここまでだな)
そう決めた。
⸻
何日か、
同じことを繰り返した。
配信のお知らせが表示される。
開かない。
画面を伏せる。
その間、
弓さんからの連絡は
不思議なくらい来なかった。
(ああ、
やっぱりそういうふうに動くんだ)
枠のことに集中しているのかもしれないし、
単純に、
俺への連絡の優先度が
前より下がっただけかもしれない。
理由は分からない。
分からないけれど、
沈黙の長さは
少しずつ種類を変えていく。
最初の一日目は、
「今日は疲れたんだろうな」と思えた。
二日目は、
「様子を見てるのかもしれない」と考えた。
三日目になると、
「このまま、
ここで途切れる可能性もあるな」と
どこかで冷静に思う自分がいた。
(それでもいい、とは
まだ言えないな)
その本音だけが
腹の底に残っている。
⸻
四日目の夜、
久しぶりにメッセージが来た。
〈弓:今日は、来ないの?〉
短い一行だった。
いつもみたいな顔文字もない。
それがかえって、
言葉そのものの重さをはっきりさせていた。
(今さら、か)
そう思う自分と、
(やっと、か)と思う自分が
同時にいた。
しばらく画面を見つめたあと、
ゆっくり文字を打つ。
〈森:たぶん、もう配信には
あまり行かない方がいいと思ってる〉
送信ボタンを押した指先が
少しだけ震えた。
「行かない」ではなく
「あまり行かない」と
言葉をぼかしたあたりに、
自分の未練がにじむ。
返事はすぐには来なかった。
通知が鳴らない時間が、
やけに長く感じる。
数分後、
画面が小さく震えた。
〈弓:……うん〉
たったそれだけだった。
(そうだよな)
俺はゆっくりと息を吐いた。
「やだ」と言われたとしても、
「分かった」と言われたとしても、
きっと苦しかった。
「うん」という、
どこまでも曖昧な返事が
一番その人らしいと思った。
それが、
今は少しだけ痛かった。
⸻
数日後、
とうとう好奇心に負けた。
(今、どうなってるんだろう)
枠のアイコンを開く。
ライブ中の表示がついていた。
(入るのは、
やめておこう)
自分のアカウントでは
入る気になれなかった。
別のブラウザ経由で、
そっと様子だけ覗く。
名前のない観客みたいな視線で、
画面の中を眺める。
弓さんの声がした。
「こんばんは。弓です」
今日の声は、
だいぶ軽く聞こえた。
よく笑っている。
コメント欄には、
見慣れない名前がいくつも流れていた。
〈初見です〉
〈はじめまして〉
〈刈り上げくんのところから来ました〉
(……増えてるな)
素直にそう思った。
〈刈り上げ:ようこそ〉
〈刈り上げ:ここ、ええとこやで〉
その人は、
すっかり“案内役”の位置に
おさまっていた。
新しい人が来るたびに
一言だけ添える。
その一文が
枠全体の温度を
うまく繋いでいる。
(上手いな)
素直にそう感じる。
弓さんも、
それにきちんと応えていた。
「ありがとうございます」
「来てくれてうれしい」
「また来てね」
言葉の選び方も、
前より少し丸くなっている。
刈り上げの文字について
注意したときのやり取りが
ちゃんと活きているのが分かった。
(……そうか)
胸の奥で、
何かが小さく完結する音がした。
人気が伸び悩んでいた頃。
「誰も来ない」と泣きそうになっていた頃。
あのとき、
俺は必死で隙間を埋めようとしていた。
タイトルのこと。
配信時間のこと。
説明文の書き方。
配信外の電話で
何度も何度も話した。
(ここが穴だと思って、
俺はそこに張り付いてたんだよな)
その穴が今、
別の形で埋まっている。
それ自体は
とても良いことだ。
(弓さんの枠としては、
きっと今の方が健全なんだろう)
そう思う。
頭では。
⸻
それと同時に、
別の感情が
静かに立ち上がる。
(隙間があったから
俺は必要とされたんだな)
「誰もいないから」
「困っているから」
「数字が出ないから」。
そういう理由で
俺はここに呼び込まれたんだと思う。
そして、
その隙間が別の存在で埋まったとき。
俺は
ただの「少し重たい常連」になった。
刈り上げくんは
枠のことを考えて、
アイテムも投げて、
場を回す。
俺は、
弓さんのことばかり見て、
ときどき枠のことも考える。
(そりゃあ、
どっちが今必要かって聞かれたら
答えは決まってるよな)
自分でそう言いながら、
どこかで笑っていた。
〈森:隙間があるから埋めようとした俺が
結果として排除されるんだ〉
以前、
頭の中だけで書いた一文が
ふいに蘇る。
(馬鹿みたいだな)
声には出さなかった。
⸻
弓さんの笑い声が、
画面の向こうで弾んだ。
「それ、めっちゃおもろい」
「センスあるなあ」
誰かのコメントに
そう返している。
(今の俺には、
あの笑い方を
こっちに向けさせる権利はないんだろうな)
そう思った。
枠が賑やかになっていくのを
眺めていると、
不思議なくらい冷静な自分と、
遅れて襲ってくる寂しさとが
身体の中で別々に座っていた。
(こうなるのが怖くて、
最初から距離を詰めないようにしてたんだけどな)
それでも、
一度深く入り込んでしまえば
結果は同じだった。
隙間を埋める役割を
自分から選んでしまう。
埋め終わったあとに
邪魔になる。
それを悟って、
自分からフェードアウトする。
(たぶん、
これまでも何度か
同じことをやってきたんだろうな)
そんな気がした。
弓さんの枠は、
その輪の一つに過ぎないのかもしれないし、
特別なものなのかもしれない。
今はまだ
判断がつかない。
⸻
配信の音量を絞る。
声が遠くなると、
少しだけ、
現実と距離がとれた気がした。
(完全に切ることもできないし、
前みたいに戻ることもできない)
思考のどこかで
その中途半端さだけが
くっきりと輪郭を持っている。
弓さんと
もう二度と話したくないわけじゃない。
でも、
前と同じようには
もう話せないとも分かっている。
(俺の方の温度も、
きっと変わっていくんだろうな)
あの電話で、
何かが決定的にずれた。
弓さんは
自分の夢から少し覚めるだろうし、
俺も
自分の役割について
少し冷静になっていく。
それが
“正しい方向”かどうかなんて、
今の時点では分からない。
ただ一つだけ確かなのは、
ここから先の俺はもう、
前みたいに
「全部受け止める側」には戻れないということだ。
(そのとき、
弓さんは俺をどう見るんだろうな)
枠を助けてくれた人としてか。
自分を振り回した相手としてか。
それとも、
ただの一時期のリスナーとしてか。
どのラベルが貼られたとしても、
きっとどこかで
俺はまた少し揺れる。
画面を閉じた。
耳からイヤホンを外すと、
部屋の静けさが
ほんの少しだけ
優しく感じられた。




