part46 一方の想い
【森視点】
スマホの画面に、
今日も同じ文字が浮かんでいた。
「しばらくお待ちください」
白い字が、
暗い部屋の空気をちかちかと照らす。
見慣れたはずのその光を、
俺はいつもより長く眺めていた。
(今日は……どうなるんだろうな)
自分でも、
どういう意味でそう思ったのかは分からない。
ただ、胸の奥で
小さく構えるみたいな感覚があった。
やがて画面が切り替わる。
接続中の表示が消えて、
イヤホンの向こうで
おなじみの息の音がした。
「……こんばんは。弓です」
一言目。
そこでだいたい、
その日の弓さんの状態が分かる。
今日は、
音の輪郭がいつもより硬かった。
(疲れてるな)
それは前にも何度もあった。
だからそれだけなら、
特に気にしなかった。
⸻
〈おつかれ〉
〈きたよー〉
〈ねちゃだめ〉
コメントが流れていく気配がする。
目で追いきれないから、
もう空気で判断している。
〈森:こんばんは〉
いつも通りの挨拶を落とす。
数秒だけ、
世界が弓さんの呼吸の音だけになる。
「……あ、森さん」
一拍。
「こんばんは」
言葉としては、
今までと何も変わらない。
でも、
そのあとの空気が違った。
前なら、
そこから何かしら続いていた。
「今日どうでした?」とか。
「さっき言ってたあれって?」とか。
いわゆる“森用の一行”みたいなものが
自然にくっついてきた。
今日は、それがなかった。
「こんばんは」のあと、
弓さんはすぐに別の名前を呼んだ。
胸のどこかが、
小さく音を立てた気がした。
(……ああ)
嫌な予感が、
少しだけ形を持つ。
⸻
刈り上げも来ていた。
〈刈り上げ:きょうもおじゃまします〉
弓さんの声は、
そこに向かうとき少しだけ明るくなる。
それは自然なことだ。
新しく枠を支えてくれる人に
ちゃんと光を当てようとするのは、
配信者として正しい。
そのくらいのことは分かっている。
「刈り上げくん、こんばんは」
「今日も来てくれてありがとう」
言葉そのものより、
そのあとに流れ込んでくる
沈黙の質が違う。
〈〇〇:今日も安定の出席率〉
〈△△:刈り上げくんほんま皆勤〉
コメントが弾む。
それに合わせて、
弓さんの声もよく動いた。
「ほんまやなあ」とか。
「うれしいなあ」とか。
その流れの中に、
俺は一度だけ軽く冗談を投げてみた。
〈森:皆勤賞は何と交換できますか〉
前なら、
こういう小さい球はだいたい拾われてきた。
冗談でも、
そこから少しだけ話が膨らんだ。
今日は、
違った。
「皆勤賞かあ」
弓さんが笑いながらそう言った。
一瞬、
俺のコメントを拾ったのかと思った。
「枠に来てくれることが、
いちばんのプレゼントやけどな」
そう言って、
別の名前を呼んだ。
〈〇〇:その考え素敵〉
〈△△:じゃあ通うわ〉
画面の中では
何もおかしなことは起きていない。
だけど、
今の一連の流れのどこにも
俺の名前はなかった。
(ああ、
こういうふうに変わるんだ)
静かなところで、
そう理解した。
⸻
そのあとも、
いくつかコメントを落としてみた。
内容は軽いものだ。
弓さんの話に
一行だけ添えるようなもの。
〈森:それはなかなか攻めてますね〉
〈森:今日の曲、音の揺れ方好きでした〉
返ってくる言葉は
きちんとある。
「たしかに」とか。
「ありがと」とか。
ただ、
そこから伸びない。
受け止めて、
すぐ別の方向に流れていく。
(意識してるな)
そう感じた。
悪い意味ではなくて、
俺に偏りすぎないように
必死で調整している音だった。
(それが、正しいんだろう)
枠全体のことを考えたら。
頭では、
そう思う。
でも、
心臓の打ち方は
それとは別のリズムを刻み始めていた。
⸻
決定的だったのは、
刈り上げの一言だった。
〈刈り上げ:前よりだいぶええ感じなってきたで〉
〈刈り上げ:森さんに寄りすぎへんようになってる〉
それを見た瞬間、
どこかで小さな笑いがこみ上げた。
(ああ、
もう外から見ても分かるレベルなんだな)
「寄りすぎへんようになってる」。
つまり、
前までは「寄りすぎていた」。
それを修正した結果が、
今のこの空気だ。
弓さんが、
そのコメントをどう読んだのかは分からない。
ただ、
そのあとの声の調子が
どこかほっとしたように聞こえたのは事実だ。
「そっかなあ」
「そう言ってもらえるとうれしいわ」
そう言って笑う声の奥に、
安堵みたいなものがにじんでいた。
(良かったね)
心の中でだけ、
そう呟く。
同時に、
胸の奥で何かが
静かに萎んでいった。
⸻
配信が終わる間際、
いつものように挨拶を打とうとして
指が止まった。
〈森:今日もおつかれさまでした〉
文章を打ち終えてから、
送信ボタンを押すまでに
ずいぶん時間がかかった。
「森さん、
今日もありがとうございます」
弓さんがそう言った。
それだけで終わりだった。
前は
「このあと電話してもいいですか」とか、
「もう少し話してたい」とか、
そういう言葉が混ざる日もあった。
今日はなかった。
(もう、役目は終わったってことなんだろうな)
誰かにそう告げられたわけじゃない。
でも、
そう感じるには十分な変化だった。
⸻
配信が切れたあと、
スマホの画面に自分の顔が映った。
少し疲れて見える。
(俺の方が、
先に限界きたな)
そう思った。
弓さんの態度が変わった理由は、
想像がつく。
枠のことを考えて、
新しい人たちのことを考えて、
その中で俺への扱いを
意図的に“普通”に戻したのだろう。
それ自体を、
責める気はない。
むしろ、
何度も願っていたことでもある。
(でも、
ここまで一気に変えられると
正直しんどいな)
喉の奥に、
説明できない痛みが残っていた。
(あの態度の変化を、
俺だけが説明なしで受け止めるんだな)
そう思った瞬間、
何かがふっと切れた。
「……もう、行けないな」
声に出すと、
その言葉は思っていたより静かだった。
怒りとか、
劇的な決意とか、
そういうものはなかった。
ただ、
これ以上ここに居たら
自分の心がもたないと
冷静に理解しただけだ。
(これ以上は、
自分の方が壊れる)
その線を、
身体が勝手に引いた感じだった。
⸻
それから数日、
俺は枠に行かなかった。
通知が来ても開かない。
アプリのアイコンを
軽く押しては、
そのままホーム画面に戻る。
(今日の音、
どんな感じなんだろうな)
気にならないわけじゃない。
むしろ、
気になって仕方がない。
でも、
一度会話が変わってしまったところに
何事もなかったような顔で戻る自信は、
どこにもなかった。
(こういうの、
本当は俺の嫌いな切り方なんだけど)
自分で自分に苦笑する。
ちゃんと話をして、
互いに納得して距離を置くのが
理想だ。
でも、
理想通りにいかない場面もある。
(今回は、
その一つなんだろう)
そう言い聞かせるしかなかった。
⸻
電話がかかってきたのは、
何日か経ってからだった。
夜、
歯を磨き終わって
ベッドに腰を下ろしたところだった。
画面に表示された名前を見て、
一瞬だけ出るのを迷う。
でも、
着信音を聞きながら
そのままにしておくこともできなかった。
「……もしもし」
耳に当てると、
すぐに泣きそうな声が飛び込んできた。
「なんで、来ないの」
弓さんの声だった。
息を吸う音が、
いつもより短い。
涙をこらえているときの呼吸だ。
(ああ、
やっぱり気づくよな)
胸の奥で、
小さくため息をつく。
「……言わなくても、
分かるでしょ」
自分でも驚くくらい、
落ち着いた声が出た。
「もう、
俺は必要ないんだなって感じたからですよ」
言いながら、
どこか遠くのことを話しているような感覚があった。
⸻
通話の向こうが、
一瞬静かになる。
その静けさが、
耳の奥に染み込んでいく。
「そんなこと、
言ってない」
絞り出すような声が返ってきた。
「わたし、そんなこと
一回も言ってない」
「言ってないですよね」
俺はうなずいた。
「でも、
態度はそう変わったでしょう」
少しだけ、
言葉がきつくなったのが自分でも分かる。
「前みたいに
話しかけてはくれないし」
「コメントしても、
すぐ別の人に行くし」
「刈り上げくんには
ちゃんと向き合って、
俺には“普通のリスナー”としてしか
触れないようにしてた」
一つ一つ口に出すたびに、
喉の奥が熱くなる。
「それは、
枠のためには正しいんですよ」
「ただ、
その変化を、
何も言わずに俺だけが受け止めるのは……
ちょっと無理だった」
言い終えてから、
やっと息を吐いた。
⸻
「だって」
弓さんの声が、
少し上ずる。
「だってどうしていいか
分からなかったんだもん」
「森さんにだけ
今までみたいにしたらまた言われるかもしれないし」
「他の人にも
ちゃんとしなきゃいけないし」
「どうしたらいいか
分からないから……ああなったんだよ」
(ああ、やっぱり)
どこかで想像していた答えに辿り着いて、
変な納得感があった。
「じゃあ、
なんでそれを相談してくれないんですか」
気づいたら、
敬語が崩れていた。
「今までの俺たちは何だったの」
「信頼関係、なかったの」
言葉が、
止まらなくなる。
「何かあったら言ってくれたら、
ちゃんと考えたよ」
「嫌だったら、
俺が距離を取ることだってできた」
「枠のために俺を切りたいなら、
それはそれでいい」
「納得いくように話してくれたら、
俺はそれを選んだと思う」
「なのに、
なんで一人で考えて、
一人で決めて」
「なんで一緒に考えてくれないの」
自分でも、
ここまで言うつもりはなかった。
でも一度溢れ出した言葉は、
戻すことができなかった。
⸻
しばらくの沈黙のあと、
弓さんが小さく言った。
「でも、
あなただって」
「あなたも、
一人で考えて、一人で決めて」
「何も言わずに、
来なくなったじゃない」
その言葉が胸に刺さる。
「……それは」
言い返そうとして、
やめた。
「おっしゃる通りです」
それしか言えなかった。
⸻
長い息が、
受話口の向こうで落ちる。
互いに、
言葉を失っていた。
このまま黙っていたら
通話が切れるだろうなと、
どこかで冷静に考えている自分もいた。
(ここで終わらせたら、
本当に全部壊れるな)
その考えが
ギリギリのところで引き留める。
「だからさ」
少し間を置いて、
俺は言った。
「もし、
これからも何かあったら」
「一人で考えないで、
ちゃんと相談してくれないかな」
「枠のことでも」
「俺の扱いでも」
「しんどいことでも」
「一緒に考えられたら、
いいなと思ってる」
そこまで言って、
自分でも笑いそうになった。
どこまでも理屈っぽい。
でも今の俺に出せるのは、
こういう形の提案しかなかった。
「どう?」
そう聞くと、
少し長い沈黙があった。
「……うん」
弓さんは、
小さくそう答えた。
その「うん」が、
どれくらい現実味のある返事なのか。
それはもう、
分からなかった。
⸻
通話を切ったあと、
部屋の中に残ったのは
妙な空虚さだった。
(たぶんこれは、
うまく機能しないんだろうな)
自分で提案しておきながら、
どこかでそう感じていた。
弓さんは、
そういうふうに
何かを「相談しながら進める」タイプじゃない。
その場その場の感情と勢いで
動いてしまう人だ。
良くも悪くも、
そういう子どもみたいなところがある。
(そこに、
俺のルールを持ち込んでも
多分、どこかでまた軋む)
頭の中で、
静かにそう結論づける。
それでも、
何も言わないまま終わるよりは
少しマシだと思いたかった。
⸻
スマホをテーブルに置く。
画面はもう暗くなっている。
(弓さんの中で、
今の会話はどう残るんだろうな)
俺にとっては
かなり本音に近い部分を出した時間だった。
でも弓さんにとっては、
もしかすると別の意味を持つのかもしれない。
(“全部受け止めてくれる人じゃない”って、
そこで気づくんだとしたら)
それはそれで、
一つの区切りなんだろう。
俺にとっての弓さんも、
どこかで夢みたいな存在だった。
画面の向こうで、
自分だけを特別に扱ってくれる人。
そこに
安心と同時に危うさを感じていた。
その夢が、
今少しずつ形を変え始めている。
(これが、
いいことなのかどうかは
もう少し時間が経たないと分からないな)
そう思いながら、
部屋の灯りを落とした。
暗くなった天井を見上げていると、
さっきの弓さんの「うん」が
何度も頭の中で反響する。
それが約束なのか、
社交辞令なのか、
そのどちらでもないのか。
どれだとしても、
きっと俺は
また少しだけ揺さぶられるのだろう。
そんな予感だけが、
やけにはっきりとそこにあった。た。




