part44 居座った場所
【森視点】
自分の呼吸の音だけが、部屋の中で行ったり来たりしていた。
イヤホンを外したあとの静けさは、
さっきまで聞いていた弓の声を
きれいに洗い流してしまったみたいだった。
机の上のスマホだけが、
白い光で指先を照らしている。
さっきの枠のコメント欄を、
親指でゆっくりなぞっては戻す。
〈刈り上げ:森さんだけ扱いちゃうやろ〉
その一行のところで、毎回指が止まる。
文字はもう覚えているのに、
何度でも見直してしまう。
(俺の話なのに、人の口から言われる形なんだな)
そんな感想だけが、
喉の奥に引っかかったまま残っていた。
⸻
配信が始まったときは、
いつもと大して変わらない空気だった。
「こんばんは、弓です」
少し上ずった声。
最初の一言で、その日の温度がだいたい分かる。
〈森:こんばんは〉
いつものように、最初の方で名前を落とす。
〈常連:おつかれさま〉
〈常連:今日も来た〉
〈初見?:はじめまして〉
画面の中に、見慣れた名前が並ぶ。
それを見ていると、
少しだけ肩の力が抜けた。
(今日は、あまり荒れなきゃいいけど)
そんなことを考えながら、
スマホを持つ手を少しだけ持ち直す。
⸻
刈り上げが入ってきたのは、
枠の流れが落ち着いてきた頃だった。
〈刈り上げ:今日も来た〉
短い一文。
でも、アイコンも名前も目につく。
「刈り上げくん、こんばんは」
弓の声が、その名前を軽く拾う。
〈常連:今日もいる〉
〈常連:サボり?〉
〈刈り上げ:サボり中〉
文字が重なって、
枠の空気が少しだけ明るくなる。
(すっかり、馴染んだな)
素直にそう思う。
新しいリスナーが定着するのは、
配信者にとってはいいことだ。
弓の枠だから。
人が増えるのは、基本的には“いい変化”だ。
そこは、ちゃんと分かっているつもりだった。
⸻
違和感が顔を出したのは、
刈り上げが配信そのものに触れ始めてからだった。
〈刈り上げ:音ええのにな〉
〈刈り上げ:タイトルで損してる〉
〈刈り上げ:初見からしたら意味分からんやろ〉
文字だけ見れば、
言っていることはそれなりに筋が通っている。
ちょっときつめの関西のノリで、
短く刺すような文。
(ああ、その辺りは……前に一回だけ言ったな)
頭の中で、昔の会話が浮かぶ。
⸻
まだ今ほど距離が固まっていなかった頃、
俺は弓にこう言ったことがある。
「タイトル、もう少し分かりやすくした方が、
初めて来る人には入りやすいかもしれないね」
弓は少し困ったように笑って、
「そうなんだろうけど……考えるの苦手なんだよね」
と言った。
そこでやめておけばよかったのに、
俺はもう一歩、踏み込んだ。
「じゃあ、もしよかったら一緒に考えようか」
「客観的な視点があった方が——」
そこまで言ったところで、
弓の声の温度がすっと下がった。
「あんまり難しい話は、ちょっと……」
やんわりと、でもはっきりと、
そう線を引かれた。
その一言で、俺は理解した。
(ここは“弓の世界”なんだ)
(俺の正しさで上書きしていい場所じゃない)
それから、
配信の作り方や伸ばし方の話は
極力しないようにしてきた。
弓の枠は、弓のものだ。
俺の仕事場じゃない。
弓の魅力は、少しバランスの悪いところから
こぼれてくる。
それを整えすぎるのは、
いちばんやっちゃいけないことだと感じていた。
(だから、俺は黙る役に回ったようなもんだ)
そうやって、自分に言い聞かせてきた。
⸻
その「言わないようにしてきた場所」に、
軽い足取りで入り込んできたのが
刈り上げの言葉だった。
〈刈り上げ:音はマジでええから〉
〈刈り上げ:入り口で損してる感じ〉
(そこは、本当は……俺も気づいてた)
けれど、俺は引いた。
引くことでバランスを取った。
弓の世界を、弓のままでいてもらうために。
対等でいたいと思ったから。
「森さんが全部教えてくれる」
みたいな関係には、なりたくなかった。
その場所で、
刈り上げは普通に踏み込んでくる。
何も悪いことをしていない。
枠のことを考えているだけだ。
だからこそ余計に、
胸の内側がきしむ。
(俺が引いた場所に、
別の人間が座るのを見るのは……こんな感じになるのか)
そこで初めて知った感覚だった。
⸻
とどめになったのは、
あの一行だった。
〈刈り上げ:森さんだけ扱いちゃうやろ〉
心臓が、変な打ち方をした。
(そう来るか)
覚悟していなかったわけじゃない。
弓との距離が、
他のリスナーと違って見えることくらい、
自分が一番よく分かっている。
配信外の会話。
電話。
相談。
それがある以上、
完全に「みんなと同じ」と
言い張るのは無理がある。
でも、それを
“誰かの口から”言われるのと、
自分の中だけで自覚しているのとでは、
響き方が全然違う。
〈刈り上げ:森さん“だけ”特別に見えると〉
〈刈り上げ:他のやつ入りにくいねん〉
“だけ”。
その二文字が、
喉の奥に引っかかる。
(俺が居ることで、
誰かの居場所が狭くなってるってことか)
(弓の枠で、それは本意じゃないんだけどな)
俺は平等が好きだ。
お互いさま、が好きだ。
誰かだけ得をするバランスは、
どこかで必ず綻ぶと知っている。
だからいつも、
自分が得をし過ぎないように気をつけてきたつもりだった。
(それでも、外から見たら“だけ”になるんだ)
(だったら、どこで線を引けばよかったんだろうな)
自分でも分からない。
⸻
一番つらかったのは、
刈り上げの言葉そのものよりも
それに続いた沈黙だった。
〈常連:たしかに〉
〈別の常連:そう見えるかも〉
文字がぽつぽつ落ちて、
それを追うように視線が動く。
弓は、すぐには何も言わなかった。
(そこで、何か言ってほしかったんだよ)
「そんなことないよ」でも
「わたしが悪いんだよ」でも、何でもよかった。
内容じゃなくて、
弓の“温度”が欲しかった。
俺だけが責められているような図に、
弓から伸びる一本の言葉がほしかった。
でも、弓は黙る。
いつものことだ。
弓は、言わない。
考えていることを、ほとんど言葉にしない。
だから、いつもこっちが聞く。
「どうしたの?」
「なに考えてる?」
「今、どんな感じ?」
毎回、こちらから扉を叩く形になる。
そのせいで、
まるで俺だけが弓に依存しているみたいな形になる。
それが嫌だった。
(依存したいわけじゃない)
(ただ、同じ高さで立ちたかっただけなんだ)
一方が聞き続けて、
もう一方が答えるだけの関係は、
どうやっても平らじゃない。
それくらいは、
俺にも分かる。
⸻
弓が、ようやく口を開いた。
「そう、見える?」
少しだけ笑いを混ぜた声。
〈刈り上げ:見える〉
それに続く言葉も、
画面の中に落ちてくる。
〈刈り上げ:森さんおるのはええと思うで〉
〈刈り上げ:でも森さんだけやと、他のやつ居場所ないなって〉
“ええと思うで”と
先に添えられても、
あとに続く言葉の重さは変わらない。
(他のやつの居場所を、
俺が奪ってるって構図か)
枠のために黙ってきたつもりだった。
上からにならないよう、
マネージャーみたいにならないように
言葉を減らしてきた。
弓の世界が、弓のままであるように。
その結果が、これだった。
(ちゃんと相談してくれればいいのにな)
(「どうしよう」って一言くれれば、
いくらでも一緒に考えたのに)
弓は言わない。
言わないで、態度だけ変える。
それが、きつい。
⸻
配信の終盤で、
弓が刈り上げに向かって言った。
「ねえ、刈り上げくん」
〈刈り上げ:なに〉
「さっき、タイトルとか文字の言い方とか、いろいろ言ってくれたでしょ」
「言ってくれるの、ありがたいんだよ」
それは、素直な声だった。
「ただね、ちょっときつく見えるかもしれないから」
「せっかく枠のこと考えてくれてるの、ちゃんと伝わってほしいなって」
「文字、もうちょっと柔らかくしてもらえると、嬉しいかも」
丁寧に、
でもストレートに。
ちゃんと届くように、
弓なりに言葉を選んでいた。
〈刈り上げ:なるほどな〉
〈刈り上げ:たしかにそうかも〉
〈刈り上げ:言ってくれて助かったわ〉
そのやり取りを見て、
ふと、自分の胸のどこかが静かに冷えた。
(俺が似たようなこと言おうとしたときは、
「難しい話は苦手」で終わったのにな)
あのとき、
俺の言葉はそこで止まった。
今日、刈り上げと言葉を交わす弓は、
ちゃんと向き合って話しているように見える。
俺とのときには
見せてもらえなかった形だ。
(俺には向けない種類の顔を、
あいつには向けるんだな)
そう考えた自分が、
少し嫌になる。
でも、気づいてしまった以上、
なかったことにはできない。
⸻
配信が終わったあと、
弓から個別のメッセージは来なかった。
いつもなら、
「おつかれさま」と一言が落ちる日も多い。
今日はそれもない。
(まあ……そうか)
今、弓の頭の中を占めているのは、
きっと枠全体のことだ。
俺のことじゃない。
そう理解はできる。
できるけれど、
納得はしていない部分が、確かにある。
(相談してくれればよかったのにな)
(「どうしたらいいと思う?」って一言あったら)
俺は、いくらでも話を聞けた。
一緒に悩めた。
言われれば受け入れられた。
バランスの取り方も、自分なりに提案できた。
でも弓は、何も言わない。
黙ったまま、
態度だけ変えていく。
それが、一番こたえる。
⸻
俺は、平等が好きだ。
お互いさま、が好きだ。
どちらか一方だけが重たくなる関係は、
長くはもたないことを知っている。
(今のこのズレ方は、
そのパターンに入っている気がする)
弓の気持ちがどこまで変わってしまったのかは、
はっきりとは分からない。
でも、体感としては分かる。
ほんの少し前まで、
こちらに向いていた重さが、
じわじわと別の方向に傾いている。
その“わずかな角度”に、
過敏に気づいてしまう性格だということも、
自分でよく分かっている。
(気づかなければ楽なんだろうな)
(鈍感になれたら、
ここまで苦しくならずに済むのかもしれない)
でも、気づいてしまう。
言葉にされない変化ほど、
早く察してしまう。
それが、俺という人間の
やりづらいところだ。
⸻
スマホの画面が、自動で暗くなる。
暗くなった画面の中に、
自分の顔がぼんやり映り込んだ。
目の下の影を見て、
ようやく息を吐く。
(このまま、何も言わずに枠に居続けるのが
一番“邪魔にならない”のか)
(それとも、一度きちんと話をして、
距離を決め直した方がいいのか)
答えはまだ、はっきりしない。
ただひとつだけ分かっているのは、
今のままのバランスでは、
いつか必ず綻ぶということだ。
それを先に感じてしまうからこそ、
余計に怖い。
静かな部屋の真ん中で、
言葉にならないざわつきだけが、
まだ形になりきれずに揺れていた。




