part43 小さな綻び
【弓視点】
ライトの白が、机の端だけを四角く照らしていた。
その光の外側は、少しだけ暗い。
夜の輪郭が、その境目できれいに分かれている。
マイクをオンにすると、その境目がゆっくりと溶ける。
自分の声が、部屋の空気を上書きしていく。
「こんばんは、弓です」
いつもの挨拶を置く。
少しだけ高めの声。
最初のひと言だけは、意識して明るくしておく。
コメントが、すぐに流れ始めた。
〈森:こんばんは〉
〈常連:おつかれさま〉
〈通りすがり:こんばわ〉
いつもの名前。
いつもの速度。
(今日も、いつも通りになればいいな)
そう思いながら、眼鏡の位置を指で直す。
「今日も一日おつかれさまでした」
「のんびり吹きながらしゃべります」
そう話していると、見慣れない名前が画面の端に落ちた。
〈刈り上げ:今日も来たよー〉
(今日“も”…?)
一瞬だけ、目が止まる。
昨日も、確かに同じアイコンがいた。
一昨日も、その前も。
「刈り上げくん、こんばんは」
口に出してから、名前の音を確かめるみたいに、頭の中でもう一度繰り返す。
(刈り上げくん、か)
サイドをばっさり刈り上げた横顔のイラスト。
プロフィール画像の印象が、そのまま名前になったみたいだな、と思う。
〈刈り上げ:やっと呼ばれた〉
短いコメント。
少しだけ、強めの響き。
(ちょっと、きついな)
そう感じる。
でも、その“きつさ”は、嫌なものではなかった。
「さっきからいたの?」
「ごめん、流れちゃって見えなかった」
そう声で返す。
配信画面の自分の声が、少しだけ笑っている。
〈刈り上げ:おったおった〉
〈刈り上げ:まあええけど〉
〈常連:また増えてる〉
〈森:今日も刈り上げさんいる〉
(“今日も”なんだ)
コメントを読みながら、胸のどこかでそう呟く。
新しく来た人が、何度も来てくれる。
それ自体は、素直に嬉しい。
(こんな小さい枠に)
(よくわざわざ来てくれるな)
そんなふうに思う。
⸻
一本、短めの曲を吹いた。
最後の音がマイクの前でほどけていく。
その残り香みたいな空気の上を、コメントが滑ってくる。
〈常連:いい音〉
〈初見?:癒される〉
〈森:今日の音、やわらかい〉
森さんのコメント。
いつもの場所に、いつもの言葉。
(うん)
心の中でだけ返事をする。
〈刈り上げ:音ええのに〉
〈刈り上げ:タイトルで損してるな〉
ふいに、違う色の文字が落ちる。
「お」
声が漏れた。
「タイトル?」
聞き返す。
〈刈り上げ:その曲名〉
〈刈り上げ:初見からしたら分からんやろ〉
「たしかに」
苦笑いが混ざる。
曲名は、自分が分かればいいや、でつけていた。
外から見たときの“分かりやすさ”なんて、ほとんど考えてこなかった。
「そっか」
「ちょっと考えたほうがいいかもね」
そう言いながら、心のどこかでメモを取る。
(タイトル、大事か)
(わたしにはどうでもよくても、外から見えるものなんだよな)
〈刈り上げ:音はマジでええから〉
〈刈り上げ:入り口で損してる感じ〉
〈常連:忖度なしで言うやつ来た〉
〈森:分かりやすいタイトル良さそう〉
「そっか、ありがと」
「教えてくれるの助かる」
そう声に出す。
“ありがとう”は、本心だった。
枠のことを、ちゃんと見てくれている人の言葉には、少し痛みがあっても価値がある。
⸻
それからの日は、刈り上げくんが当たり前のようにそこにいた。
仕事中でも、夜でも。
〈刈り上げ:仕事中〉
〈刈り上げ:サボりながら聞いとる〉
「いいのそれ」
「怒られない?」
そう言うと、コメント欄に笑いマークがいくつも飛ぶ。
〈常連:サボり仲間〉
〈森:ほどほどに〉
(割と無茶するな…)
そう思いつつも、その“無茶”が枠の空気を動かしているのは、たしかだった。
刈り上げくんが投げるアイテムは、いつも多い。
きらきらしたエフェクトが、画面の中で弾ける。
部屋の暗いところまで、その光が一瞬だけ届く。
「え、また?」
思わず素が出る。
「ほんとにいいの?」
マイクの前で、声が少し上ずる。
〈刈り上げ:静かやし〉
〈刈り上げ:これくらいせんと人増えんやろ〉
(静か、か)
それは、ずっと自分でも感じていたことだった。
森さんと、いつもの数人。
たまにふらっと来て、気づかずに帰ってしまう人。
それでも十分楽しかったけど、“増える”感じはあまりなかった。
「ありがとう」
「助かる」
正直にそう言う。
コメント欄の少し上で、自分の顔が小さく笑っていた。
⸻
ある夜のことだった。
いつも通り、吹いて、しゃべって。
曲の合間に、今日あったどうでもいい話を挟んで。
終盤にさしかかったあたりで、刈り上げくんのコメントが、少しだけ違う温度を持って落ちてきた。
〈刈り上げ:ところでさ〉
「なに?」
曲の余韻をまだひきずったまま、声で返す。
〈刈り上げ:ひとつ言ってええ?〉
(あ、なんか来そう)
胸の中で、そんな予感がする。
「どうぞ」
「枠よくなるやつなら、なんでも聞くよ」
冗談半分、本音半分。
そう返した。
少し間があった。
コメント欄の流れが、すっと細くなる。
〈刈り上げ:森さんの扱い〉
その一行を見た瞬間、指先だけ、温度が変わる。
ギターの弦を押さえる時みたいに、じわっと感覚が集まってくる。
「森さん?」
「なにか、おかしかった?」
声はできるだけ、いつも通りに出す。
〈刈り上げ:おかしいっちゅうか〉
〈刈り上げ:前からおる常連なんはわかるけどさ〉
〈刈り上げ:他と空気ちゃうやろ〉
「空気?」
聞き返す。
少しだけ、喉が硬い。
〈刈り上げ:森さん“だけ”扱い違う〉
〈刈り上げ:そう見えるで〉
言葉は短い。
余計な飾りがないぶん、まっすぐ刺さる。
(“だけ”)
胸の中で、その二文字が引っかかる。
森さんは、ずっと前からの常連だ。
枠を始めたころから、当たり前のようにそこにいる人。
何度も、夜中まで付き合ってくれた。
何度も、誰もいなくなったあとまで残って、どうでもいい話を聞いてくれた。
「まあ、長いからね」
「自然と、そうなってるとこあるかも」
そう言う。
言い訳とも、本音ともつかない言葉。
〈刈り上げ:それはええねん〉
〈刈り上げ:長い人おるのは普通やし〉
〈刈り上げ:ただな〉
コメント欄の流れが、そこでほとんど止まる。
森さんも、他のみんなも、読んでいるだけになったみたいだった。
〈刈り上げ:森さん“だけ”特別に見えると〉
〈刈り上げ:他が入りにくくなるねん〉
(他が、入りにくくなる)
その感覚は、正直、考えたことがなかった。
自分にとって“特別”なのは、ただ自然なことだった。
「そういう人が一人いる」のは、当たり前だと思っていた。
(でも)
外から見たら、それが「輪の中心」と「外側」を、くっきり分けていたのかもしれない。
「そう、見える?」
声に出して聞く。
〈刈り上げ:見える〉
〈刈り上げ:森さんがおるのはええことやと思うで〉
〈刈り上げ:でも森さんだけやと、他のやつ居場所ないなって思うときある〉
(居場所、ない)
わたし自身が、居場所がない感覚に弱い。
自分がどこにいていいのか分からない時間が長かったから、ここではそれを作りたくなかった。
(そんなふうになってたのか)
胸の奥が、少しだけ沈む。
沈むけれど、それは“へこむ”とは違う。
落ち込むというより、ただ状況の形を測っているだけだった。
「そうなんだ」
静かにそう言う。
〈常連:たしかに〉
〈別の常連:森さんいると安心はするけど〉
〈別の常連:入りにくいって思う人もいるかも〉
(あ、そうなんだ)
そこで、初めて気づく。
自分にとって「安心」なものが、他の人にとって「壁」になること。
それは、頭では分かっていたつもりのことだったけれど、具体的な形では見えたことがなかった。
⸻
配信を終える前、ふと思い立って、逆にこちらから言葉を向けた。
「ねえ、刈り上げくん」
コメント欄が、ふわっと動く。
〈刈り上げ:なに〉
「さっき、タイトルの話してくれたでしょ」
「言い方、ちょっときついけど、すごくありがたいんだよね」
本心だった。
枠が良くなるための“きつさ”は、受け取れる。
「ただね」
少しだけ息を継いでから続ける。
「初めて来る人とかは、びっくりするかもしれないなって思ってて」
「わたしは平気なんだけど」
「文字だけ見た人が、『怒ってる?』って勘違いしちゃうかもしれない」
明るく言う。
責めないように。
ただの“連絡事項”みたいに。
〈刈り上げ:きつい?〉
一行だけ返ってくる。
「ちょっと、ね」
「せっかく枠のこと考えてくれてるの、伝わってほしいなって思うから」
「文字、少し柔らかくしてもらえると、嬉しいかも」
それは、わたしの都合だ。
枠をよくしたい、という、自分の願望。
その自覚はある。
でも、それを伝えることに、罪悪感はなかった。
〈刈り上げ:なるほどな〉
〈刈り上げ:たしかにかも〉
〈刈り上げ:言ってくれて助かるわ〉
(よし)
胸の中で、小さく頷く。
(これはこれで、OK)
相手がどう感じるかを、深く想像しているわけではない。
ただ、自分の中で「トラブルにならなそう」と判断した線で話している。
そこまでが、わたしの届く範囲だった。
⸻
配信を切る。
マイクのランプが赤から暗に変わる。
部屋の空気が、急に重くなる。
椅子の背にもたれたまま、天井を見上げる。
さっきの会話が、順番を変えて頭の中を回る。
(森さん“だけ”扱いが違う)
(他の人の居場所がなくなる)
(人気出にくい理由のひとつかもしれない)
人気、という言葉を出されたとき、心のどこかは確かにざわついた。
そこには、少しくらいならへこんでもいい、“自分の問題”しかない。
けれど、森さんのことになると、話は変わる。
(わたしは、森さんのことを、特別扱いしてるのかな)
考えてみる。
「ねちゃだめー」と言った回数。
「今日も来てくれてよかった」と本音でこぼした夜。
配信が終わってからの電話。
関係ない日常の話。
ひとつひとつを並べてみると、「特別」と呼ばないほうがおかしいくらいだった。
(でも、それって悪いことなんだろうか)
わたしにとっては、自然なことだ。
自分の生活の中で、“親しい人”が、枠の中にもいる。
ただ、それだけ。
(それが、枠にとって都合悪いなら)
(ちょっとだけ, 変えたらいいだけじゃない?)
たどりつく答えは単純だった。
⸻
その夜、森さんからメッセージは来なかった。
いつもなら、「おつかれさまでした」の一言が、わりと早い時間に届く。
それが、その日に限って、ずっと静かだった。
(たまたま忙しいだけか)
そう思う。
それ以上は、あまり深く考えない。
(だって)
(森さんの状態を想像して、心配して、そこに合わせ続けるなんて)
そこまで器用なことは、できそうになかった。
スマホを机に伏せて、そのままベッドに倒れ込む。
天井の白が少しにじむ。
(森さんの扱いを、みんなと同じにする)
そう決めることは、わたしにとって、“誰かのため”というよりも、
(めんどうごとを減らすため)
という、自分の基準に沿った選択に近かった。
そこに、悪意はない。
誰かを傷つけたいわけでもない。
ただ、相手がどう感じるかを、具体的に想像する力が、もともとあまりないだけだった。
ライトを消すと、冷蔵庫の音だけが残る。
暗闇の中、コメント欄の白い四角形が、頭の中でひとつ浮かぶ。
〈森:こんばんは〉
その文字に、どんな気持ちが混じっているのか。
今夜のわたしには、想像しようとする気力すら、少し足りなかった。
そのまま、音のないところに、意識が落ちていく。
まだ何も壊れていないと思い込める、ぎりぎりの静けさのままで。




