part42 その気づきは
《弓視点》
川に行こう、と思ったのは、ほんとうに急だった。
部屋の中で、楽器ケースを開けて。
いつものように楽譜を並べて。
指を動かして、息を吹き込んで。
でも、音が、すぐに空中でほどけていった。
集中が、ぜんぜん続かない。
タンギングのリズムも、指の運びも、気にならないわけじゃない。
でも、頭のどこかで、ずっと別の映像が流れている。
さっきまで触れていた、あたたかい手。
山の風。
見上げた空。
胸の奥が、ふわふわする感じ。
「……だめだ」
ひとりごとみたいに小さくつぶやいて、楽器を置いた。
机の上には、配信のためのメモ。
どの曲をやるか、どんな話をするか。
いつもだったら、それを見ているだけで少しずつエンジンがかかる。
今日は、紙の上の字が、ただ黒い線にしか見えなかった。
洗い物をして。
床を少し掃いて。
洗濯機を回して。
やることを並べれば、いくらでも時間は埋められる。
それでも、どの作業にも「味」が乗らない。
気持ちが、どこにも定着しないまま動くだけ。
「あー……」
わけのわからない息が漏れて、天井を見上げた。
そこで、ふっと川のことを思い出した。
この前、森さんと行った山の近く。
ひとりでも行きやすくて。
何度かひとりで座ったことのある場所。
人もほとんど来ない。
「……行こ」
決めるときは、だいたい一瞬だ。
バッグにスマホと財布と、薄い上着。
マフラーも、ついでにくるくる巻く。
玄関を出ると、空気がひんやりしていた。
鼻の奥が少ししびれるみたいな冷たさ。
それが、ちょっと気持ちよかった。
電車に揺られて、バスに揺られて。
そこから少し歩いて、川べりに出る。
水の音が、ざあざあと一定のリズムで続いている。
風が吹くたびに、木の枝がこすれる音がする。
土の匂いと、水の匂いと、少しだけ草の匂い。
誰もいない。
それだけで、ほっとする。
近くの石に腰を下ろすと、冷たさがジーンズ越しに伝わってきた。
冷たいのに、不思議と落ち着く。
川面を見ていると、流れていく泡が、同じように見えて全部違う。
形も、速さも、消えるタイミングも。
さっきまでの、散らかった考え事が、そのまま泡みたいに見えた。
「……なんで、こんなに」
小さくつぶやいて、自分の指先を見る。
スマホを持つときの癖。
森さんの名前を押すときの、ちょっとだけ緊張した感じ。
通話ボタンを押す前の、一拍の間。
最近、その一拍が、あたりまえみたいに増えてきている。
電話の時間も、メッセージの数も。
配信が終わったあと、楽器を片付けるより先に、通知を見る癖も。
「……あー」
ため息とも、笑いともつかない息。
川の音に紛れて、すぐに消えた。
森さんの声を思い出す。
電話越しの、少し落ち着いた大人の声。
仕事の話をするときの、固い響き。
配信の感想を言うときの、柔らかくて、すこし照れた感じ。
山で、近くで聞いたときの、あたたかい低さ。
キスのとき、すごく近くで聞こえた呼吸。
そのどれもが、同じ人の音だ。
指先が、ぎゅっと自分のマフラーの端をつまんだ。
胸のあたりが、きゅっと縮む。
さっきまで「集中できない」と思っていた、落ち着かなさが。
全部、同じ方向を向いていることに、身体のほうが先に気づいている。
「あー、そっか」
川を見たまま、ぽつりと声が漏れた。
「わたし、森さんのこと好きなんだな」
びっくりするほど、なんの重さもなかった。
悲しくもないし、苦しくもないし、ドラマみたいに胸が締めつけられたりもしない。
ただ、事実を確認しただけ、みたいな感覚。
川が流れている。
風が吹いている。
空が少し曇っている。
それと同じラインに、
「わたし、森さんのこと好き」
が並んだだけ。
自分のことなのに、自分のことじゃないみたい。
誰か別の人の気持ちを、上から見てメモしているみたいな。
「ふーん……」
自分の声が、ちょっとだけ笑っていた。
だからといって、何かを決めるわけでもない。
付き合うとか。
どうするべきとか。
そういう方向には、まったく頭が動かない。
ただ、今まで胸の奥をうろうろしていた名前に、ラベルが貼られただけ。
あ、これ、好きってやつなんだ。
へぇ。
それくらいの距離感。
でも、川の音を聞いていると、そのラベルのまわりがじわじわあったかくなっていく。
さっきまで味のなかった時間に、少しだけ色がつく。
「……うん」
誰に聞かせるでもない相づちを打って、空を見上げた。
雲の切れ間から、すこしだけ光がこぼれている。
今日の配信、何を話そうか。
山に行った話は、少しだけしてもいい。
どこの山かは言わないけど。
自然が好きな自分の話として。
森さんのことは、もちろん、言わない。
でも、川で自分の気持ちを見つけたことだけは、夜になったら伝えよう。
なんとなく、そう決めた。
夜。
部屋の明かりを落として、スタンドライトだけつける。
配信の準備をしながらも、スマホの画面を何度も見てしまう。
通知は、まだつかない。
森さん、今ごろ帰り道かな。
「……どうしよ」
通話ボタンを押す前の、一拍が、いつもより長い。
でも、さっき川でラベルを貼った言葉は、もうどこにも行かない。
消えそうにない。
だったら、言ってしまっても同じだ。
「かけちゃえ」
自分で自分の背中を押して、通話ボタンをタップする。
コール音が鳴るあいだ、喉がすこし乾く。
指先が、マフラーの端をまたつまむ。
「はい、森です」
いつもの声。
少し疲れていて、でも、どこか安心する低さ。
「あ、弓です」
名前を名乗るのも、もう儀式みたいになっている。
「おつかれさまです」
「おつかれさまです」
いつものあいさつを交わして。
今日はどうでしたか、とか。
仕事の話を、少しだけ聞いて。
配信の予定の話をして。
さっきまでと同じような会話を、一通りなぞる。
言うタイミングを探している自分に気づく。
タイミングなんて、本当はどうでもいい。
ただ、言葉にする瞬間だけ、すこしだけ呼吸が深くなる。
「……今日、川行ってきたんです」
自分の声が、思ったより普通だった。
「川、ですか」
「はい。
この前、山の近くで行ったところの、あっちのほう」
「ああ、あそこ」
森さんの声が、すこしだけ和らぐ。
同じ場所の記憶を共有している、という実感。
胸の中で、さっきのラベルが、また少し光る。
「そこで、ぼーっとしてたんですけど」
「はい」
一拍。
川の音じゃなくて、部屋の静けさが耳に入る。
自分の呼吸と、森さんの呼吸の間。
「なんか、急にわかったんです」
喉の奥に、ことばが引っかかる感覚。
でも、痛くはない。
ただ、通るときに、すこし熱いだけ。
「わたし……森さんのこと好きなんだなって」
言ってみると、本当に、それだけだった。
告白っぽく言おうともしない。
「付き合ってください」も、何もない。
ただ、今日の天気と同じテンションで。
今日、川に行って。
今日、気づいた。
それを、そのまま共有しただけ。
電話の向こうで、すこし沈黙が伸びる。
その間に、森さんの呼吸が、ほんの少しだけ詰まる。
あ、今、止まった。
耳が、その変化だけを逃さない。
「……そう、ですか」
やっと出てきた声は、いつもより少し低くて、少し震えていた。
困らせたかな。
でも、嫌な感じではない。
言葉の揺れ方が、どこかあたたかい。
「はい。
なんか、そうみたいです」
自分でも、おかしくなるくらい素直な返事。
「何かをしてほしいとかじゃなくて。
ただ、あ、好きなんだなって思っただけです」
付け足しながら、自分でも「なんだそれ」と思う。
でも、それが、本当にいちばん近い。
森さんは、少し息を吸ってから、静かに吐いた。
電話越しでもわかる、深い呼吸。
「……言ってくれて、ありがとうございます」
その言葉の“ありがとうございます”が、胸にしみる。
謝られたわけでもない。
喜びだけでもない。
そこには、多分、怖さも混じっている。
これからどうなるんだろう、っていう。
でも、弓の頭は、そこまで追いかけない。
「いえ。
なんか、言いたくなっただけなんで」
正直に言う。
本当に、それだけだからだ。
「……重くないですか」
ふと、口からこぼれた。
言った瞬間、あ、と思う。
自分が、少しだけ“怖さ”をかじった証拠。
森さんを重くさせてしまうかもしれない、っていう予感。
「重くないですよ」
即答だった。
間もなく、はっきりとした声。
うれしさと、覚悟みたいなものが混ざっている。
その返事を聞いた瞬間、胸の中で、何かがふっとほどけた。
「ああ、よかった」
素直な声が出る。
ほんとうに、ただそれだけ。
「でも、もしこれから、弓さんがしんどくなりそうだったら。
そのときは、そのときでちゃんと言ってくださいね」
森さんは、やっぱり森さんだった。
自分のほうがしんどくなるかもしれないのに、最初に心配するのはこっち。
電話越しでも、その視線の向きがわかる。
「はい。
しんどくなったら言います。
今は、しんどくないです」
胸の中を探ってみても、本当にそうだった。
ドキドキはしているけど。
それは苦しさじゃなくて、ただ、あたたかさが増えた感じ。
好き、というラベルのまわりに、湯気みたいなものが立ちのぼっている。
「……それなら、よかったです」
森さんの声が、すこしだけ柔らかくなる。
その変化が、たまらなくうれしい。
自分が言ったことが、ちゃんと届いたんだ、と思える。
「じゃあ、今日の配信も、聴きに行ってもいいですか」
いつものやりとりに、自然に戻っていく。
「もちろん。
来てくれないと困ります」
冗談めかして返しながら、自分で言った言葉に、少し笑ってしまう。
困る、って言いながら。
たぶん一番、困っているのは自分だ。
森さんの声が聞けないと、落ち着かない身体になりつつある。
でも、そのことに名前をつけるのは、まだ先でいい。
今はただ、
ああ、わたし、森さんのこと好きなんだな。
そう思えたことだけを、胸の真ん中にそっと置いておく。
「じゃあ、準備しますね」
「はい。
楽しみにしてます」
通話を切っても、耳の奥に、森さんの声が残る。
スマホを置いて、楽器ケースを開ける。
さっきまでバラバラだった音符が、少しだけ意味を取り戻す。
息を吸う。
息を吐く。
胸の奥の“好き”を、まだあまり見つめないようにしながら。
ただ、今日の音を、ひとつずつ並べていこうと思った。




