Part 4 沈黙のあとに残るもの
朝の会議室。
プロジェクターの白い光が、テーブルに広げられた資料を冷たく照らしていた。
数字と案件、そして部下たちの声。
その全てが日常のリズムだ。
「本部長、この工程、外注の再見積り入れますか?」
「入れて。コストラインが変わる前に確認しておけ」
森はそう言いながらも、
指の隙間に残る“昨夜の余韻”を拭いきれずにいた。
彼女の音――弓の笛の音色。
クラシックの基礎を持ちながら、
どこか英国的で、古い街の風を連想させる響き。
洗練された構成の中に、少しの曖昧さが残る。
まるで、理性と感情の境目のようだった。
上司という立場である自分が、
そんな曖昧な音に救われていることを、
誰にも話せるわけがない。
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昼休み。
若い営業課長がコーヒーを持って森の席に来た。
「本部長、最近スマホよく見てません? 新しい投資でも見てるんですか?」
「いや、音楽だ」
「お、珍しい。どんな感じです?」
「笛だ。……イングランドの民謡を少し混ぜた、静かな曲をやる人がいる」
「笛? リコーダーみたいな?」
「もう少し深い。クラシック寄りのトーンだ」
「渋いっすね。意外っす」
森は軽く笑って、それ以上は言わなかった。
仕事中に誰かの音を思い出すなんて、
本部長としては滑稽だろう。
でも、笑ってごまかすしかなかった。
弓の音は、日々のノイズを一瞬で洗う。
その“静けさ”を思い出すだけで、
人間関係の面倒さも、業務の重さも、
どこか遠いものに感じられた。
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夜。
帰宅後の書斎。
資料を広げたまま、ペンを持つ指が止まる。
スマホが小さく震えた。
――弓:配信を開始しました。
予定外の時間だった。
けれど、画面を開く手は自然だった。
「こんばんは。今日は少し短めで。……風が強い夜ですね」
マイク越しに、外の風がかすかに混じる。
そのノイズの向こうから、
息づかいと音が流れ出す。
彼女の演奏は、どこか都市の夜に似ている。
過剰に飾らず、
でも静かに張り詰めている。
クラシックの構成を知っている人間が、
あえて“隙”を残して吹く音。
その余白に、森は何度も救われた。
コメント欄が動く。
ハル:出だしで鳥肌
カオル:今日の音、都会の夜みたい
リリィ:雨のあとみたいに透明
森:こんばんは。風、聴こえてます
「森さん、こんばんは。……ほんとだ、マイク拾ってますね」
その声を聞くだけで、
会議の疲れが少しずつ溶けていく。
彼女の音は、現実逃避ではなかった。
むしろ、現実の硬さを受け止めてくれる音だった。
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演奏が終わり、弓が水を飲む。
息を整えるたび、マイクがわずかに呼吸を拾う。
「今日の音、ちょっと荒れてましたね」
森:風のせいです。あなたのせいじゃない。
少しの沈黙。
そして、弓の笑い声が返る。
「……そうかもしれません。ありがとう」
その一言に、
森は不意に胸をつかまれる。
“ありがとう”という言葉が、
単なる社交辞令ではなく、
まっすぐに届くことがあるのだと、
久しぶりに思い出した。
部長として、
感謝されても心が動くことはなかった。
でも今のそれは違った。
一瞬、息を飲む。
視界の中で、
ディスプレイの光が揺れたように見えた。
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弓の声が続く。
「今日は短めにしますね。森さん、ちゃんとごはん食べてますか?」
森:食べてます。温めたシチュー、うまかったです。
「ふふっ。あったかそう。いいですね、そういう夜」
弓の笑顔は、
画面越しなのに、
誰よりも近く感じた。
森はその瞬間、
何かを失っている気がした。
何かを得ているようでもあり、
同時に、自分の理性が一枚ずつ剥がれていくような感覚。
――本部長としての“安全距離”を越えかけている。
森は意識して背筋を伸ばした。
コメントを打つ手を止め、
ただ画面の音に耳を預けた。
弓の音が、
少しずつ静かに、部屋の奥に沈んでいく。
そして、終わりの一音。
「……今日も、ありがとうございました」
森:こちらこそ。いい夜でした。
弓は笑ってうなずいた。
「森さん、また……風が吹いたら」
その言葉に、森は深く頷いた。
画面が暗くなっても、
風の音だけが、耳の奥で続いていた。
了解。
トーン・文体・改行リズムは前篇と完全一致。
後篇では、弓が「人気が出るほど孤独になる」構造と、
森の存在が“空気”として欠ける感覚を描く。
心理はあくまで静かに、でも核心は鋭く。
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(Part 4 沈黙のあとに残るもの・後篇)
配信を終えて、
弓は椅子の背にもたれた。
部屋の明かりを少し落とすと、
モニターの残光が壁に薄く残る。
数年前まで、
自分がこんな生活を送るとは思っていなかった。
クラシックの短大を出て、
講師の仕事を少しだけして、
それから、音楽で食べる道を探した。
ライブ配信は、その延長線上だった。
最初は誰も来ない夜が続き、
画面の向こうでただ笛を吹いていた。
そこに初めてコメントをくれたのが、森だった。
“こんばんは。音、きれいですね”
その一行が、
どれだけ心を支えたかを、
今でもはっきり覚えている。
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今の同接(同時視聴者数)は百を超える。
誰かがアイテムを投げ、
コメントが絶えず流れ、
空気がにぎやかに動く。
ハルの明るい調子、カオルの冗談、リリィの静かな観察。
常連たちはもう仲間のようで、
その温度が画面の中に一定の“安心”を作っていた。
けれど――
その安心の中に、
ひとつだけ空席があるような感覚がある。
森がコメントを打つときの文字の“間”。
彼の言葉はいつも短いのに、
その余白に呼吸があった。
最近、彼のコメントが少ないと、
その呼吸の分だけ空気が硬くなる。
今日も彼は来てくれた。
あの「風、聴こえてます」という一行を見た瞬間、
体の奥がすっと緩んだ。
彼がいないと、
音がどこか“立たない”。
人気が出るほど、
音が軽くなる気がする。
人が増えれば増えるほど、
誰に向けて吹いているのか分からなくなる。
でも、森がいるときだけ、
音がまっすぐに伸びる。
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マイクのスイッチを切り、
弓は笛を机に置いた。
手のひらが少し震えている。
今日の演奏は悪くなかった。
でも、満たされない。
聴いてもらえることと、
伝わることは違う。
通知欄にメッセージがひとつ届いている。
森:いい夜でした。風の音が聴こえますように。
その一文を読みながら、
弓は息を吸った。
言葉がシンプルなほど、
胸の奥に残る。
「……風、か」
つぶやきながら、
窓を少しだけ開ける。
外はもう春の気配。
冷たい夜風が頬を撫でた。
森がどこでこの風を感じているのかを想像する。
それだけで、
少し救われる気がした。
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ベッドに入っても眠れない。
天井の影がゆらゆらと揺れる。
スマホを開くと、
リスナーのコメントがまだ増えていた。
「今日も最高」「録音してほしい」「CD出して」。
嬉しい。
でも、違う。
――“森さん、今日もいたね”
その思いだけが、
最後まで頭の中に残っていた。
弓は毛布を引き寄せて、
胸の前で小さく握った手を見つめる。
この手が触れられるのは、笛だけだ。
けれど、
音の向こうに確かに“誰か”を想っている自分がいる。
「だめ、ですよね……」
声に出すと、
空気が少し震えた。
その震えを笛の息に変えるように、
小さく息を吐く。
夜風がカーテンを揺らした。
弓は目を閉じる。
音も言葉も出さず、
ただ、その風の向こうにいる人を思った。
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翌朝、森はいつもより早く出勤した。
会社の前の並木道。
小さな桜が一輪だけ咲いていた。
誰も気づかないその花の前で、
森は立ち止まり、
息を吸う。
その空気の中に、
あの笛の音の残響を感じた。
目を閉じると、
風がほんの少しだけ頬を撫でる。
その瞬間、
森は小さく笑った。
――風が吹いたら。
昨日の約束が、
もう現実の空気の中に溶けていた。




