part37 超えるライン
《弓視点:Part37》
胸の奥が、まだ落ち着いていなかった。
さっきまで森さんに抱かれていたところに、彼の体温が残っている。
離れた瞬間、そこだけ冬みたいに寒くなる。
キスのあと。
ふいに、彼の指があごの下に触れた。
優しく支えるみたいに、道をつくってくれるみたいに。
その角度で顔を寄せられたら、もう逆らえない。
だから、気づいたら、息が重なってた。
「……森さん」
声が震える。
自分じゃないみたいに。
彼が少しだけ離れて、私の頬を見た。
その目の温度が、いつもよりずっと低くて、落ちついていて。
でも、どこかで必死に耐えてることがわかってしまう。
「……森さん、大人のキスだね」
思わず口から出た。
彼は息を止めたみたいに固まって、目だけが私に向く。
「それ、好き」
自分の声が、自分で聞いても幼くて。
でも、止められなかった。
ほんの数秒の沈黙。
そのあと、また距離が消える。
チュッ。
短くふれて、離れて。
でもすぐにまた、森さんの指が私の頬に触れて、チュッ。
少し話す。
息を整える。
でも、目が合うとまたチュ。
「……っ」
息が吸えてない。
どうしてこんなに、すぐに求めてしまうんだろう。
森さんも、ずっと受け止めてくれてる。
苦しそうなのに、やめようとしない。
それが嬉しくて、怖くて、でも嬉しくて。
何度も何度も、短く触れてしまう。
音が零れそうで、唇を押さえてしまいそうなのに。
「森さん……ねえ」
呼ぶたびに、声の奥が熱くなる。
「なに?」
落ちついた声。
でも、呼吸が速いのはわかる。
胸が上下してる。
「……今日のこと、忘れたくない」
言ってしまった。
戻れない。
「……うん」
森さんはゆっくり頷く。
その目が、逃げない。
だから、もっと欲しくなった。
「……跡、つけてほしい」
小さく。
でも確かに。
喉の奥からぽろっと落ちた言葉。
森さんが瞬きをした。
ほんの一瞬、呼吸が止まったみたいに見えた。
視線が、私の腕に落ちる。
手首。
指先。
肩。
鎖骨のあたり。
ゆっくり、なぞるみたいに。
触れられてないのに、そこが熱くなる。
「弓さん……」
名前を呼ばれただけで、全部ほどけてしまう。
森さんの指が、私の腕の近くまで来て。
寸前で止まる。
触れようとして、やめるその仕草が、逆に胸を締めつける。
「ほんとうに、つけてほしいの?」
低い声。
ひとつひとつ噛みしめるような言い方。
「……欲しい」
自分でも驚くくらい素直だった。
心がぐらぐらしてる。
今日の全部を、逃がしたくない。
肩に触れられそうになって、息を呑む。
でも森さんは、そこで止まった。
爪の先くらいの距離。
触れてないのに、触れられたみたいに熱かった。
「……だめです」
彼はそう言ったけど、声は理性を引きずりながら震えていた。
言葉と、感情が噛み合ってない。
でも、その矛盾ごと、ぜんぶ好きだと思ってしまう。
――帰りたくない。
気づいたら、胸の奥で何度も繰り返していた。
でも空の色が変わってきて、日がすこし冷たくなって。
森さんが腕時計を見て、小さく息をついた。
「そろそろ、行きましょう」
「やだ」
すぐに返していた。
考えるより先に。
「……でも、行かないと」
「わかってる、けど」
「けど?」
「……帰りたくない」
顔を上げたら、森さんが困ったように笑った。
でも、私を離さない。
「配信……どうするんですか」
「……こういうの、映ったらどうしよう」
腕に残ってる熱とか、頬の赤さとか。
ほんとうに跡がついてたらどうしよう、って今さら震える。
「大丈夫ですよ」
そう言って、森さんが自分のマフラーを外す。
ふわりと、そのまま私の首に巻いた。
「これで隠して帰ってください」
「……いいの?」
「僕のですけど、返さなくていいです」
「なんで」
「そのほうが……なんとなく安心するので」
耳の奥がじん、と熱くなる。
「配信中も寒いって言えば、自然です」
「……うん」
マフラーの匂いが、森さんの服の匂いと同じで。
歩きながら胸の奥がずっと温かい。
山を下りながら、ずっと考えていた。
今日のこと、森さんは後悔してないかな。
重いって思われてないかな。
調子に乗ったって思われてないかな。
でも、横を歩く彼の手が何度も私の手を探してきて。
そのたびに「ああ、大丈夫なんだ」と胸の底でほどけていった。
ほんとうは、もっと言いたかった。
もっと触れたかった。
もっと側にいたかった。
でも、それを言ったら、また泣きそうになるから。
代わりに、そっと呟く。
「……また、来たいな」
森さんは歩きながら、静かに笑った。
「ええ。
また、来ましょう」
その声だけで、帰り道がずっと暖かかった。




