part36 会いにこいや
《森視点》
スマホが震いたのは、仕事を切り上げて、デスクの上を片づけていたときだった。
画面に出た名前を見て、無意識に口元がゆるむ。
弓さん。
「もしもし、森さん?」
受話口から、少しだけ掠れた、でも耳に馴染んだ声が届く。
疲れているのか、緊張しているのか、その両方なのか。
「お疲れさまです、弓さん」
いつもの調子で返したつもりだったのに、胸のあたりだけ、妙にざわついていた。
少しの沈黙があってから、彼女が息を吸う音がした。
「……会いに来いや」
間の抜けたような言葉だった。
でも、その一拍遅れて飛び込んできた重さに、思考が止まる。
「え?」
反射的に聞き返すと、向こうで慌てて吸い込むような息が立った。
「い、今のナシっ」
「弓さん?」
「ちが、えっと、あの、今のはその……」
言葉がもつれて、声の向きがふわふわ揺れる。
説明しようとして、やめて、また言い換えようとして、つかえて。
困っているのはわかる。
でも、それはつまり、本音が先に出てしまったということだ。
胸の奥が、くすぐったくなる。
「会いに、来てほしいってことですよね?」
できるだけ、からかわないように。
でも、ちゃんと受け止めてあげたくて、言葉を選ぶ。
通話口の向こうで、彼女が小さくうめいた。
「……言わせないでよ」
その拗ねたような声が可笑しくて、笑いそうになるのを飲み込む。
「ごめんなさい」
「べつに……」
そこで、少し深く息を吐く音がした。
気持ちを整えようとしているときの呼吸。
配信の前に、マイクの前でした深呼吸と似ている。
「ねえ、森さん」
「はい」
「……また山、行かない?」
ようやく、言葉が形になる。
「この前、最初に一緒に行ったとこ、楽しかったから」
「弓さんが、最初に連れ出してくれた山ですね」
「うん。
あのときとはちがう山でもいいし、同じとこでもいいし。
……なんか、森さんとゆっくり歩きたい」
ゆっくり歩きたい。
それは、ただの「遊びに行きませんか」じゃない。
歩幅を合わせたい、ということだ。
「いいですね」
自然に、そう答えていた。
「週末、どうですか」
「うん、ぜんぜん空いてる。
……森さん、仕事、大丈夫?」
「部長は、たまには部下に任せます」
そう言うと、弓さんが、小さく笑った。
「出た、部長モード」
「仕事の肩書はそうですから」
「……声がちょっとカッコつけてるもん」
「そんなつもりはないですけど」
「ある」
即答されて、思わずこちらも笑ってしまう。
こんなふうに軽口を叩けるようになったのは、いつからだったか。
最初は、もっと距離があった。
彼女は配信者で、僕はリスナーのひとりで。
今は、電話の向こうで笑う彼女に、あたりまえのように名前を呼ばれている。
「……ねえ」
ふいに、少し真面目な響きが混ざった。
「山、行くときさ」
「はい」
「笛は、持っていかないね」
そこで、一瞬だけ意外だと感じる。
彼女と山、といえば。
自然の中で音を鳴らしたい、と言い出しそうなものだと、どこかで思っていた。
「いいんですか」
「うん。
外で吹くの、いやじゃないけど……」
言いよどむ。
言葉を探す。
「今日は、その……」
「その?」
「吹くより、一緒にいたいから」
胸の奥を、やさしく、でも確実に撃ち抜くような一言だった。
「……そうですか」
すこしだけ低い声になってしまう。
「うん」
彼女も、恥ずかしそうに、それだけ答える。
沈黙が落ちる。
でも、その沈黙は苦くない。
あたたかい。
「じゃあ、弓さんが笛を持って来ないなら」
「うん」
「僕が、何か代わりに用意します」
「なに?」
「お弁当……と言いたいところですが、僕は料理は壊滅的なので」
「ふふっ」
電話口で、素直に笑う声がした。
「弓さんも、作らないですよね」
「つくらない」
一瞬の躊躇もなかった。
「じゃあ、コンビニですね」
「それは、いい」
「山のふもとで適当に買って、上で食べましょう」
「……」
また、少し間が空く。
「なにか、問題ありました?」
「人前で食べるの、あんまり好きじゃない」
ぽつりと、彼女が言う。
「恥ずかしいの?」
「なんか、落ちつかない。
見られてる気がする」
彼女の繊細さを知っているつもりだったけれど、そこまでとは思っていなかった。
「じゃあ、人の少ないところを探します」
「ううん、それもだけど」
また、小さく息を飲む音。
「……森さんが、たべさせてくれたら、たべる」
思考が、真っ白になる。
「え?」
「い、今のはそのっ」
「弓さん?」
「だって、ひとりでぼーっとたべるの、やなんだもん」
子どもみたいな理由。
でも、その幼さが愛おしい。
「わかりました」
「え」
「じゃあ、僕が、食べさせます」
「……ほんとに?」
「はい」
僕がそう言うと、向こうで毛布に潜り込んだ猫みたいな、くぐもった笑い声がした。
「じゃあ、たべる」
「約束しましたから」
「うん」
その短い返事の中に、安心と甘えが混ざっている。
「そういえば、配信」
話題を変えるように、彼女が言う。
「こんど、山のこと話そうかな」
「いいんじゃないですか」
「森さんと行ったとかは言わないけど」
「それは、言わないでください」
「わかってるって」
くすくすと笑う声が、スピーカー越しにも近く感じられた。
「じゃあ、土曜日。
駅で、いつもの時間に」
「うん」
「楽しみにしてます」
「……わたしも」
通話が切れたあとも、しばらくスマホを見つめたまま、動けなかった。
彼女が言った「会いに来いや」という言葉が、何度も頭の中で反芻される。
あの子は、本音をうまく扱えない。
だからこそ、あんなふうに零れてしまう一言が、重い。
期待してはいけない、と何度も言い聞かせてきた。
線を引くのは、自分の役目だとわかっている。
それでも。
土曜日が待ち遠しいと思っている自分を、止めることはできなかった。
◇ ◇ ◇
土曜日。
駅からバスに乗り継いで、登山口に着くころには、朝の空気はすっかりゆるんでいた。
空はよく晴れているのに、山の影はまだ長い。
弓さんは、少しオーバーサイズのパーカーに、動きやすそうなパンツ。
髪はひとつに結んで、キャップをかぶっている。
前に会ったときより、服装が「山仕様」になっているのに、どこか抜けている。
そのアンバランスさに、思わず笑ってしまいそうになる。
「おはようございます、弓さん」
「おはよ……」
声は眠そうだけど、目はちゃんとこちらを捉えている。
「眠れてました?」
「んー」
空に向かってあくびを飲み込みながら、彼女は首だけこちらに向けてくる。
「楽しみすぎて、寝たり起きたりしてた」
「子どもみたいですね」
「うるさい」
口ではそう言いながらも、口元は緩んでいた。
コンビニの袋を持ち上げて見せる。
「約束どおり、適当に買ってきました」
「おお」
「好きそうなの、いくつか」
「あとでチェックする」
バス停から山道の入り口まで歩き出すと、弓さんはすぐに、僕の少し前に出た。
歩幅の違いなのか、テンションなのか。
とにかく、僕より半歩から一歩分だけ前を歩きたがる。
「弓さん、そんなに飛ばすと疲れますよ」
「だって」
振り返りもせず、返事だけが飛んでくる。
「早く、森さんと山の中に入りたい」
その言葉に、胸の奥でなにかが鳴った。
登山口の鳥居のようなゲートをくぐると、途端に空気が変わる。
街のざわめきが遠くなって、土と葉っぱの匂いが濃くなる。
人影はほとんどない。
ところどころに、年配のハイカーが見えるくらいだ。
しばらくは、ただ並んで歩くだけだった。
足音と、風の音と、ときどき小鳥の声。
ふと、弓さんの歩幅が落ちる。
僕の横まで戻ってきて、当たり前のように腕に自分の腕を絡めてきた。
「……弓さん?」
「え、ダメ?」
見上げてくる目は、どこか挑戦的だ。
「人、いないし」
「たしかに、いませんけど」
「じゃあ、いいじゃん」
そう言って、さらに絡める力を強める。
振りほどく理由も、もうとっくになくなっていた。
「歩きにくくないですか」
「大丈夫」
彼女の足取りは、さっきよりむしろ軽い。
腕越しに伝わる体温。
布越しなのに、距離がやけに近く感じる。
理性は「やめろ」と言う。
感情は「もういいだろ」と囁く。
どちらの声も聞きながら、結局、何も言わずに歩き続けた。
◇ ◇ ◇
少し開けた場所に出て、木のベンチが並んでいるのが見えた。
休憩スペースのようだ。
「ここ、いい感じ」
弓さんが先に駆けていって、ベンチの真ん中に座る。
僕も隣に腰を下ろして、コンビニの袋を開けた。
「サンドイッチと、おにぎりと、サラダと」
「おお」
「あと、甘いもの」
「おおお」
さっきより、声に元気が出ている。
「どれがいいですか」
「……」
じっと袋の中を見つめたまま、固まる。
「弓さん?」
「人、いない?」
周囲を見回す。
上のほうに、遠くハイカーの姿が小さく見えるだけで、ここには誰もいない。
「いませんね」
「……じゃあ」
彼女は少しだけ僕のほうに身体を寄せてきた。
「森さんが、決めて」
「どれを食べるか、ですか」
「うん」
おにぎりをひとつと、サンドイッチをひとつ取り出す。
「じゃあ、まずこれ」
「うん」
包みを開けて、一口だけかじれるように差し出す。
弓さんは、ほんの少しだけ迷うようにまばたきしてから、そっと前に出て、かぷ、と小さくかじった。
「……おいしい」
口の中のものを飲み込んでから、ぽつりと言う。
「それ、弓さんの好きそうな具だったので」
「よく見てる」
「いつも、配信で何食べてるか話してくれるから」
「……恥ずかしい」
照れたようにそう言いながらも、差し出した二口目もちゃんと食べる。
人前で食べるのが苦手だと言っていた子が、今は僕の手から、普通に口を開けている。
そのギャップに、胸の奥が静かに熱くなる。
「ねえ」
二つ目のおにぎりを渡そうとしたところで、弓さんが視線を上げた。
「森さん、仕事、最近どんな感じ?」
「急に仕事の話ですか」
「だって、部長モード、ちょっと見たい」
「見せるものじゃない気もしますけど」
「でも、知りたい」
まっすぐな目だった。
彼女は、僕の生活全部を知りたいわけじゃない。
けれど、自分に関わってくるところは、ちゃんと掴んでおきたい。
そんなふうに、感じる。
「そうですね」
少し考えてから、最近の現場の話や、部下とのやりとりをかいつまんで話す。
できるだけ誇張せずに。
でも、できるだけ、嘘を混ぜずに。
弓さんは、サンドイッチの端をかじりながら、真剣な顔で聞いていた。
「森さんってさ」
ひとしきり話し終えたところで、彼女がぽつりと漏らす。
「やっぱり、部長なんだね」
「肩書きどおりではあります」
「なんか、かっこいい」
「あまり実感はないですけど」
「ある」
そう言い切って、彼女はこっちを見上げる。
「ちゃんと、ひとのこと見てるんだなって、思う」
その言葉は、仕事の話に対してだったのか。
それとも、今の自分に対してだったのか。
どちらにしても、その評価を、簡単に否定したくなかった。
「ありがとうございます」
「うん」
それ以上、彼女は何も言わず、空を見上げた。
木の葉の隙間から、昼の光がまだらに降りてくる。
風が、彼女の髪をふわりと揺らす。
それが視界の端で動くたびに、目がそちらへ引き寄せられる。
◇ ◇ ◇
午後。
山道を少し外れた、小さなひらけた場所で、二人並んで座っていた。
さっきより、距離は近い。
自然にそうなったのか、意識的にそうしたのか、自分でももうわからない。
弓さんは、さっきからちょこちょこと身体を動かしている。
足をぶらぶらさせたり、靴の先で土をなぞったり。
袖口で、自分の指をいじったり。
落ち着かない。
でも、それは嫌なそわそわじゃない。
なにかを待っているときの、子どものようなそわそわだ。
「どうしました」
「べつに」
言葉と裏腹に、肩がこっちに傾いてくる。
「弓さん」
名前を呼ぶと、彼女は少しだけ身じろぎして、こちらを見る。
その目が、やけに近くにあることに気づく。
伸ばさなければ届かないはずだった距離が、いつの間にか、ほとんどなくなっている。
「……」
自分の中の理性が、何かを言おうとして、言葉になる前に溶ける。
気づいたときには、僕は、彼女の肩をそっと引き寄せていた。
弓さんの身体が、驚いたようにわずかに跳ねる。
でも、離れない。
どころか、背中のあたりに、彼女の手がまわってくる。
「森さん」
かすかな声。
胸のあたりに、彼女の額が当たる。
心臓の鼓動が、彼女に聞こえてしまいそうで、怖い。
それなのに、離せない。
「……ごめんなさい」
「なんで?」
彼女の声が、服越しに胸に浸みる。
「つい」
そう言うと、彼女が小さく笑った。
「わたしも、つい」
いたずらっぽい、でも、どこか甘えた響きだった。
じゃれ合うような時間が、しばらく続いた。
彼女が上半身を少し起こして、「なにしてるの」と笑う。
「わかりません」と返す。
また彼女が肩にもたれかかってくる。
その繰り返し。
傍から見れば、ただの恋人同士のじゃれ合いだ。
でも僕たちは、その言葉を口にしてはいけない場所にいる。
それでも、身体は、その言葉より先に動いてしまう。
◇ ◇ ◇
夕方。
山の影が、少しずつ長くなっていく。
風の温度も、昼とは違ってきている。
そろそろ、下りないといけない時間だと、頭ではわかっていた。
「そろそろ、降りましょうか」
そう声をかけると、弓さんは、僕の腕にしがみついたまま、首を振った。
「やだ」
「やだ、じゃなくて」
「まだ、ここにいたい」
「バス、なくなりますよ」
「走ればいい」
「山道をですか」
「森さんなら、できる」
無茶を言う。
でも、その無茶が可愛くて、困る。
「……弓さん」
名前を呼ぶと、彼女はますます腕に力をこめた。
「帰りたくない」
その一言には、今日一日のすべてが詰まっているように思えた。
このまま現実に戻るのが怖い。
さっきまで触れていた温度を、簡単には手放したくない。
僕自身も、同じだ。
「少しだけですよ」
妥協案のように、そう言うと、弓さんが顔を上げた。
その目の中に、迷いと期待と、寂しさが混ざっている。
「少しって、どれくらい」
「バス一本、遅らせるくらい」
「けっこうあるじゃん」
「そうですかね」
「ある」
そう言って、彼女はまた僕の胸にもたれた。
静かな時間が流れる。
遠くで、鳥の声がする。
風が木を揺らす音。
自分たちの呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「ねえ」
弓さんが、ふいに身体を少し離した。
僕のほうを向く。
さっきより、顔が近い。
「なにか、まだ、したいことありますか」
自分でも、なぜそんな聞き方をしたのか、わからなかった。
弓さんは、一瞬だけ目を泳がせてから、じっと僕を見た。
「……キスしよっか」
心臓が、一拍、跳ねた。
「だめです、弓さん」
反射的に、口がそう動く。
「なんで?」
彼女の声は、拗ねているようでいて、どこか真剣だ。
「いいのに」
「良くないです」
「ひどい」
唇を尖らせる。
その仕草すら、危うい。
「ここ、人、いませんけど」
「問題は、そこじゃないです」
「じゃあ、どこなの」
答えられない。
答えたら、全部、崩れてしまう気がした。
「……弓さん」
名前を呼ぶことで、なんとか自分を繋ぎ止める。
彼女は、少しだけ笑った。
「森さん、大人のキスだね」
「してません」
「この前、未遂だったから」
そのときの記憶が、鮮やかに蘇る。
あのときも、ギリギリで止めた。
「こっちなら、人いないよ?」
そう言って、彼女は少しだけ場所を移動しようとする。
斜面の陰になって、通りから見えにくくなる方へ。
「だめですって」
「じゃあ……ここなら」
僕のすぐ目の前に戻ってきて、膝をそろえて座る。
顔が、もう、逃げ場のない距離にある。
彼女の瞳が、まっすぐに僕を映している。
ここで、もう一度「だめです」と言うことは、できたはずだ。
何度でも、線を引き直すことはできた。
でも、腕の中にいた温度を、もう一度思い出してしまったあとでは。
さっき「帰りたくない」とこぼした声を、聞いてしまったあとでは。
沈黙が、二人のあいだに落ちる。
風が、枝葉を揺らす音だけが聞こえる。
僕は、ゆっくりと息を吸った。
身体は、弓さんから目を離せない。
次の瞬間、距離が、ふっと消えた。
僕は、理性と感情の境界線がどこにあるのか、わからなくなりながら彼女をしっかりと受け止めていた。
もう元の場所には戻れないことを、どこかで理解しながら。




