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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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35/62

part35 私を好きにさせてみろってんだ

《弓視点》



今日の空気は、朝から少しだけ重かった。


 

カーテンの隙間から差し込む光はいつも通りなのに、胸の真ん中だけがじわじわと落ち着かない。


 


スマホのカレンダーには、今日の日付のところに小さく「ライブ」と入っている。


 


私が主催じゃない。


 


バンドのお姉さんたちが組んだイベントに、フルートでちょこっと参加させてもらうだけ。


 


それでも「外の場所で」「対面で」「音を聴いてもらう」のは、いつだって怖い。


 


まして今日は。


 


配信で「行けたら行くね」って言ってくれたリスナーさんが、何人かいる。


 


そのうちの二人は、最近やたらと「好き」「結婚して」とコメント欄で飛ばしてくる人たちだ。


 


画面越しならまだ笑って流せる。


 


スタンプでごまかしたり、冗談っぽく「はいはい〜」って濁したり。


 


けど、現実で、目の前で、距離ゼロで向き合うとなったら話は別だ。


 


…今日、絶対に、なんか言われる。


 


そんな予感だけが、ずっと足首に冷たい重りみたいにまとわりついている。


 


 


着替えをベッドの上に並べながら、私はスマホを手に取る。


 


LINEの一番上に、森さんとのトークがある。


 


昨日の夜。


 


「明日、ライブなんですよね。


頑張ってきてください」


 


そう送られてきたメッセージに、「いってきます」のスタンプを返したところで会話が止まっている。


 


本当は。


 


「来てほしい」と言えたら、どれだけ楽なんだろう。


 


でも、森さんの顔がバレたら、もう一緒にどこかへ行くことだって難しくなる。


 


私が誰かと歩いているところを、リスナーさんに見られたら。


 


「裏切られた」とか、「騙された」とか、勝手に傷ついて、勝手に噂が広がって。


 


そういう未来が、一番嫌だ。


 


だから、言わない。


 


「来て」とは、絶対に言わない。


 


私のわがままで、これ以上、森さんの居場所を狭くしたくない。


 


 


ライブハウスの匂いは、たいてい同じだ。


 


湿った木と、アルコールと、ケーブルと、スモークと。


 


ホールの奥からリハの音が漏れてくると、心臓の鼓動が、それに合わせて勝手にテンポを上げていく。


 


「弓ちゃん、おはよー」


 


背中をぱん、と軽く叩かれて振り向くと、主催のお姉さんが笑っていた。


 


ギターと歌を担当していて、ステージ上では圧倒的なのに、楽屋では妙にゆるくて、頼りになる人。


 


「おはようございます」


 


「今日も音、楽しみにしてるからね。


リハ、三番目だから、準備できたら声かけて」


 


「はい」


 


会話をしながらも、視線は勝手に客席側を探している。


 


まだオープン前だから、お客さんの姿はない。


 


それでも、頭の中にはあの二人の名前が浮かぶ。


 


配信で「行くね」って言っていた人たち。


 


画面の向こうで、軽いノリで「好きー」とか「嫁にしたい」とか言ってくる人たち。


 


…ああいうの、正直、苦手だ。


 


笑って返している自分にも、少しうんざりする。


 


でも、嫌いとかじゃない。


 


楽しんでくれてるのはわかるから。


 


だからこそ、余計にややこしい。


 


 


リハは、無事に終わった。


 


ステージの上で、ライトの熱と、マイクの前の空気と、フルートの息の流れだけを見つめているときだけは、余計なものが消える。


 


音程と、指の動きと、バンドのグルーヴだけ。


 


そこだけに集中していれば、怖さも、ざわつきも、少しだけ遠くなる。


 


「本番も、その感じでいいからね」


 


お姉さんにそう言われて、私は小さく頷く。


 


本番までは、しばらく時間がある。


 


楽屋と客席の間を行き来しながら、他の出演者と軽く挨拶を交わす。


 


ドラムのお兄さんが、「今日、弓ちゃんのファン来るんじゃないの? この前配信見てたら、なんか言ってたよね」とからかうように笑う。


 


「や、やめてください。


そういうの、ほんとやめて」


 


冗談めかして返しながらも、胃のあたりがきゅっと痛む。


 


 


オープンの時間になり、客席に少しずつ人が入っていく。


 


暗転したフロアの向こうに、いくつか見覚えのある顔が見えた。


 


画面の中で見ていたアイコンの、現実の顔。


 


「わ、ほんとに来てる…」


 


思わず小声が漏れる。


 


一人は、配信で一番「好き好き」言ってくる人。


 


明るい雰囲気で、いつも長文で感想を書いてくれていた人。


 


もう一人は、コメント自体はそこまで多くないけれど、言葉がどこか真面目で。


 


「今日の曲、泣きました」とか、「このフレーズ、大事にしてます」とか。


 


そういう、丁寧な言葉を選ぶ人だった。


 


…後で、その人に告白されるなんて、このときの私はまだ知らない。


 


ただ、二人ともが視界に入った瞬間、手のひらにじわりと汗がにじんだ。


 


「見ない、見ない。


ステージからは、見ない」


 


自分にそう言い聞かせる。


 


でも、意識すればするほど、目はそっちに引っ張られていく。


 


 


本番の出番は、真ん中あたり。


 


ライトが当たった瞬間、客席が見えなくなるのは救いだ。


 


最前列の輪郭と、手前で揺れる暗いシルエットしか見えない。


 


それでも、どこかで「見られている」という感覚だけは消えない。


 


一曲目、指は無事に動く。


 


二曲目、息が少し浅くなる。


 


三曲目、フレーズの途中で、ふと目線を上げてしまう。


 


ライトの向こう、暗がりの中。


 


さっきの「言葉が丁寧な人」が、こちらを真っ直ぐ見ているのがわかった。


 


口元が、何か言葉を形作っている。


 


たぶん、歌っているわけじゃない。


 


「ありがとう」とか、「すごい」とか、そういう種類の、静かな何か。


 


…怖い、とは、思わなかった。


 


ただ、重い、と思った。


 


私のことを、ちゃんと見てくれている目。


 


それなのに、私はその人のことを、ほとんど知らない。


 


名前も、本名かわからないし、仕事も、年齢も、何も知らない。


 


スクリーンに流れてくる文字と、アイコンと、今そこに座っている姿だけ。


 


それで「好き」とか「付き合って」とか言われたら。


 


私は、どうしたらいいんだろう。


 


 


ライブは、拍手に包まれて終わった。


 


ステージから降りて、楽屋で楽器を片付ける。


 


お姉さんたちと「おつかれさま」を言い合って、少しだけ笑い合う。


 


「弓ちゃん、よかったよ。


あの三曲目のソロ、鳥肌立った」


 


そう言われて、「ありがとうございます」と答える。


 


言葉としては、ちゃんと返している。


 


でも、心はずっと、客席の方に置いてきてしまったみたいだった。


 


 


終演後のフロア。


 


物販の机と、出演者が挨拶する小さなスペース。


 


お客さんたちが、順番に話しかけに来る。


 


「今日すごくよかったです」


 


「配信いつも見てます」


 


「生で聴けてよかった」


 


一人一人の言葉を、できるだけちゃんと受け取る。


 


笑って、目を見て、ありがとうを言う。


 


その中に、配信で「好き好き」言っていた人もいた。


 


彼は明るい笑顔で、「まじでやばかったっす、ほんと好き」と言いながら、でもそれ以上踏み込んでこなかった。


 


写真を一枚撮って、「また配信行きますねー」と言ってあっさり去っていく。


 


…ああ、この人は大丈夫だな、と思った。


 


軽いノリで言っているのはわかる。


 


ちゃんと距離も守ってくれている。


 


問題は、その後ろに並んでいた人だった。


 


 


静かな目の人。


 


さっき、ステージから見えた、あの視線の持ち主。


 


「こんばんは。


今日は、来てくださってありがとうございます」


 


できるだけ普通に、いつも通りに挨拶をする。


 


彼は、少し緊張したみたいに、眉尻を下げて笑った。


 


「こんばんは。


…えっと、いつも配信でコメントしてる◯◯です」


 


「あ、わかります。


いつも丁寧なコメントくださる方ですよね。


ありがとうございます」


 


そう言った瞬間、彼の表情が少しだけ緩んだ。


 


「覚えてくれてたんですね。


…あの、今日、どうしても伝えたいことがあって来ました」


 


心臓が、そこで一回、大きく跳ねた。


 


空気が、少しだけ変わる。


 


周りのざわめきが遠ざかって、自分と彼の間だけ、音が薄くなる感覚。


 


「えっと…」


 


何かを言おうとしたけれど、言葉がうまく繋がらない。


 


逃げたい、と思った。


 


でも、逃げたくない、とも、思っていた。


 


ここで逃げたら、たぶんもっと怖くなる。


 


ちゃんと向き合って、ちゃんと受け止めて、ちゃんと返さなきゃいけない。


 


頭では、そうわかっている。


 


だけど、膝の裏がじん、と熱くなって、指先が冷たくなっていく。


 


彼は、少しだけ首を下げて、言葉を選ぶみたいに口を開いた。


 


「…よかったら、なんですけど」


 


 


「付き合ってもらえませんか」


 


 


その一言が落ちてきた瞬間、時間が伸びた。


 


周りの笑い声も、レジの音も、他のバンドの話し声も、全部が膜の向こうに遠ざかる。


 


耳鳴りみたいな音だけが、頭の中でじんじん鳴る。


 


胸の奥がぎゅっと掴まれて、息がうまく吸えない。


 


…あ、これ、だめだ。


 


このまま黙ってたら、誤解させる。


 


曖昧に笑って流したりしたら、もっとややこしくなる。


 


配信で「好き」って言われてるときとは、全然違う。


 


これは、現実だ。


 


今ここで、目の前の人が、ちゃんと覚悟を持って言ってくれている。


 


だから、ちゃんと返さないといけない。


 


「…ごめんなさい」


 


声が、思ったより小さく出た。


 


喉が乾いて、言葉が引っかかる。


 


彼は、驚いたように目を瞬かせて、それから小さく笑った。


 


「そっか。


…ですよね」


 


「違うんです、あの、そういう…」


 


慌てて言葉を足そうとするけれど、うまく整理ができない。


 


好きじゃないから、とか。


 


そういう目で見てないから、とか。


 


そんなことを言ったら、あまりにも失礼だ。


 


「そういうふうに見てもらえるのは、ありがたいんです。


でも…ごめんなさい」


 


それが、やっとの言葉だった。


 


彼は、少しだけ俯いてから、もう一度顔を上げた。


 


「いえ。


こっちこそ、変なこと言ってすみません。


…これからも、配信、聴かせてもらってもいいですか」


 


「…はい。


ありがとうございます」


 


頭を下げた瞬間、足の裏から力が抜けた。


 


彼が離れていく背中を見送る余裕もなくて、私は軽く会釈しただけで、その場から一歩下がる。


 


世界が、急に戻ってくる。


 


ざわざわした音と、照明のまぶしさと、誰かの笑い声と。


 


その全部が、さっきより少しだけ遠く感じる。


 


 


楽屋に戻ると、お姉さんがすぐに気づいた。


 


「弓ちゃん?


顔、真っ白じゃん。


大丈夫?」


 


鏡の前に立って、自分の顔を見る。


 


本当に、血の気が引いていた。


 


「…ちょっと。


あの、告白されちゃって」


 


声に出した瞬間、実感が少しだけ追いついてくる。


 


「おお、やっぱりね」


 


お姉さんは驚くどころか、むしろ「ほら来た」という顔をした。


 


「さっき、客席で見てて思ったもん。


ああいう目で見てる人、いたよ」


 


「もう…やめてくださいよ」


 


ソファに座り込んで、膝の上で指を絡める。


 


「ちゃんと断れた?」


 


「…はい。


ごめんなさいって。


…でも、なんか、ごめんなさいしか言えなくて」


 


「それでじゅうぶんだよ」


 


お姉さんは、私の背中をぽんぽんと軽く叩く。


 


「弓ちゃん、優しいからさ。


いろいろ言葉を足したくなるかもだけど、変に希望持たせる言い方する方がよっぽど失礼だよ。


ちゃんと断ったならえらいえらい」


 


「…うう」


 


褒められているのか慰められているのかよくわからなくて、ただ俯くしかない。


 


でも、誰かに「それでいいよ」と言ってもらえたことが、少しだけ心を軽くした。


 


 


帰りの電車。


 


膝の上のケースを両手で抱えながら、窓に映る自分の顔を見る。


 


さっきの彼の言葉が、何度も頭の中でリピートされる。


 


「付き合ってもらえませんか」


 


ちゃんと断った。


 


ちゃんと、ごめんなさいって言った。


 


それなのに、胸の奥に残っているのは、申し訳なさと、怖さと、よくわからない罪悪感だった。


 


私なんかを好きって言ってくれるのは、ありがたい。


 


でも、好きでもない人に「好き」って言われても、嬉しくない。


 


その人が悪いわけじゃない。


 


「どうして私は嬉しく感じられないんだろう」と、自分を責めてしまう。


 


…違う。


 


嬉しくないんじゃなくて、「怖い」んだ。


 


この人は、これから何をしてくるんだろう。


 


どこまで踏み込んでくるんだろう。


 


しつこくされたらどうしよう。


 


家の近くまで来られたらどうしよう。


 


配信に変なコメントされたらどうしよう。


 


そんなことばかり想像してしまって、胸がぎゅっと縮こまる。


 


「安心させてくれないと、怖い」


 


たぶん、私が一番欲しいのは、そこなんだと思った。


 


私を好きだって言うなら、安心させてほしい。


 


信じてみてもいいかもしれないって、思わせてほしい。


 


…森さんは、それをしてくれた人だ。


 


彼は、最初から「好き」なんて言わなかった。


 


ちゃんと距離を守って、私の配信を見てくれて、言葉を選んで話してくれて。


 


少しずつ少しずつ、「この人は大丈夫かもしれない」と思わせてくれた。


 


だから、私の方が、勝手に好きになった。


 


「私を好きにさせてみろってんだ」


 


心の中で呟いてみて、顔が熱くなる。


 


何それ、って自分で突っ込みたくなるくらい、偉そうな言い方だ。


 


でも、本音でもある。


 


好きでもない人に「好き」と言われて、急に心が動くほど、私のことを軽く見ないでほしい。


 


私は、安い女じゃない。


 


…って言えるほど、恋愛経験もないくせに。


 


 


家に着くまでの間、何度もスマホが震えた気がした。


 


でも、実際には一度も通知は来ていなかった。


 


玄関で靴を脱いで、バッグを置き、部屋の灯りをつける。


 


ふう、と長い息を吐いて、その場に座り込んだ。


 


…誰かに聞いてほしい。


 


今日あったことを、ちゃんと聞いてほしい。


 


大丈夫だったよって、言ってほしい。


 


頭に浮かぶ顔は、一人しかいなかった。


 


 


ベッドの上に横になって、スマホを握りしめる。


 


森さんとのトークを開いて、しばらく眺める。


 


「今日、どうでした?」


 


と、向こうから来る可能性は十分にある。


 


でも、それを待ってる自分が、ちょっと嫌だった。


 


いつも受け身で、相手からの言葉を待って、そこに乗っかるだけの自分。


 


…ずるいな、と思う。


 


私からも、ちゃんと会いに行かなきゃ。


 


音だけでも、声だけでも。


 


通話ボタンのところに、親指を置く。


 


押すか押さないか、迷っているうちに、画面が暗くなりかけて、慌てて解除する。


 


「なにしてるの、私」


 


苦笑しながら、小さく息を整える。


 


一回、目を閉じる。


 


よし、と心の中で呟いて、そのままタップした。


 


 


プルル、プルル、と呼び出し音が鳴る時間が、いつもより長く感じた。


 


二回目の途中で、カチ、と音が変わる。


 


「…もしもし、弓さん?」


 


いつもの、少し低めで落ち着いた声。


 


その声を聞いた瞬間、体から力が抜けそうになる。


 


「あ、森さん。


…今、大丈夫でした?」


 


「はい。


ちょうど仕事、片付いたところです。


ライブ、終わりました?」


 


「うん。


さっき帰ってきたところ」


 


私の声が、少し掠れているのに自分で気づく。


 


森さんも、多分気づいている。


 


「おつかれさまでした。


どうでした、今日のステージ」


 


「…うん。


演奏は、なんとか。


…ちゃんと吹けたよ」


 


「『なんとか』って言う時は、だいたいよく出来てるやつですね」


 


くすっと、小さな笑い声が聞こえる。


 


その軽さに、少しだけ救われる。


 


「…でもさ」


 


そこから先の言葉が、喉の手前でつっかえる。


 


言うか、言わないか。


 


メールで済ませてしまうこともできる。


 


でも、今は、声で聞いてほしかった。


 


「今日ね」


 


「はい」


 


「…告白されちゃった」


 


言葉にした瞬間、空気が一瞬だけ止まった。


 


電話の向こう側で、森さんが息を吸う気配が、ほんの少しだけ遅れる。


 


「…そうでしたか」


 


音程は、ほとんど変わらない。


 


それでも、その一瞬の間が、私にははっきり分かった。


 


「あのね。


配信でさ、最近ちょっと『好き』とか言ってくる人、いるじゃない」


 


「いらっしゃいますね」


 


「そのうちの一人が、今日ライブ来てて。


終わった後に、『付き合ってください』って」


 


言いながら、さっきの場面が頭に蘇ってくる。


 


心臓が、また早くなる。


 


「…それで、弓さんは?」


 


「…ごめんなさいって、言った」


 


しばらく沈黙があって。


 


その後で、森さんの息が、少しだけ深くなる。


 


「あの、その…変なこと聞くようですけど」


 


「うん」


 


「ちゃんと、はっきり断れたんですね」


 


「はっきり、かは分かんないけど…。


『そういうふうに見てもらえるのはありがたいですけど、ごめんなさい』って。


…言ったと思う」


 


自信ないけど、と付け足すと、電話の向こうで小さく息が抜ける音がした。


 


「それなら、十分だと思います」


 


「…うん」


 


短い返事が、喉の奥で丸まる。


 


そこで話を終わらせることもできた。


 


でも、胸の中に溜まっていたものは、まだ全然減っていなかった。


 


「ねぇ、森さん」


 


「はい」


 


「こういうの、ほんとやめてほしい」


 


自分でも、ちょっと子どもっぽい言い方だと思った。


 


「…今日みたいなこと、ですか」


 


「うん。


…好きでもない人に、『好き』って言われても、嬉しくない」


 


吐き出した瞬間、自分で自分に驚く。


 


さっき電車の中で考えていた言葉が、そのまま口から出てきていた。


 


「失礼だって分かってるけど…。


…怖いんだよ」


 


声が、少し震える。


 


「これから、何されるんだろうって。


しつこくされたらどうしよう、とか。


家、知られたらどうしよう、とか。


配信で、変なこと言われたらどうしよう、とか」


 


一つ一つ言葉にすると、怖さが具体的な形を持つ。


 


それが余計に怖いのに、止まらない。


 


「安心させてくれないと、無理」


 


「安心、ですか」


 


森さんの声が、少しだけ柔らかくなる。


 


「うん。


私を好きだって言うならさ。


安心させてくれなきゃ、怖くて、信じられない」


 


自分でも、何を言っているのか分からなくなりながら、口は勝手に進む。


 


「…今日の人が、悪いってわけじゃないの。


ちゃんと引いてくれたし、『これからも応援してます』って言ってくれたし」


 


「はい」


 


「でも、やっぱり。


好きって言われても、私のこと、何も知らないでしょって思っちゃう。


配信見てくれてるのは嬉しいよ。


でも、それだけで『付き合ってください』って言われても…。


…なんか、私のこと、安く見られてるみたいで嫌だ」


 


そこまで言って、はっとする。


 


「ごめん、今の、言い方、あれ」


 


「いえ」


 


「違うの。


あの人のこと、責めたいわけじゃなくて」


 


言葉が絡まって、ぐちゃぐちゃになっていく。


 


胸の奥が熱くなって、目の端に涙が滲む。


 


「…私、多分。


安心させてくれないと、誰のことも好きになれない」


 


その瞬間、自分でもびっくりするくらい、すとんと言葉が落ちた。


 


ああ、そうだ。


 


私が好きになれた人って、たぶん、安心させてくれた人だけだ。


 


沈黙の向こうで、森さんが、何かを飲み込む気配がする。


 


「…安心、か」


 


「そう。


私を、好きにさせてほしいの」


 


そこまで言って、口が勝手に動いてしまった。


 


「私を、好きにさせてみろってんだ」


 


自分でも驚くくらい、強気な言葉。


 


勢いに任せて、さらに一歩踏み込んでしまう。


 


「私を好きにさせてみろってんだ。


…森さんみたいに」


 


 


言った。


 


 


言った瞬間、血の気が一気に引いた。


 


耳の奥で、自分の鼓動だけが大きく響く。


 


電話の向こう側からは、何の音もしない。


 


「……」


 


「……」


 


沈黙が、永遠みたいに伸びていく。


 


「い、今のなし!」


 


反射的に叫んで、ベッドに転がる。


 


スマホを片手で持ったまま、もう片方の手で顔を覆う。


 


「忘れて、今の忘れて、ほんとに忘れて!」


 


「…弓さん」


 


いつもより、少しだけ低い声が落ちてくる。


 


「やだやだやだやだ」


 


布団を蹴って、足がばたつく。


 


「聞かなかったことにしてください」


 


「今の、とても重要な証言だったと思うんですが」


 


「やめて!」


 


途端に、電話の向こうから、ふっと笑いが漏れた。


 


それが、くやしいくらい優しい音だった。


 


「録音しておけばよかったですね」


 


「やめてってば!」


 


「『私を好きにさせてみろってんだ。


森さんみたいに』」


 


わざわざ復唱しないでほしい。


 


枕に顔を埋めて、全身がじんじん熱くなる。


 


「ほんとに、ほんとに、忘れて。


…事故だから」


 


「事故、ですか」


 


「そう。


口が滑ったの。


氷の上くらい滑った」


 


「そうですか」


 


森さんの声に、少しだけからかいが混じる。


 


「じゃあ、その事故、何回か再発してもらってもいいですか」


 


「無理!


死ぬ!」


 


即答すると、また小さく笑いが返ってくる。


 


顔は見えないのに、その笑顔の形だけが頭に浮かぶ。


 


「…でも、ありがとうございます」


 


不意に、真面目なトーンに戻る。


 


「今日のこと、ちゃんと断ってくれて。


それを、ちゃんと話してくれて」


 


「…うん」


 


少しだけ、布団から顔を出す。


 


「俺なんかが言うのも変かもしれませんけど」


 


「うん」


 


「弓さんが、自分で『怖い』って言えるの、すごく大事だと思います」


 


その言葉が、胸の真ん中に静かに落ちてくる。


 


「無理して『嬉しい』って言わないでいいですよ。


本当に怖いときは、ちゃんと怖いって言ってください」


 


「…言えるかな」


 


「今日、言えましたよね」


 


「それ、森さんだからでしょ」


 


思わず拗ねたみたいに言うと、向こうで息が止まった気配がする。


 


少ししてから、静かな声が返ってきた。


 


「…そうだといいですね」


 


「なにそれ」


 


「いえ。


なんでもないです」


 


なんでもなくない。


 


でも、これ以上追い詰めたら、こっちが先に爆発しそうだった。


 


「…ねぇ」


 


「はい」


 


「さっきの、ほんとに忘れてほしいけど」


 


「はい」


 


「…ちょっとだけ覚えててもいい」


 


自分でも、何を言っているのか分からない。


 


でも、口から出てしまったものは、もう戻せない。


 


電話の向こうで、ふっと息が漏れる。


 


「了解しました」


 


「なにそれ」


 


「業務連絡みたいになりましたね」


 


二人で、少しだけ笑う。


 


さっきまで胸の中で暴れていた怖さが、少しだけ形を変えていく。


 


全部が解決したわけじゃない。


 


これからも、きっと同じようなことは起こる。


 


好かれることは、怖いままだと思う。


 


それでも。


 


「今日ね、ちゃんと断れたよ」


 


「はい」


 


「森さんに、そう言えるの、ちょっと嬉しい」


 


そう言うと、電話の向こうで、ほんの少しだけ、息が詰まる音がした。


 


「…それは、こっちも嬉しいです」


 


その返事が、静かに心に染みていく。


 


 


通話を切ったあと、スマホを胸の上に置いて、天井を見上げる。


 


さっきの自分の言葉を思い出して、また布団に顔を埋める。


 


「私を好きにさせてみろってんだ。


森さんみたいに」


 


…やっぱり、死ぬほど恥ずかしい。


 


でも、どこかで、少しだけ、誇らしくもあった。


 


私が選んでしまった人に向かって、そう言えたことが。


 


安心させてくれる人に、ちゃんと安心を預けたいと思ってしまったことが。


 


怖いけれど。


 


それでも、少しだけ、暖かかった。

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