part34今だけは好きにさせて
弓さんの頭に手を置いた瞬間、自分で自分に驚いていた。
やったあとで「しまった」と思う、あの半歩踏み越えた感覚が、指先からじわじわと遅れてやってくる。
それでも、手は離せなかった。
耳の後ろあたりで揺れる髪が、思っていたより柔らかくて。
潮の匂いと、少し甘いシャンプーの匂いが混ざって、夜風に乗って上がってくる。
弓さんは、最初、ぴくっと肩だけ小さく跳ねさせて。
けれど、すぐにはねのけるでもなく、ゆっくりと力を抜いていった。
その重さが、少しずつ、こちらに預けられていく。
「……何してるの?」
顔を上げないままの声は、怒っているというより、くすぐったさを誤魔化しているような響きだった。
「わかりません」
自分で言って、苦笑する。
言い訳になっていないことくらい、よくわかっている。
だけど、言葉を選び直す余裕もなかった。
「なにそれ」
弓さんは、ようやく顔を上げた。
暗がりの中で、目だけがわずかに光を拾っている。
その視線が、責めるでも、拒むでもなくて。
ただ、まっすぐこちらを見ていた。
「……嫌でしたか」
そう問うのはずるいと、自分でも思う。
それでも、聞かずにはいられなかった。
確認しないまま続けられるほど、若くもない。
「……」
弓さんは、少しだけ唇を噛んで、視線を外して。
そのまま、もう一度、こちらの胸元へ顔を落とした。
さっきよりも、ほんの少しだけ近く。
「……別に」
胸のあたりにこもった声で、そう言った。
はっきりした肯定じゃない。
でも、明確な拒絶からは遠い。
その微妙な温度の中間地点が、いちばん危ないことを、痛いほどよく知っている。
離れる理由にはならないのに、続けてしまう言い訳にはなってしまう場所だ。
それでも、腕は自然と動いていた。
片腕を、彼女の肩の後ろに回す。
背中に触れる布越しの温度が、夜気よりもはっきりと伝わってくる。
「ちょっと……」
弓さんの指が、シャツの胸元を軽くつまむ。
「それは、近すぎ」
言葉とは裏腹に、身体は逃げない。
むしろ、少しだけ体重をあずけてくるから、どこまでが冗談で、どこまでが本音なのか、判断が難しくなる。
「すみません」
そう言いながらも、完全には離さないあたり、自分の方がよほどタチが悪い。
この距離を、一歩でも進めたくないと思う理性と。
もう一歩だけ近づいてみたいという感情が、同じ場所でせめぎ合っている。
頭に置いていた手を、そっと動かす。
前髪を避けるように、軽く撫でる。
そのたびに、指先に、髪の細さと、頭皮のカーブが伝わる。
弓さんの呼吸が、胸のすぐ下で、小さく上下しているのもわかる。
「……落ち着く」
ぽつりと、弓さんが言う。
夜の音に紛れてしまいそうな、小さな声。
聞き間違いかもしれない。
だけど、今は都合よく受け取ってしまった方が、心のバランスが保てる気がした。
「よかったです」
短く返すと、弓さんは、くすっと笑った。
「なんか……森さんっぽい」
「どのへんがですか」
「わかんないけど」
言葉だけ聞くと、何も答えていない。
でも、その「わかんない」が、体温としてこちらに伝わってくる。
考えて、整理して、言語化して。
そういうプロセスを踏んで話すタイプの自分とは、まるで正反対の人間。
だけど、その生っぽさに、あまりにも弱い。
腕の中で、弓さんが少し動いた。
さっきまで正面気味だった体勢を、半歩だけずらして、横向きに近づいてくる。
肩が、ぴたりと自分の胸に沿う位置。
顔は見えない。
代わりに、耳の横あたりに、彼女の頭の重さと、髪の擦れる音がある。
「……苦しくないですか」
「ううん」
少し間を置いて、返事が落ちてくる。
それから、ほんの少しだけ間を空けて。
「森さんこそ」
「大丈夫ですよ」
本当は、まったく大丈夫じゃない。
心臓だけが、やたらと忙しい。
このまま時間が止まればいいと一瞬だけ思って。
次の瞬間には、「そんなことを願う権利は自分にはない」と打ち消す。
冷静なふりをしながら、頭の中はひどく散らかっていた。
どこまでが許されるのか。
どこから先は絶対に踏み込んではいけないのか。
線は見えているはずなのに、こんなふうに寄り添われると、その輪郭が霞んでいく。
弓さんが、突然、くすぐったそうに笑った。
「どうしました」
「息、あったかい」
自分の胸元あたりで彼女がそう言うから。
息をひとつ飲み込んでから、浅く吐き出す。
「それは、人間なので」
「知ってる」
会話だけ切り取れば、なんてことのないやりとりだ。
でも、その一つ一つの言葉に、体温と重さが乗っている。
離れた方がいい。
その結論は、ここに来る前から変わっていない。
さっきまで、海を見ながら、何度も自分に言い聞かせていたことだ。
それなのに。
腕の中で、こんなふうに安心したように呼吸されると。
「じゃあ、今だけは」
そんな逃げ道を、自分で自分に差し出してしまいそうになる。
頭を撫でる手の動きを、意識してゆっくりにする。
撫でると言うより、触れて、確かめて、そこにいることを認めるみたいに。
弓さんは、その動きに合わせるように、まぶたを閉じた。
横顔だけは、暗がりでもわかる。
目を閉じると、年齢よりも幼く見える。
それがまた、こちらの罪悪感を増幅させる。
「森さん」
「はい」
「ありがと」
何に対する「ありがとう」かは、最後まで言葉にならなかった。
それを追及しなかった自分も、きっと同じだけ、ずるい。
ただ、その一言だけが、胸の奥に残っていく。
このまま離れられなくなるぞ。
頭のどこかで、冷静な自分が警告を鳴らす。
それでも、腕の力を緩めることはできなかった。
抱きしめるでもなく。
突き放すでもなく。
その中途半端な距離のまま、海の音と、彼女の呼吸音と、自分の鼓動だけが、静かに重なっていった。




