part33 言葉にならない言い訳
《弓視点》
夜の電車の揺れは、いつもよりゆっくりに感じた。
窓に映る自分の顔が、少し大人びて見える。
マスクで半分隠れているのに、目だけやけにうるさく主張していて、なんか嫌になる。
向かい側の席に、森さん。
真正面じゃない。
少しだけ斜め。
お互いに顔を見なくて済むぎりぎりの角度。
「今日、ありがとうね」
さっき、自分の口から出た声。
いま思い出しても、音程が浮いていた気がする。
本当は。
──会いたかった。
それをそのまま言えたら、どれだけ楽なんだろう。
息を吸うたび、マスクの中で吐息がこもる。
布が頬にふわっと貼りついて、また少しだけ、胸のあたりがきゅっとなる。
ガタン、ゴトン。
線路の継ぎ目を踏む音が、足元から脛を伝って、身体の中心まで響いてくる。
鼓動と、揺れのリズムが、だんだん合ってくる。
でも、森さんとは合わない。
さっきまでみたいに。
いつもみたいに。
「今日こんなことがあってさ」
「この曲どう思う?」
そういう話を、ぽんぽん投げることができない。
電車の窓の外に、街の光が流れていく。
ひとつひとつが、誰かの家で。
誰かの生活で。
誰かの、ふつうの夜で。
自分たちだけ、そこからずれているみたいな気がする。
***
「海、行こうか」
誘ったのは、わたしだ。
どこで話そうかって聞かれて。
最初は、カフェとか、どこか室内の場所を浮かべてた。
でもそれだと、言葉が詰まったとき、逃げ場がない。
空気ごと固まってしまいそうで、想像しただけで息苦しくなった。
海なら。
風があって、波の音があって。
沈黙があっても、誤魔化してくれる気がした。
「海、好きだし」
そう言ったときの自分の声は、少しだけ軽かった気がする。
本当は、「海」って言葉に、森さんの顔を結びつけたくなかった。
だって。
きっと、忘れられなくなるから。
電車を降りて、冷たい海風が、一気に頬を撫でていく。
髪がさらっと持ち上がって、首元に冷気が入り込む。
肌が、ひやっとして。
その感覚で、なんとか意識を「身体」に戻す。
考えすぎると、だめになる。
わたしは、そういうタイプだ。
だから、身体の方に意識を落とす。
足の裏。
砂利を踏む音。
森さんの足音。
遠くで聞こえる波の低い唸り。
全部、ひとつひとつ拾っていく。
それだけで、少し落ち着く。
***
歩いている間中、ずっとマスクを外せなかった。
本当は、息苦しい。
でも。
誰かに見られることが恐かった。
森さんが、じゃなくて。
「森さんと一緒にいる自分」を、誰か知らない人に見られることが。
あの人は、既婚者で。
わたしは、配信者で。
それだけで、外から貼られるラベルは、いくつも簡単に想像できる。
「不倫」
「距離感バグってる女」
「リスナーに手を出した配信者」
実際には何もしてなくても、言葉の方が先に走る。
ネットなんて、特に。
森さんが、わたしといるせいで、何かを失うかもしれない。
そう思うと、顔をさらして歩くことができなかった。
「ごめん、マスクしてていい?」
そう言おうとして、やめた。
言えば、きっと、
「いいよ」って言ってくれる。
優しいから。
でもその「いいよ」に、わたしが甘えることになる。
説明も、整理も、何もしないまま。
ただ、「マスク」で全部誤魔化してる女。
それは、それで嫌だった。
……じゃあ、どうすればよかったの。
自分で自分に問いかけても、答えは出ない。
ただひとつ確かなのは。
わたしは、この夜をうまく扱えるほど、賢くも大人でもないってこと。
***
「冷たいね」
森さんの声が、少し風に流れて聞こえた。
何が冷たいのか、一瞬わからなかった。
空気のことなのか。
わたしの態度のことなのか。
どっちにも聞こえるから、余計に心臓が跳ねる。
「うん……さむいね」
そう返しながら、心の中ではずっともうひとつの意味を意識している。
さっきから、ろくに顔も見れてない。
電車の中でも、スマホ触ってばかりだった。
通知もろくに見てないのに。
画面をスクロールする指の動きだけ、なんとなく続けていた。
「話したいこと、話さなきゃいけないこと、いっぱいあるはずなのに」
そのすべてが、喉の手前で団子になっている。
波打ち際のすぐ近くまで来ると、足元の砂が湿っていて、少し沈む。
靴の底から伝わる感触が重くて、前に進むたびに、ふくらはぎの筋肉がぎゅっと引っ張られる。
そのキツさが、今の状況と重なる。
砂浜の真ん中あたりまで歩いて、ふたりで立ち止まる。
森さんが、わたしの方を見る気配がする。
視線が、マスクの上から刺さってくるみたい。
わかってる。
ちゃんと、向き合わなきゃいけないって。
でも、怖い。
何をどう言えば正解かわからない怖さと、
何を言ってもきっと傷つけるしかない怖さと、
本音を言えば、たぶん全部壊れる怖さと。
三つぐらいの怖さが、同時に胸の中で暴れてる。
「弓さん」
名前を呼ばれた瞬間、背筋が少し伸びる。
この人は、いつも「さん」をつけてくれる。
そこだけは、ずっと変わらない。
その「距離」にどれだけ甘えてきたかを思い知らされて、胸が、きゅううって締め付けられる。
「……はい」
自分の返事が、波の音に混ざって消えそうになる。
***
「今日で、終わりにしませんか」
言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「終わり」って、何が。
配信?
通話?
会うこと?
わたしと、森さんの、全部?
頭のどこかで、たぶんわかっていた。
この流れで「終わりにしませんか」と言われて、軽い意味なわけがないって。
だけど、心が拒否した。
わかりたくない。
「……なんで?」
気づいたら、その言葉が口からこぼれていた。
もっと他に、言うべきことはあるはずなのに。
「え、待って。終わりって、なに」
「どういう意味?」
そうやって確認して、整理して、順番に質問すればいいのに。
出てきたのは、ただの、子どもみたいな「なんで?」だけ。
森さんは、ちゃんと説明しようとしてくれていた。
「弓さんが、もう……俺のこと、特別じゃなくなってる気がして」
「俺だけが、こうして会ってしまっていることが、もう、重いんじゃないかと思って」
言葉のひとつひとつが、胸に刺さる。
違う。
「特別じゃなくなった」なんて、一度も思ってない。
むしろ逆だ。
特別だっていう自覚が、怖くなった。
配信者としても、人としても。
「……そうじゃ、ない」
そう言いかけて、飲み込む。
説明ができない。
どう言えばいいのか。
「特別だけど、その特別さをなかったことにしたくて、でもゼロにはできなくて、だから配信の中の距離でごまかそうとして、結果余計におかしくなってる」
そんなややこしいこと、言えるわけがない。
「何も変わってないですよ」
代わりに出てきたのは、その一言だった。
自分で言っておきながら、矛盾してるのはわかってる。
だって、実際、変わってる。
前みたいに、無邪気に甘えられなくなった。
毎日みたいに通話をすることも、自然にはできなくなった。
でも。
「何も変わってない」って言葉にすがらないと、この場が持たなかった。
「何も始まってないですし」
思わず、そう続けていた。
付き合ってるわけでもない。
恋人でもない。
現実的に考えれば、そう言うしかない。
森さんには家族がいて。
わたしには、配信があって。
そこから一本外れた線の上で、ふたりだけの距離を測るなんて。
どう考えても、きれいな答えなんか出るはずがない。
だから。
「始まってもいない」って言ってしまえば。
どこかで、「終わらせなくてもいい」と思える気がした。
始まってないものは、終わらないから。
「……俺は、もう無理かもしれません」
森さんが、静かに言った。
その「静かさ」が、一番痛かった。
怒鳴るでもなく、責めるでもなく。
淡々と、自分の限界を言葉にしている声。
それを聞きながら、わたしの中で何かがひび割れる音がした。
「……待って」
声が震える。
「今までと、同じでいいじゃん」
喉が痛くなるほど、無理やり言葉を押し出す。
「配信、来てくれて。
通話も、たまにでよくて。
別に、恋人とか、そういうんじゃなくて。
前みたいに……戻るだけ、だよ」
どこまでが本音で、どこからが言い訳なのか、もう自分でもわからない。
強がりなのか、懇願なのか。
ただひとつだけはっきりしているのは、
──離れてほしくない。
それだけ。
それだけなのに。
「弓さんは、そこまでして、俺を残したいんですか」
森さんの問いかけが、真っ直ぐに刺さる。
そこまで。
そうだ。
「そこまで」だ。
わたし、そんなに重く思ってる?
いや、思ってる。
ちゃんと自覚したくなくて、ずっと目を逸らしてきただけだ。
「だって……」
声が擦れる。
「いなくなってほしく、ないもん」
子どもの言い方。
大人の言い方はわからない。
たぶん今、わたしは、すごくずるいことを言っている。
責任は持てない。
未来も約束できない。
それでも、「ここにはいて」と願っている。
こんな願い方、最低だ。
わかってるのに。
森さんが、黙り込む。
沈黙の間に、波の音が大きくなる。
ザァ……
ザァ……
冷たい風が、頬を撫でていく。
マスクの下で、唇が少し震える。
「……ごめんなさい」
どの「ごめんなさい」なのか、自分でもわからない。
期待させたこと。
ちゃんと説明しなかったこと。
自分で距離を変えておいて、それを言葉にしなかったこと。
そして今、離れてほしくないなんて、自己中なことを言っていること。
全部ごちゃ混ぜになって、ひとつの謝罪に丸めてしまう。
それもまた、ずるい。
***
森さんが、ふと、視線を落とした。
そのまま、わたしの方を真正面から見る。
夜の暗さのせいで、瞳の色までははっきり見えない。
でも、どこを見ているのかは、きちんと伝わる。
「弓さん」
名前を呼ばれる。
鼓動が、一拍、大きくなる。
「……何、考えてるんですか」
問いかけられて、答えが出てこない。
「何も、考えてない」
って言うには、あまりにも考えすぎている。
「考えすぎて、わからなくなってる」
って言うには、整理する力が足りない。
「……どうしたら、森さんがいなくならないか、考えてる」
気づいたら、そう言っていた。
それは、嘘じゃない。
ただの本音。
でも、本音を言えば言うほど、どんどん自分が嫌いになっていく。
「みんなと同じ扱いにしないでよ」
森さんが、少しだけ強い声で言う。
胸がびくっと跳ねる。
「俺、弓さんの中で、どういう位置なんですか」
その問いに、ちゃんと答えられる言葉を、わたしは持っていない。
友達。
リスナー。
特別。
でも恋人じゃない。
そんな中途半端な言葉しか出てこない。
「……友達、だよ」
それが、一番近い気がして。
でも同時に、一番、逃げの言葉な気もして。
「友達なら、もう終わりましょう」
森さんが、そう言ったとき。
胸の真ん中が、ぐしゃって音を立てて潰れた気がした。
息が、うまく吸えない。
「……やだ」
小さく声が漏れる。
「やだ」
もう一度。
波の音に負けないように、少しだけ声を大きくする。
「なんで、終わるの。
何も始まってないのに」
自分でも、何を言ってるのかわからなくなってくる。
始まってないなら、守る必要だってないのに。
それでも、「今あるもの」を失うのが怖い。
「だったら、最初から……」
森さんの声が少し止まり、また動き出す。
「最初から、こんなふうに会わなきゃよかったんですよ」
その言葉が、一番痛かった。
本当に。
「そうだね」
そう返すしかないほど、正しい。
わたしだって、何度も思った。
最初の、あの配信の日。
あの一通のDMを送らなければ。
最初に会う約束をしなければ。
そしたら、こんな夜を過ごすことはなかった。
──でも。
もしそうだったら。
「今の私は、いない」
そう思う。
音楽のこと。
人に聴いてもらえる喜び。
画面の向こうで、自分の音に反応してくれる人を知ったこと。
その中心に、森さんがいた。
それを、全部なかったことにするなんて、できない。
「……それでも、良かったとは思えない」
かすれた声で、自分でも驚くぐらい、本音が漏れる。
森さんが、また黙る。
沈黙の中で、波の音だけが、規則正しく続いていく。
***
時間の感覚が、おかしくなってくる。
さっきから、何分経ったのか。
一時間なのか、五分なのか、もうよくわからない。
寒さで手がかじかんでくる。
ポケットの中で、指先をぎゅっと握る。
そのとき。
ふいに、頭の上に、あたたかいものが触れた。
「……え?」
驚いて顔を上げると、森さんの手が、わたしの頭に乗っていた。
指のひらの重さ。
掌の温度。
髪を通して伝わる、体温。
一瞬で、全身の毛細血管に血が駆け巡るのがわかる。
心臓が、怒ってるみたいに暴れ始める。
「な、に……してるの」
かろうじて、それだけ言葉にできた。
「なんとなく、です」
森さんの声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。
「気持ち、注いでます」
前にも、似たようなことを言っていた気がする。
通話のときか、どこかのタイミングで。
その言葉を思い出した瞬間、涙が出そうになる。
なんで今、それを言うの。
やめてよ。
離れた方がいいって、言ったのはそっちじゃん。
終わりにしようって、言い出したのもそっち。
なのに。
こんなふうに触れられたら。
手のひらから伝わる体温が、頭皮から首筋に降りてきて、背中を通って、胸の奥まで染みこんでいく。
さっきまで冷たかった身体の中が、ゆっくりと解かされていくみたいで。
堰を切ったみたいに、感情がばらばらに溢れそうになる。
うれしい。
苦しい。
怖い。
離れたくない。
ダメだ。
全部同じ強さで押し寄せてきて、どれを最初に掴めばいいのかわからない。
「……ずるい」
本当は、声に出さなかった。
でも、心の中でははっきり言っていた。
ずるい。
そんなふうに、優しくしないで。
「これじゃ、離れられないじゃん」
目の奥が熱くなって、視界がにじむ。
夜の海が、少し揺れて見える。
どこまでが波で、どこからが涙なのか、境界線がぼやけてくる。
***
時間が、変な伸び方をする。
頭に乗った手は、そのまま。
ただ、指先がたまに、そっと動く。
子どもの頃、母親に撫でられたときみたいな、あの感覚。
でも全然違う。
身体が、森さんの掌の形を覚えてしまいそうで、怖い。
この感覚を一度覚えたら、きっともう二度と、忘れられない。
「……ねえ」
自分でも驚くぐらい、小さな声が出る。
何を言いたかったのか、自分でもうまく言葉にならない。
「なんですか」
森さんの返事が落ちてくる。
その声に、少しだけ震えが混ざっている気がした。
「……ありがと」
やっと出てきたのは、その一言だった。
何に対しての「ありがとう」なのか。
この夜をくれたことか。
ここまで付き合ってくれたことか。
それとも、頭に手を乗せてくれている、この瞬間そのものに対してか。
たぶん、全部。
「俺も、ありがとうございます」
返ってきた声に、また胸が締め付けられる。
何やってるの。
本当に。
さっきまで、「終わりにしよう」って話をしていたのに。
今は、頭を撫でられて、ありがとうなんて言って。
全然、終わってない。
だから。
これから先、もっと苦しくなることぐらい、わかってる。
それでも。
今、離れたいって思えない。
身体のどこを探しても、「ここで終わらせたい」という感情は見つからない。
あるのは、「今はこのままでいたい」という、生々しいわがままだけ。
***
東の空が、少しだけ色を変え始める。
黒に近い紺色の中で、うすい灰色が静かに広がっていく。
夜が、終わろうとしている。
それなのに。
わたしたちの話は、何ひとつ終わっていない。
むしろ、ここからが始まりみたいにすら感じる。
社会的には、間違っている。
誰かに責められたら、何も言い返せない。
それでも。
心は、身体は、まだここにいたいと言っている。
「ダメなのに」
内側で、何度もその言葉を繰り返す。
「ダメなのに」
それでも、森さんの手は、まだわたしの頭の上にあって。
わたしも、その手を払いのけることはできなくて。
「ごめんなさい」
「これをしたら、もう戻れないのは分かってるんですけど」
森さんの声が合図だったように、胸の奥がふっと沈んだ。
「……弓さん」
呼ばれた名前が、どこか弱かった。
その弱さに、私の呼吸が浅くなる。
次の瞬間、
音もなく――抱きしめられた。
驚いた、のに。
体はまったく固まらなかった。
むしろ、拒否するどころか、
自分でも信じられないくらい自然に息が抜けた。
森さんの腕が背中にまわる。
ぎゅっとではなく、
でも“離れる気はない”とわかる強さ。
胸のあたりに、森さんの呼吸が落ちてくる。
ゆっくり、深く。
そのたび、私の方が息を合わせてしまう。
(……あ、だめ)
頭はそう言うのに、
離れようとする気配が体のどこにもなかった。
心の奥にずっとへばりついていた不安とか、
森さんに言えなかったこととか、
全部その体温の方に溶けて行く感覚がした。
「……弓さん、ほんとに……」
森さんの声が胸元に落ちて、
意味までは拾えなかったけど、
その震え方だけで身体が熱くなる。
(うそ……こんなふうになるんだ、わたし)
怖いのに安心して。
安心なのに涙が出そうで。
言葉は全然、出ない。
ただ――
(……行かないで、とは言いたい)
それだけが、胸の奥で膨らんで、
喉まできて、でも声にならなかった。
自分から抱き返すことはできない。
そんな勇気はなかった。
なのに。
抱かれているだけで、
気持ちの方が先に、
森さんに寄っていくのがわかった。
離れたくない。
行かないでほしい。
でもそんなこと言えない。
矛盾しているのに、体温だけはすべてを肯定してしまう。
胸の奥が、じん、と痛かった。
けれど、その痛みさえ、森さんの腕の中でなら怖くなかった。
(……なんで、こんなふうに)
言葉にならないまま、
ただ静かに、抱かれていた。
朝の光が少しずつ強くなる浜辺で。
わたしたちは、
「終われないまま」
ひとつの夜を越えてしまった。
それがどれだけ危ういことなのかを、
ちゃんと理解できる頭を持ちながら。
理解したまま、見ないふりをしながら。
わたしは、ただ静かに目を閉じて、
温度を、深く深く身体の中に刻みつけていた。




