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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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33/62

part33 言葉にならない言い訳

《弓視点》


夜の電車の揺れは、いつもよりゆっくりに感じた。


窓に映る自分の顔が、少し大人びて見える。

マスクで半分隠れているのに、目だけやけにうるさく主張していて、なんか嫌になる。


向かい側の席に、森さん。

真正面じゃない。

少しだけ斜め。

お互いに顔を見なくて済むぎりぎりの角度。


「今日、ありがとうね」


さっき、自分の口から出た声。

いま思い出しても、音程が浮いていた気がする。


本当は。


──会いたかった。


それをそのまま言えたら、どれだけ楽なんだろう。


息を吸うたび、マスクの中で吐息がこもる。

布が頬にふわっと貼りついて、また少しだけ、胸のあたりがきゅっとなる。


ガタン、ゴトン。


線路の継ぎ目を踏む音が、足元から脛を伝って、身体の中心まで響いてくる。

鼓動と、揺れのリズムが、だんだん合ってくる。


でも、森さんとは合わない。


さっきまでみたいに。

いつもみたいに。


「今日こんなことがあってさ」

「この曲どう思う?」


そういう話を、ぽんぽん投げることができない。


電車の窓の外に、街の光が流れていく。

ひとつひとつが、誰かの家で。

誰かの生活で。

誰かの、ふつうの夜で。


自分たちだけ、そこからずれているみたいな気がする。


***


「海、行こうか」


誘ったのは、わたしだ。


どこで話そうかって聞かれて。

最初は、カフェとか、どこか室内の場所を浮かべてた。


でもそれだと、言葉が詰まったとき、逃げ場がない。

空気ごと固まってしまいそうで、想像しただけで息苦しくなった。


海なら。


風があって、波の音があって。

沈黙があっても、誤魔化してくれる気がした。


「海、好きだし」


そう言ったときの自分の声は、少しだけ軽かった気がする。


本当は、「海」って言葉に、森さんの顔を結びつけたくなかった。


だって。


きっと、忘れられなくなるから。


電車を降りて、冷たい海風が、一気に頬を撫でていく。

髪がさらっと持ち上がって、首元に冷気が入り込む。


肌が、ひやっとして。

その感覚で、なんとか意識を「身体」に戻す。


考えすぎると、だめになる。


わたしは、そういうタイプだ。


だから、身体の方に意識を落とす。

足の裏。

砂利を踏む音。

森さんの足音。

遠くで聞こえる波の低い唸り。


全部、ひとつひとつ拾っていく。


それだけで、少し落ち着く。


***


歩いている間中、ずっとマスクを外せなかった。


本当は、息苦しい。


でも。


誰かに見られることが恐かった。


森さんが、じゃなくて。

「森さんと一緒にいる自分」を、誰か知らない人に見られることが。


あの人は、既婚者で。

わたしは、配信者で。


それだけで、外から貼られるラベルは、いくつも簡単に想像できる。


「不倫」

「距離感バグってる女」

「リスナーに手を出した配信者」


実際には何もしてなくても、言葉の方が先に走る。

ネットなんて、特に。


森さんが、わたしといるせいで、何かを失うかもしれない。

そう思うと、顔をさらして歩くことができなかった。


「ごめん、マスクしてていい?」


そう言おうとして、やめた。


言えば、きっと、

「いいよ」って言ってくれる。


優しいから。


でもその「いいよ」に、わたしが甘えることになる。


説明も、整理も、何もしないまま。


ただ、「マスク」で全部誤魔化してる女。


それは、それで嫌だった。


……じゃあ、どうすればよかったの。


自分で自分に問いかけても、答えは出ない。


ただひとつ確かなのは。


わたしは、この夜をうまく扱えるほど、賢くも大人でもないってこと。


***


「冷たいね」


森さんの声が、少し風に流れて聞こえた。


何が冷たいのか、一瞬わからなかった。

空気のことなのか。

わたしの態度のことなのか。


どっちにも聞こえるから、余計に心臓が跳ねる。


「うん……さむいね」


そう返しながら、心の中ではずっともうひとつの意味を意識している。


さっきから、ろくに顔も見れてない。

電車の中でも、スマホ触ってばかりだった。


通知もろくに見てないのに。

画面をスクロールする指の動きだけ、なんとなく続けていた。


「話したいこと、話さなきゃいけないこと、いっぱいあるはずなのに」


そのすべてが、喉の手前で団子になっている。


波打ち際のすぐ近くまで来ると、足元の砂が湿っていて、少し沈む。

靴の底から伝わる感触が重くて、前に進むたびに、ふくらはぎの筋肉がぎゅっと引っ張られる。


そのキツさが、今の状況と重なる。


砂浜の真ん中あたりまで歩いて、ふたりで立ち止まる。

森さんが、わたしの方を見る気配がする。


視線が、マスクの上から刺さってくるみたい。


わかってる。

ちゃんと、向き合わなきゃいけないって。


でも、怖い。


何をどう言えば正解かわからない怖さと、

何を言ってもきっと傷つけるしかない怖さと、

本音を言えば、たぶん全部壊れる怖さと。


三つぐらいの怖さが、同時に胸の中で暴れてる。


「弓さん」


名前を呼ばれた瞬間、背筋が少し伸びる。


この人は、いつも「さん」をつけてくれる。

そこだけは、ずっと変わらない。


その「距離」にどれだけ甘えてきたかを思い知らされて、胸が、きゅううって締め付けられる。


「……はい」


自分の返事が、波の音に混ざって消えそうになる。


***


「今日で、終わりにしませんか」


言葉の意味を理解するまで、少し時間がかかった。


「終わり」って、何が。


配信?

通話?

会うこと?


わたしと、森さんの、全部?


頭のどこかで、たぶんわかっていた。

この流れで「終わりにしませんか」と言われて、軽い意味なわけがないって。


だけど、心が拒否した。


わかりたくない。


「……なんで?」


気づいたら、その言葉が口からこぼれていた。


もっと他に、言うべきことはあるはずなのに。


「え、待って。終わりって、なに」

「どういう意味?」


そうやって確認して、整理して、順番に質問すればいいのに。


出てきたのは、ただの、子どもみたいな「なんで?」だけ。


森さんは、ちゃんと説明しようとしてくれていた。


「弓さんが、もう……俺のこと、特別じゃなくなってる気がして」

「俺だけが、こうして会ってしまっていることが、もう、重いんじゃないかと思って」


言葉のひとつひとつが、胸に刺さる。


違う。


「特別じゃなくなった」なんて、一度も思ってない。


むしろ逆だ。


特別だっていう自覚が、怖くなった。


配信者としても、人としても。


「……そうじゃ、ない」


そう言いかけて、飲み込む。


説明ができない。


どう言えばいいのか。


「特別だけど、その特別さをなかったことにしたくて、でもゼロにはできなくて、だから配信の中の距離でごまかそうとして、結果余計におかしくなってる」


そんなややこしいこと、言えるわけがない。


「何も変わってないですよ」


代わりに出てきたのは、その一言だった。


自分で言っておきながら、矛盾してるのはわかってる。


だって、実際、変わってる。


前みたいに、無邪気に甘えられなくなった。

毎日みたいに通話をすることも、自然にはできなくなった。


でも。


「何も変わってない」って言葉にすがらないと、この場が持たなかった。


「何も始まってないですし」


思わず、そう続けていた。


付き合ってるわけでもない。

恋人でもない。


現実的に考えれば、そう言うしかない。


森さんには家族がいて。

わたしには、配信があって。


そこから一本外れた線の上で、ふたりだけの距離を測るなんて。


どう考えても、きれいな答えなんか出るはずがない。


だから。


「始まってもいない」って言ってしまえば。

どこかで、「終わらせなくてもいい」と思える気がした。


始まってないものは、終わらないから。


「……俺は、もう無理かもしれません」


森さんが、静かに言った。


その「静かさ」が、一番痛かった。


怒鳴るでもなく、責めるでもなく。

淡々と、自分の限界を言葉にしている声。


それを聞きながら、わたしの中で何かがひび割れる音がした。


「……待って」


声が震える。


「今までと、同じでいいじゃん」


喉が痛くなるほど、無理やり言葉を押し出す。


「配信、来てくれて。

 通話も、たまにでよくて。

 別に、恋人とか、そういうんじゃなくて。

 前みたいに……戻るだけ、だよ」


どこまでが本音で、どこからが言い訳なのか、もう自分でもわからない。


強がりなのか、懇願なのか。


ただひとつだけはっきりしているのは、


──離れてほしくない。


それだけ。


それだけなのに。


「弓さんは、そこまでして、俺を残したいんですか」


森さんの問いかけが、真っ直ぐに刺さる。


そこまで。


そうだ。


「そこまで」だ。


わたし、そんなに重く思ってる?


いや、思ってる。


ちゃんと自覚したくなくて、ずっと目を逸らしてきただけだ。


「だって……」


声が擦れる。


「いなくなってほしく、ないもん」


子どもの言い方。

大人の言い方はわからない。


たぶん今、わたしは、すごくずるいことを言っている。


責任は持てない。

未来も約束できない。


それでも、「ここにはいて」と願っている。


こんな願い方、最低だ。


わかってるのに。


森さんが、黙り込む。


沈黙の間に、波の音が大きくなる。


ザァ……


ザァ……


冷たい風が、頬を撫でていく。


マスクの下で、唇が少し震える。


「……ごめんなさい」


どの「ごめんなさい」なのか、自分でもわからない。


期待させたこと。

ちゃんと説明しなかったこと。

自分で距離を変えておいて、それを言葉にしなかったこと。

そして今、離れてほしくないなんて、自己中なことを言っていること。


全部ごちゃ混ぜになって、ひとつの謝罪に丸めてしまう。


それもまた、ずるい。


***


森さんが、ふと、視線を落とした。


そのまま、わたしの方を真正面から見る。


夜の暗さのせいで、瞳の色までははっきり見えない。


でも、どこを見ているのかは、きちんと伝わる。


「弓さん」


名前を呼ばれる。


鼓動が、一拍、大きくなる。


「……何、考えてるんですか」


問いかけられて、答えが出てこない。


「何も、考えてない」

って言うには、あまりにも考えすぎている。


「考えすぎて、わからなくなってる」

って言うには、整理する力が足りない。


「……どうしたら、森さんがいなくならないか、考えてる」


気づいたら、そう言っていた。


それは、嘘じゃない。


ただの本音。


でも、本音を言えば言うほど、どんどん自分が嫌いになっていく。


「みんなと同じ扱いにしないでよ」


森さんが、少しだけ強い声で言う。


胸がびくっと跳ねる。


「俺、弓さんの中で、どういう位置なんですか」


その問いに、ちゃんと答えられる言葉を、わたしは持っていない。


友達。

リスナー。

特別。

でも恋人じゃない。


そんな中途半端な言葉しか出てこない。


「……友達、だよ」


それが、一番近い気がして。

でも同時に、一番、逃げの言葉な気もして。


「友達なら、もう終わりましょう」


森さんが、そう言ったとき。


胸の真ん中が、ぐしゃって音を立てて潰れた気がした。


息が、うまく吸えない。


「……やだ」


小さく声が漏れる。


「やだ」


もう一度。


波の音に負けないように、少しだけ声を大きくする。


「なんで、終わるの。

 何も始まってないのに」


自分でも、何を言ってるのかわからなくなってくる。


始まってないなら、守る必要だってないのに。

それでも、「今あるもの」を失うのが怖い。


「だったら、最初から……」


森さんの声が少し止まり、また動き出す。


「最初から、こんなふうに会わなきゃよかったんですよ」


その言葉が、一番痛かった。


本当に。


「そうだね」


そう返すしかないほど、正しい。


わたしだって、何度も思った。


最初の、あの配信の日。

あの一通のDMを送らなければ。

最初に会う約束をしなければ。


そしたら、こんな夜を過ごすことはなかった。


──でも。


もしそうだったら。


「今の私は、いない」


そう思う。


音楽のこと。

人に聴いてもらえる喜び。

画面の向こうで、自分の音に反応してくれる人を知ったこと。


その中心に、森さんがいた。


それを、全部なかったことにするなんて、できない。


「……それでも、良かったとは思えない」


かすれた声で、自分でも驚くぐらい、本音が漏れる。


森さんが、また黙る。


沈黙の中で、波の音だけが、規則正しく続いていく。


***


時間の感覚が、おかしくなってくる。


さっきから、何分経ったのか。

一時間なのか、五分なのか、もうよくわからない。


寒さで手がかじかんでくる。

ポケットの中で、指先をぎゅっと握る。


そのとき。


ふいに、頭の上に、あたたかいものが触れた。


「……え?」


驚いて顔を上げると、森さんの手が、わたしの頭に乗っていた。


指のひらの重さ。

掌の温度。

髪を通して伝わる、体温。


一瞬で、全身の毛細血管に血が駆け巡るのがわかる。


心臓が、怒ってるみたいに暴れ始める。


「な、に……してるの」


かろうじて、それだけ言葉にできた。


「なんとなく、です」


森さんの声は、さっきよりも少しだけ柔らかかった。


「気持ち、注いでます」


前にも、似たようなことを言っていた気がする。

通話のときか、どこかのタイミングで。


その言葉を思い出した瞬間、涙が出そうになる。


なんで今、それを言うの。


やめてよ。


離れた方がいいって、言ったのはそっちじゃん。


終わりにしようって、言い出したのもそっち。


なのに。


こんなふうに触れられたら。


手のひらから伝わる体温が、頭皮から首筋に降りてきて、背中を通って、胸の奥まで染みこんでいく。


さっきまで冷たかった身体の中が、ゆっくりと解かされていくみたいで。


堰を切ったみたいに、感情がばらばらに溢れそうになる。


うれしい。


苦しい。


怖い。


離れたくない。


ダメだ。


全部同じ強さで押し寄せてきて、どれを最初に掴めばいいのかわからない。


「……ずるい」


本当は、声に出さなかった。


でも、心の中でははっきり言っていた。


ずるい。


そんなふうに、優しくしないで。


「これじゃ、離れられないじゃん」


目の奥が熱くなって、視界がにじむ。


夜の海が、少し揺れて見える。


どこまでが波で、どこからが涙なのか、境界線がぼやけてくる。


***


時間が、変な伸び方をする。


頭に乗った手は、そのまま。

ただ、指先がたまに、そっと動く。


子どもの頃、母親に撫でられたときみたいな、あの感覚。


でも全然違う。


身体が、森さんの掌の形を覚えてしまいそうで、怖い。


この感覚を一度覚えたら、きっともう二度と、忘れられない。


「……ねえ」


自分でも驚くぐらい、小さな声が出る。


何を言いたかったのか、自分でもうまく言葉にならない。


「なんですか」


森さんの返事が落ちてくる。


その声に、少しだけ震えが混ざっている気がした。


「……ありがと」


やっと出てきたのは、その一言だった。


何に対しての「ありがとう」なのか。


この夜をくれたことか。

ここまで付き合ってくれたことか。

それとも、頭に手を乗せてくれている、この瞬間そのものに対してか。


たぶん、全部。


「俺も、ありがとうございます」


返ってきた声に、また胸が締め付けられる。


何やってるの。


本当に。


さっきまで、「終わりにしよう」って話をしていたのに。

今は、頭を撫でられて、ありがとうなんて言って。


全然、終わってない。


だから。


これから先、もっと苦しくなることぐらい、わかってる。


それでも。


今、離れたいって思えない。


身体のどこを探しても、「ここで終わらせたい」という感情は見つからない。


あるのは、「今はこのままでいたい」という、生々しいわがままだけ。


***


東の空が、少しだけ色を変え始める。


黒に近い紺色の中で、うすい灰色が静かに広がっていく。


夜が、終わろうとしている。


それなのに。


わたしたちの話は、何ひとつ終わっていない。


むしろ、ここからが始まりみたいにすら感じる。


社会的には、間違っている。

誰かに責められたら、何も言い返せない。


それでも。


心は、身体は、まだここにいたいと言っている。


「ダメなのに」


内側で、何度もその言葉を繰り返す。


「ダメなのに」


それでも、森さんの手は、まだわたしの頭の上にあって。


わたしも、その手を払いのけることはできなくて。



「ごめんなさい」


「これをしたら、もう戻れないのは分かってるんですけど」

森さんの声が合図だったように、胸の奥がふっと沈んだ。


「……弓さん」


呼ばれた名前が、どこか弱かった。

その弱さに、私の呼吸が浅くなる。


次の瞬間、

音もなく――抱きしめられた。


驚いた、のに。

体はまったく固まらなかった。

むしろ、拒否するどころか、

自分でも信じられないくらい自然に息が抜けた。


森さんの腕が背中にまわる。

ぎゅっとではなく、

でも“離れる気はない”とわかる強さ。


胸のあたりに、森さんの呼吸が落ちてくる。

ゆっくり、深く。

そのたび、私の方が息を合わせてしまう。


(……あ、だめ)


頭はそう言うのに、

離れようとする気配が体のどこにもなかった。


心の奥にずっとへばりついていた不安とか、

森さんに言えなかったこととか、

全部その体温の方に溶けて行く感覚がした。


「……弓さん、ほんとに……」


森さんの声が胸元に落ちて、

意味までは拾えなかったけど、

その震え方だけで身体が熱くなる。


(うそ……こんなふうになるんだ、わたし)


怖いのに安心して。

安心なのに涙が出そうで。

言葉は全然、出ない。


ただ――


(……行かないで、とは言いたい)


それだけが、胸の奥で膨らんで、

喉まできて、でも声にならなかった。


自分から抱き返すことはできない。

そんな勇気はなかった。


なのに。


抱かれているだけで、

気持ちの方が先に、

森さんに寄っていくのがわかった。


離れたくない。

行かないでほしい。

でもそんなこと言えない。


矛盾しているのに、体温だけはすべてを肯定してしまう。


胸の奥が、じん、と痛かった。

けれど、その痛みさえ、森さんの腕の中でなら怖くなかった。


(……なんで、こんなふうに)


言葉にならないまま、

ただ静かに、抱かれていた。




朝の光が少しずつ強くなる浜辺で。


わたしたちは、

「終われないまま」

ひとつの夜を越えてしまった。


それがどれだけ危ういことなのかを、

ちゃんと理解できる頭を持ちながら。


理解したまま、見ないふりをしながら。


わたしは、ただ静かに目を閉じて、

温度を、深く深く身体の中に刻みつけていた。

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