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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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Part32 海辺でほどけるもの、壊れるもの


《森視点》


駅のホームの風は、思ったより冷たかった。


終電にはまだ時間があるけれど、空気はもう夜の匂いに変わっている。


遠くでブレーキの甲高い音がして、電車が近づいてくる。


スマホの画面には、さっきまでのメッセージが並んでいた。


「今日、少し話せますか」

「……うん。海、行きたい」


本当は、もう少し穏やかな場所を提案するつもりだった。


カフェでも、公園でも、どこでもよかった。


でも、弓さんが「海」と言った。


その一言で、僕の選択肢は消えた。


あの人が行きたい場所に、僕も行く。


それが、この数か月で当たり前になっていた。


ホームに風が吹き込んで、足元の広告紙がめくれる。


電車が入ってきて、ドアが開く。


何人かが降りてきて、その流れの中に、白いマスクと黒いキャップが見えた。


弓さんだ。


目が合う。


わずかに、会釈。


いつもみたいに手を振ったりは、しない。


「こんばんは」


僕が声をかけると、弓さんはマスク越しに、少しだけ目元を緩めた。


「……こんばんは」


声は小さい。


ホームにいる人たちのざわめきに、すぐ紛れそうな、頼りない音量。


それでも、たしかに僕に向いている声だった。


胸の奥が、少しだけ救われる。


電車に乗り込む。


向かい合う席ではなく、横並びの席に座る。


弓さんは、僕との距離を半歩分空けて、そっと腰を下ろした。


車内は思ったより人が多かった。


仕事帰りらしいスーツ姿、コンビニ袋を提げた学生、イヤホンをつけたままうとうとしている人。


日常の夜の景色。


僕たちだけが、その中で、少し異質な緊張をまとっていた。


「……あんまり、しゃべらないほうがいいかも」


弓さんが、横を向いたまま、小さく言う。


「人、多いし。声でバレたらいやだ」


たしかに、その可能性はある。


この沿線にも、リスナーはいるかもしれない。


「そうですね」


僕は、それ以上は何も言わなかった。


口数を減らすこと自体は、理解できた。


けれど。


胸のどこかで、別の声が生まれていた。


(そこまで気をつけるなら、そもそも僕と会う意味ってなんだろう)


一緒にいるのに、会話を封じられている。


隣にいるのに、ほとんど目も合わない。


それでも「会いたい」と言ってくれた。


その矛盾が、うまく整理できない。


窓ガラスに、車内の光と夜の景色が重なって映る。


ぼんやり映った自分の横顔は、思っていたより疲れた表情をしていた。


「……海、着いたら、ちゃんと話しましょう」


そう言いかけて、やめる。


今、ここで約束を重ねても、また期待が膨らむだけだ。


期待は、崩れたときにいちばん痛い。


僕は、自分の両手を膝の上で組んだ。


指先に、少しだけ力をこめる。


電車の揺れが、沈黙を間延びさせる。


弓さんは、スマホの画面を眺めていた。


何を見ているのかは分からない。


タイムラインかもしれないし、譜面かもしれない。


あるいは、なにも見ていないのかもしれない。


ときどき、指が止まる。


その止まった指先だけが、弓さんの揺れる心の断片みたいに見えた。


数駅を過ぎて、下車駅のアナウンスが流れる。


僕たちは、無言のまま立ち上がった。


駅前は、昼間とは違う顔をしていた。


コンビニの光だけが、やたらと白く浮いている。


人影はまばらで、車もほとんど通らない。


海までは歩いて二十五分くらい。


弓さんが以前、「たまに夜にひとりで歩く」と言っていた道。


その道を、今夜はふたりで歩く。


「寒くないですか」


駅を離れたところで、ようやく僕はそう聞いた。


「……だいじょうぶ」


弓さんは、ポケットの中で手をぎゅっと握っている。


その仕草を見てしまうと、「大丈夫」という言葉をそのまま受け取るのが難しくなる。


アスファルトを踏む靴音が、やけに大きく響く。


街灯と街灯のあいだの暗がりを抜けるたびに、僕の覚悟も少しずつ形を変えていく。


今日、ここで伝えるつもりだった言葉がある。


「この関係は、ここまでにしたほうがいい」


あいまいな距離のまま続けるより、傷が浅いうちに切るほうがいい。


そう考えるようになったのは、ここ数日の弓さんの態度を見てからだった。


前みたいに、名前を呼んでくれない。


前みたいに、僕宛ての言葉を重ねてくれない。


配信のコメント欄の中で、自分だけが特別だと思っていた時間は、もう終わったのだと。


最近の配信を見ながら、何度もそう感じた。


コメントを返される回数が極端に減ったわけじゃない。


表面的には、ほかのリスナーと同じように扱われている。


それは、配信者としては正しい姿だ。


だからこそ、何も言えなかった。


でも、あの人は、僕に理由を説明しなかった。


「こういう風にしたいから」と、ひと言くれれば、ここまで揺れなかったかもしれない。


気づいたら僕は、「自分だけ切り離されたんじゃないか」という想像ばかりしていた。


歩きながら、横目で弓さんを見る。


マスクに隠れて、表情はよく分からない。


それでも、視線を落としがちなのは伝わってくる。


「……最近、忙しいんですか」


自分でも、場つなぎみたいな質問だと思った。


「うーん……まあ、いつもどおり、かな」


弓さんの声は、少しだけ宙をさまよっている。


「そうですか」


会話は、そこで止まる。


以前なら、このあとに何かしらの冗談が続いただろう。


「森さんは? ちゃんと寝てますか」とか。


「また変なこと考えてるでしょ」とか。


そういう軽いやりとりで、空気をほぐしてくれた。


今夜は、そういう言葉が降りてこない。


海に近づくにつれて、空気の匂いが変わっていく。


湿っぽくて、少し潮の香りが強くなる。


遠くで、波の音が聞こえ始めた。


堤防の照明は、ところどころしか点いていない。


人気のないベンチを見つけて、僕たちは並んで座った。


海は暗くて、水平線もよく見えない。


その暗さが、かえって今の心の中をそのまま映しているような気がした。


「……来てくれて、ありがとうございます」


静寂に負ける前に、僕は口を開いた。


「ううん」


弓さんは、膝の上で両手を組んだまま、視線を海に向けたままだ。


「ごめんね。なんか、変な空気にしちゃって」


「変なのは、たぶん僕のほうですよ」


自分で言って、苦笑が漏れる。


そこから先の言葉を、どう繋ぐか。


それを考えているあいだも、波の音だけが規則正しく続いていた。


(ここで逃げたら、また同じことの繰り返しだ)


(今日は、ちゃんと決めるって決めたんじゃなかったか)


自分に言い聞かせる。


「弓さん」


名前を呼ぶと、弓さんの肩が、ほんの少しだけ動いた。


「最近、少し……距離を取られてる感じがしてました」


言葉を選びながら、ゆっくり続ける。


「前みたいに、いろいろ話してくれなくなったり」


「配信でも、僕のことを気にしないようにしてるのかなって、思う場面が増えたり」


「……気のせいなら、それでいいんですけど」


「気のせいじゃ、ないとおもう」


弓さんは、ぽつりと言った。


マスク越しの声は、小さい。


それでも、その言葉には嘘がなかった。


「やっぱり、そうなんですね」


胸のあたりが、きゅっと縮む。


「……森さんに、甘えすぎてたなって、思って」


「甘えすぎてた、ですか」


「うん」


「コメントも、DMも。森さんがいてくれるのが当たり前になってた」


「それが、ちょっと、こわくなった」


「こわい」


その言葉は、僕の想像とは少し違う方向から飛んできた。


責められることを覚悟していた。


「既婚者なのに」とか、「期待させるようなこと言わないで」とか。


そういう言葉を受け止める覚悟を、ずっと固めてきた。


でも、弓さんが話している「こわさ」は、少し違う場所を見ているようだった。


「森さん、わたしのこと、ちゃんと音楽で見てくれてるのは分かってるよ」


「でも、なんか……それだけじゃないなって、最近、思うことが増えて」


「……」


図星だった。


否定しようとしても、言葉が出てこない。


「わたしも、調子に乗ってた」


弓さんが、手の指を強く絡める。


「森さんにだけ、変なこと言ってみたり、ちょっとセクシーなことしたり」


「楽しかったんだと思う」


「楽しかった、ですか」


「うん」


「でも、なんか、あるときふっと、我に返って」


「え、なにやってんの、わたし、って」


「応援してくれてる人、いっぱいいるのに、その前で真面目にやってるのに」


「なんで森さんにだけ、そんなふうにするの? って」


そこまで言って、弓さんは言葉を切った。


間が落ちる。


波の音が、ひとつぶん、大きく聞こえる。


「だから、少し距離を取りたいって、思ったんですね」


僕が代わりに言葉を置くと、弓さんは、ゆっくりと頷いた。


「うん」


「……でも、それならそう言ってくれればよかったのに、とは、思ってしまいます」


声が、少しだけ尖る。


抑えたつもりでも、感情が混ざる。


「急に変わったから、僕には何が起きてるのか分からなくて」


「正直、僕だけ切られたのかなって、何度も考えました」


「そういうつもりじゃ、なかった」


弓さんが、慌てたように言う。


「みんなと同じようにしたほうがいいかなって思っただけで」


「森さんだけ嫌いになったとか、そういうのじゃない」


「……でも、結果として、そう“見える”伝わり方になってました」


僕は、視線を海のほうに向ける。


本当に伝えたいのは、別のところにある。


でも、その手前にある層を飛ばすと、きっと話が壊れる。


順番を守らないといけない。


「弓さんにとっては、たぶん、配信の中の一部を“少し調整した”くらいの感覚だったのかもしれません」


「でも、こっちから見ると」


「特別だったところから、一気に“みんなと同じ”のところに降りていったように感じてしまって」


「……いちど上がってしまった場所から下りるって、けっこう、しんどいんです」


言いながら、自分で苦笑がこみ上げる。


大人げない、とも思う。


でも、それが正直な感覚だった。


弓さんは、黙って聞いている。


「しかも、僕たち」


「付き合ってるわけでもないじゃないですか」


「そうだね」


「僕は既婚者で、弓さんは、僕の配信者さんで」


「その線は越えちゃいけないって、頭では分かってるのに」


「心のほうは、ぜんぜん言うことを聞いてくれなくて」


言葉にして初めて、自分がどれだけバランスを崩していたかを思い知らされる。


「だから、最近ずっと考えてました」


「このまま中途半端に続けても、どこかで弓さんを傷つけるかもしれないし」


「僕も、自分の生活とのあいだで、ずっと引き裂かれ続けるだろうなって」


「……」


弓さんのまつ毛が、街灯の光を受けてきらっと光る。


泣いてはいない。


でも、何かを必死にこらえているのは分かる。


「それで、今日は」


僕は、握りしめていた手を、膝の上でほどいた。


風が、指の間を通り抜けていく。


「正直に言うと」


「ここでいちど、終わらせたほうがいいのかもしれないって、思って来ました」


弓さんの顔が、はっきりと僕のほうを向いた。


マスク越しでも分かるくらい、目が大きく見開かれる。


「……終わらせるって」


「どういう、意味」


「配信に行くのをやめるとか」


「DMも、コメントも控えるとか」


「弓さんと“特別に”関わるのを、全部やめるってことです」


言いながら、胸の中に鋭い痛みが走る。


自分で決めた言葉なのに、身体が拒否反応を起こしている。


「そんなの……」


弓さんの声が、震えた。


「そんなの、やだ」


その一言は、小さい。


小さいのに、波の音よりはっきり聞こえた。


「なんで、そうなるの」


「今までみたいに、戻るだけじゃん」


「なにも、始まってないのに」


「恋人でもないのに」


「……」


正論だった。


どこにも、反論の余地がない。


「森さん、結婚してるじゃん」


「わたし、奥さんから奪うつもりなんて、ないよ」


「そんなことできない」


「だからさ」


「わたしたち、ただの、リスナーと配信者でよくない?」


「友だちみたいな、ちょうどいい距離で」


「それでいいじゃん」


その「ちょうどいい距離」が、いちばん難しい。


それは、頭では分かっているのに。


「それができなくなってしまってるから、困ってるんです」


僕は、静かに言う。


「いちど気持ちが上がってしまうと」


「もう、“ただのリスナー”には戻れないんだと思います」


「戻ろうとしたら、たぶん、そのたびに自分をごまかすことになります」


「それを続けた先で、どんな形で歪みが出るのか」


「正直、自分を信用できない」


吐き出すように言ったあと、しばらく沈黙が落ちた。


波のリズムと、遠くの道路を走る車の音だけが、時間を刻んでいる。


「……じゃあ、どうしたいの」


弓さんが、かすれた声で問う。


「どうしてほしいの」


その問いに、即答できない。


本当は、「君にとって特別でいたい」と言ってしまいたい。


「配信者とリスナー」ではなく、「ひとりの人間同士」として、隣にいたい。


その欲望は、はっきりと自覚している。


でも、それを口にした瞬間、この関係は本当に戻れなくなる。


「僕も、分からないんです」


絞り出すような声になった。


「ただ、今のままだと」


「たぶん、僕はずっと苦しいままだろうなっていうのは、分かっていて」


「それに、弓さんにも、変な負担をかけ続けると思います」


「配信のたびに、僕を気にしなきゃいけなくなるのなら」


「それは、本末転倒じゃないですか」


「……」


弓さんは、膝の上で手をぎゅっと握る。


「じゃあ、やっぱり、いなくなっちゃうの」


その言葉には、子どもみたいな響きが混ざっていた。


「わたしが何もしなくても」


「森さんは、自分で、いなくなるって決めちゃうの」


責めているようでいて。


どこか、捨てられることを恐れている響きも、そこにはあった。


僕の中で、何かが揺れる。


「……正直に言うと」


「いなくなったほうが、楽なんだろうなって、何度も思いました」


「でも」


そこから先の言葉が、のどに引っかかる。


「でも?」


弓さんが、少し身を乗り出す気配がした。


「でも、そのたびに、配信で笑ってる弓さん見ると」


「“やっぱり、今日も来てよかった”って、思うんです」


「その瞬間だけは、自分の選択を肯定できて」


「で、配信が終わったあとに、また全部、苦しくなる」


自分で話していて、苦笑したくなる。


あまりにも不器用だ。


「だから、僕も、本当はどうしたらいいのか分かってないんだと思います」


「ただひとつだけ言えるのは」


「今のまま、“友だちみたいな距離”でい続けるのは、僕にはけっこう難しいということです」


顔を上げると、弓さんは俯いていた。


マスクのせいで、表情はよく見えない。


それでも、肩が小刻みに震えている。


「……ごめん」


弓さんが、小さく言った。


「ごめんね」


「わたし、ちゃんと考えられない」


「自分のことばっかりで」


「森さんがどんなふうに苦しんでるか、ちゃんと想像できてなかった」


その言葉は、たぶん本音だ。


この人はいつも、感情が先に動いてしまう。


頭で整理するより先に、心がひっくり返る。


だからこそ、今日もこうして海まで来てくれたのだろう。


「……弓さん」


名前を呼ぶ。


何か、決定的な言葉を口にしそうになって、飲み込む。


ここで「さよなら」を口にすれば、きっと終われる。


終わりにできる。


その代わり、そのあとに続く時間の長さを、全部ひとりで抱えることになる。


何年も何年も、配信を開かない夜のたびに、海風の匂いを思い出すだろう。


弓さんの笑い声を思い出すだろう。


その“長さ”を想像しただけで、足元がふらつく。


「……どうしたら、森さんがいかないでいてくれるか、考えてる」


沈黙を破ったのは、弓さんのほうだった。


「さっきから、ずっと」


「どうしたら、いなくならないでいてくれるか、考えてる」


その言葉は、海風より冷たくて、海風より温かかった。


「僕が、そんなに必要ですか」


意地の悪い聞き方だと思いながらも、口から出てしまう。


「しらない」


弓さんは、素直にそう言った。


「言葉には、できない」


「でも、いなくなったら、きっとさみしい」


「配信に来てくれなくなったら、すっごくさみしい」


「それは、分かる」


「それだけじゃ、ダメ?」


マスクの奥で、どんな顔をしているんだろう。


想像して、胸が痛くなる。


十分すぎる理由だった。


「……ずるいですね」


つぶやくと、弓さんは、かすかに肩をすくめた。


「ずるいのは、そっちだよ」


「ひとりで決めて、ひとりで終わらせようとするの」


「わたしに、相談もなしに」


その通りだった。


どこにも反論の余地はない。


自分を守るために、“大人の判断”という言葉を盾にしていただけだ。


それが、どれだけ一方的だったか、弓さんの一言でよく分かる。


視界がにじむ。


泣いているわけではない。


ただ、いろんな感情が混ざって、焦点が合わなくなっている。


俯いた弓さんの頭頂部が、街灯の光を受けて淡く光っていた。


気づいたら、僕の右手は、そっとその上に置かれていた。


「……森さん?」


驚いたような声。


「すみません」


自分でも、なぜそうしたのか、はっきりとは説明できない。


ただ、言葉ではこれ以上うまく伝えられないものが、手のひらに溢れていた。


「何してるの、って聞かれたら」


「たぶん、うまく答えられないですけど」


「気持ちを、落ち着かせようとしてるんだと思います」


頭を撫でる動きは、ゆっくりだった。


乱暴に触れば、弓さんはすぐに逃げてしまうだろう。


そうならないぎりぎりの速度で、髪をなでる。


弓さんは、最初、身体をこわばらせた。


でも、逃げなかった。


「……あったかい」


マスク越しの声が、風に紛れて、かすかに耳に届く。


自分の手のひらの温度なんて、普段は意識しない。


今は、それが唯一の“言葉”のように思えた。


数分か、十数分か。


時間の感覚が、ゆっくりと溶けていく。


撫でる動きをやめるタイミングが分からなくなってきたころ。


自然と、手が、少しだけ滑った。


頭から、肩へ。


そのまま、そっと引き寄せる。


「ちょ、森さん……?」


弓さんの肩が、僕の胸に当たる。


心臓の鼓動が、いやでも自分に伝わってくる。


それと同時に、弓さんの体温も、服越しに伝わってくる。


「ごめんなさい」


「これをしたら、もう戻れないのは分かってるんですけど」


そう言いながらも、腕は緩まなかった。


抱きしめる力は、強すぎないように気をつける。


でも、離してしまったら、全部が嘘になるような気がして。


弓さんは、しばらくのあいだ、何も言わなかった。


ただ、僕の胸元に額を預けるみたいにして、じっとしていた。


夜の海風が、ふたりのまわりを通り過ぎていく。


波の音が、少しだけ近くなったように聞こえた。


どのくらいその姿勢でいたのか、正確な時間は分からない。


ただひとつ、はっきり分かっていたことがある。


この瞬間を境に、僕たちはもう、元の場所には戻れない。


それでも、離せなかった。


壊れると分かっていても、その温度から目をそらせなかった。


東の空が、ほんの少しだけ、かすかに薄くなり始めていた。


夜と朝の境目にいるような、その時間帯に。


僕たちは、黙ったまま、互いの存在を確かめ続けていた。

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