Part30 心が先に動いてしまう
《弓視点》
スマホの画面が光っている。
森さんの名前。
いつものアイコン。
胸のあたりが、きゅっとなる。
嬉しい、のに。
同時に、少しだけ、怖い。
そのふたつが、同じ場所でぶつかって、まとまらない。
通話ボタンを押す指が、ほんの少しだけ止まる。
それでも、指は勝手に進んでしまう。
耳に当てたスマホが、じんわりとあたたかい。
「……もしもし」
自分の声が、思っていたよりも高くて、甘い。
あ、と思う。
また、甘えてる。
また、前みたいに。
森さんの声が聞こえる。
落ち着いてて、いつものトーン。
「おつかれ」
その一言で、身体の力が抜ける。
ああ、この感じ、好きだ。
楽になる。
守られてるみたいで、安心してしまう。
それと同時に、どこかで、小さな針が刺さる。
(……これ、ほんとに、いいのかな)
少し前の、自分のことを思い出す。
あのとき、調子に乗って、あんなこと言った。
カメラ越しに、服を見せるみたいなことをして。
ポーズをとって。
「どう?」なんて、ほとんど、女として見てほしいみたいな匂いを出して。
楽しかった。
そのときは、本当に。
森さんの声がちょっと変わるのも、どきっとして。
「かわいい」とか、「やばいね」とか。
今まであまり聞いたことのない温度の言葉をもらって。
胸の奥が、熱くなるのがわかった。
ああ、私、今、完全に「女」してる。
そう思って、少し気持ちよくなってた。
そこには、ほとんど罪悪感なんてなかった。
むしろ、やっとここまでこれた、という満足感のほうが大きかった。
あんなに不安症で。
初めて会ったときも、全然上手に話せなくて。
いつも画面のすみっこに隠れたいみたいな私が。
こんなふうに、誰かをドキドキさせられてる。
それが、嬉しかった。
……でも、そのあとだった。
配信を終えて、通話も終わって。
一人の部屋に、静けさが戻ってきたとき。
ライトを落として、布団に潜り込んで。
天井の暗がりを見ながら、急に、スイッチが切り替わるみたいに、思考が襲ってくる。
(……私、何やってるんだろ)
さっきまでの、楽しかった温度が、嘘みたいに遠くなる。
布団の中で丸くなりながら、配信のコメントを思い出す。
「今日も癒されました」
「音色、ほんとに大好きです」
「仕事きつかったけど、なっつんの枠で救われた」
スタンプや、固定の常連さんの名前。
森さんだけじゃなくて。
たくさんのアイコンが脳内に浮かんでくる。
その人たちの前では、私はいつも「演奏家」でありたかった。
音で繋がってる人間でありたかった。
それが、森さんの前では。
すごく簡単に、「女」になってしまう。
しかも、私のほうから。
「見て」と言わんばかりに。
(……裏切ってる、のかな)
その言葉が、胸の奥で、じわじわと広がる。
すぐ横には、別の声もある。
(いや、いいでしょ、誰かを好きになったり、甘えたりするくらい)
(私だって、人間だし)
でも、私は「好き」って言葉が、まだどうしても出せない。
森さんのことを「好き」なのか、「依存」なのか。
自分でもわからないから。
「好き」を使った瞬間、全部が崩れてしまいそうで怖い。
だから、依存の形のまま、甘え続けている。
それが、余計に歪んで見える。
スマホが震える。
通知の山。
未読のLINEが、ずらっと並んでいる。
昔の友達からのメッセージも、仕事関係の連絡も。
森さんからの、丁寧な長文も。
全部、きちんと返したいのに。
ちゃんと返そうとすると、言葉が重くなって。
打ち始めては消して、打ち始めては消して。
そうしているうちに、また一通、また一通と増えていく。
(……だめだ)
考えようとすると、頭の中がオーバーヒートする。
だから、スマホをうつ伏せにしてテーブルに置く。
見ないようにする。
後回しにする。
その「後回し」が、いつも私の大事なものを壊してきたのに。
学習できてない。
冷静なときに振り返ると、本当にそう思う。
森さんのことも、同じようにしてしまいそうで怖かった。
ちゃんと説明しなきゃいけない。
「今、どういう気持ちなのか」
「森さんのこと、どう見てるのか」
「距離を置こうとしてるのは、嫌いになったからじゃないこと」
文章にすれば、たぶん伝えられる。
わかってる。
でも、その文章を作るのが、今の私には重すぎた。
ひとつひとつの言葉に責任を持たなきゃいけないと思うと、指が止まる。
送信ボタンを押した瞬間に、取り返しがつかなくなるような気がしてしまう。
だから、短いスタンプや、「了解」「ありがとう」みたいな軽い単語だけ送ってしまう。
そのたびに、胸の奥がちくっとする。
(ごめん、ほんとはもっと話したいのに)
(森さんなら、ちゃんと聞いてくれるってわかってるのに)
それでも、長文は書けない。
電話は、まだマシだった。
文字みたいに、「完成させてから出す」必要がない。
途中で話が迷子になっても、森さんが拾ってくれる。
私の言葉の足りなさも、言い淀みも、笑いに変えてくれる。
だから、電話だけは繋げられていた。
……はずだった。
なのに、さっきから、通話ボタンを押す前の指が重い。
何度も、画面を閉じて開いてを繰り返している。
「……どうしたいの、私」
天井に向かって、誰にも聞こえない小さな声を投げる。
森さんのことを考えると、心があったかくなる。
全部投げ出して、甘えてしまいたくなる。
わがままを全部ぶつけて、それでも「大丈夫だよ」と言ってほしい。
そんな幼稚な願いが、胸の底にはちゃんとある。
一方で。
配信画面の向こうにいる、たくさんのアイコンを思い出すと、凍る。
(私だけずるい)
(森さんだけずるい)
(みんなの前ではいい顔しておいて、裏でこんなことしてる)
そうやって、自分で自分のことを責め始める。
それが始まると、止まらない。
過去のことも、勝手に蘇ってくる。
学生時代。
誰かに優しくされると、すぐに全力で懐いて。
距離を詰めすぎて。
相手が重くなって離れていく。
そのたびに、私はひどく落ち込んで。
「もう誰にも甘えない」って決めるのに。
少し時間が経つと、また同じことをしてしまう。
「私、どこかおかしいのかな」
そう思った夜は、一度や二度じゃない。
自分のスイッチが、感情のほうに先についていて。
頭が追いつく頃には、もうかなりのところまで進んでしまってる。
戻ろうとするたびに、ブレーキを急に踏むみたいなことになる。
今回も、そのパターンだ。
わかってる。
わかってるのに、止められない。
森さんとの関係も、そう。
最初はただのリスナーと配信者だった。
そこから、少しずつ距離が近づいて。
初めて会って。
一緒に歩いて、ご飯を食べて。
笑って。
「この人の前なら、少しくらいわがまま言ってもいいのかもしれない」
そう思ってしまったのが、多分始まり。
そこから、甘えが増えていった。
森さんが、誰よりも私の音を聴いてくれた。
誰よりも、言葉をくれた。
「今日のこの曲のここ、前より全然よかった」
「このアレンジ、めちゃくちゃ好き」
音の話をこんなに真剣にしてくれる人なんて、今までいなかった。
だから私は、安心しきってしまった。
この人は、私の音を、芯のところで見てくれてるんだって。
そう信じてた。
……なのに。
あの日、自分から「女」のスイッチを入れてしまってから。
森さんの言葉の中に、少し違う色を感じるようになってしまった。
「その服、反則だって」
「そんなの見せられたら、変なスイッチ入るでしょ」
ちゃんと冗談っぽく笑ってくれてた。
からかうみたいなニュアンスで。
でも、声の奥に、今までとは違う熱を感じてしまって。
それが、怖かった。
怖いくせに、その場では笑って乗ってしまう自分も、同時にいた。
「え、そう? じゃあ、もうちょっとだけ見せよっかな」
そんなことを言ってる自分が、画面の中で笑っていた。
(なにそれ、私)
あとから動画を見返して、頭を抱えた。
完全に、演奏家じゃない。
ただの、誰かに求められたい女の子になっている。
そのことが、どうしようもなく恥ずかしかった。
(……森さんは、どっちを見てるんだろう)
私の音なのか。
私という人間なのか。
それとも、私の「女」の部分なのか。
多分、その全部なんだろう。
きっと、どれかひとつってことはない。
頭ではそう理解しようとする。
だけど、感情のほうは、きれいに分けられない。
森さんから少しでも「男」の気配を感じると、全部そっちに塗りつぶされてしまうような気がする。
今まで積み上げてきた、信頼とか、音色の話とか、深夜のどうでもいい会話とか。
それら全部が、「私を女として見てるから」の上に乗っかっているだけなんじゃないか。
そんなふうに感じてしまった瞬間。
心の中のバランスが、一気に傾いた。
(距離、置かなきゃ)
その結論だけが、先に浮かんだ。
理由はあとから、ゆっくり付いてくる。
いつもの流れ。
私はいつも、こうだ。
心が先に動いてしまって。
頭が、必死に言い訳や理屈を探してくる。
距離を置く理由は、たくさん作れた。
「リスナーさんたちを裏切りたくないから」
「音楽にちゃんと集中したいから」
「森さんの家庭のことを考えたら、深入りしすぎちゃいけないから」
どれも、嘘ではない。
全部、どこかでは本当に思っていること。
でも、いちばんの理由は、もっと原始的で、子供っぽい。
「怖くなったから」
ただそれだけ。
自分でもどうしたらいいかわからない感情に巻き込まれて。
それを持ったままそばにいるのが怖くて。
逃げたくなった。
それを、ちゃんと「怖い」って言えばいい。
頭ではそう思う。
「ごめん、今ちょっと怖くなってて」
「少し距離置きたい」
そう言えば、多分、森さんは受け止めてくれる。
あの人の性格を考えれば、責めたりしない。
むしろ、自分を責める側に回りそうなくらい。
わかってる。
わかってるのに、言えない。
「怖い」って言葉は、私にとって、だいぶ禁句に近い。
弱さを晒すのが怖いのと同時に。
そのひと言で、相手が離れてしまう未来も、一緒に連れてくる気がしてしまう。
だから、また黙る。
その代わりに、行動のほうを変える。
メッセージの頻度を減らす。
通話の時間を短くする。
甘い声を、意識して抑える。
「会いたい」とか、「そばにいてほしい」とか、直接的な言葉は言わないようにする。
森さんを画面で見ていても、「かわいい」とか「かっこいい」とかを、コメントで打つ回数を減らす。
そうやって、「普通のリスナー」に近づけていく。
みんなと同じラインに自分を戻していく。
……でも。
やってみてすぐにわかった。
それは「普通」に戻る動きじゃなくて。
「わざとらしい冷たさ」みたいな形で相手に伝わってしまう。
森さんからの返事が、ほんの少しだけ慎重になる。
「大丈夫?」
「最近、忙しい?」
そういう言葉が増えてくる。
そのたびに、心臓がぎゅっとなる。
(あ、気づかれてる)
(気づかれてるのに、説明してない)
「ごめん」って何度も打ちかけては、消す。
「ちょっと怖くなって」
「距離を置きたくて」
ここまで書いて、結局全部消す。
送信されるのは、「最近ちょっとバタバタしてて」みたいな、苦しい言い訳だけ。
自分で打ってて、うそくさいと思う。
(最低だな、私)
そう思いながら、送信ボタンを押す。
配信の時間になる。
ライトをつける。
マイクを立てる。
フルートのキーに指を置く。
息を吸う。
一音目を出した瞬間、いつもの「演奏家のスイッチ」が入る。
そこに森さんも、他のリスナーさんも関係ない。
音を真ん中に置いて、私はその周りをぐるぐる回る。
この瞬間だけは、自分を好きでいられる。
でも、曲が終わって、MCに入ると、すぐに現実が戻ってくる。
コメント欄に、森さんの名前を探してしまう。
「あ、いる」
心がふわっとなる。
少し、ほっとする。
だからこそ、余計に怖くなる。
(……いなくなったらどうするんだろ、私)
今のこの怖さを、そのままぶつけたら。
森さんは、どうするんだろう。
きっと、真正面から受け止めてくれる。
それがまた、怖い。
配信後、森さんからメッセージが来る。
「今日の二曲目、めちゃくちゃよかった」
「最後の伸ばしのところ、鳥肌立った」
画面越しに、ちゃんと音を聴いてくれている。
そこに、女とか男とか、変なラベルはない。
ただ純粋に、「演奏家」として私を見てくれている。
そのことが、嬉しくて、救われる。
同時に、胸の奥で、別の声が囁く。
(本当に?)
(さっきみたいな話をしたあとでも?)
(私のこと、“そういう目”で見てないって、言い切れる?)
その問いに、自分で答えられない。
だからまた、「ありがとう!」だけ返して、スマホを伏せる。
本当は。
自分でもわかってる。
森さんの「男」としての部分を、私が最初に引き出した。
あのとき、わざと煽るみたいな服の見せ方をしたのも。
冗談半分で、でも、どこか期待して、「どう思ってるの?」みたいな空気を出したのも。
全部、私だ。
そのくせ、いざ相手が少し踏み出してくると、急に怖くなって逃げる。
それは、あまりにも勝手だと思う。
自分で仕掛けた火に、自分で驚いて、水をかけてる。
それで相手がびしょ濡れになってることに、なかなか気づかない。
(こんなの、ずるいよね)
そうつぶやいて、笑ってみるけど。
喉の奥がつまって、うまく笑えない。
布団の上で、ごろりと仰向けになる。
天井を見つめる。
今日、森さんと電話したとき。
いつもより、少しだけ会話を早めに切った。
「そろそろ寝なきゃ」
そう言ったのは、本当は嘘だった。
まだ全然眠くなかった。
ただ、これ以上話していたら、甘くなってしまう気がして。
森さんがまた、私の心の奥まで入ってきてしまう気がして。
それが怖かった。
だから、先に切った。
そのあと、ひとりでスマホの画面を見つめながら。
LINEの入力画面を開いて。
「ごめんね、最近ちょっと怖くて」
そこまで打って、全消しする。
指先が、軽く震えている。
(……もう少しだけ、時間がほしい)
自分にそう言い訳する。
森さんと、自分の感情の距離を、ちゃんと測り直す時間。
「演奏家」としての私と、「女」としての私を、どう共存させたらいいのか考える時間。
配信のこと、リスナーさんのこと。
森さんの家庭のこと。
全部ひっくるめて、「このままでいいのか」を考え直す時間。
そう思えば、距離を置くことは悪いことじゃない。
必要なこと。
……そうやって、自分に言い聞かせる。
けれど、本当のところではわかってる。
私はただ、怖くて逃げてるだけだ。
怖くて、でも手放したくなくて。
その矛盾を、どう言葉にすればいいか、まだ知らない。
スマホが、ベッドの上で小さく震えた。
森さんからではない、別の通知。
短い広告メール。
それだけで、少しほっとする自分がいる。
森さんじゃなくて、よかったみたいに。
でも同時に、がっかりする。
森さんじゃなかった、って。
この矛盾が、今の私そのものだと思う。
目を閉じる。
頭の中に、海の景色がぼんやり浮かぶ。
波の音。
潮の匂い。
砂浜に座り込んで、膝を抱えている自分。
その横に、黙って座っている森さんのシルエット。
まだ行ってもいない場所なのに、はっきりと情景が浮かぶ。
きっと、私はどこかで、その場面を望んでいる。
ちゃんと向き合うための場所。
逃げずに話さなきゃいけない場所。
(そのときまでに、ちゃんと整理できてるのかな)
自信はない。
でも、多分、そのときは来る。
森さんのほうが、我慢できなくなって、誘ってくる。
そのとき、私はきっと断れない。
断る強さを持っていない。
だからせめて、それまでに。
自分の「怖い」を、ちゃんと見つめておきたい。
心が先に動いてしまって。
頭が後から追いかけて、息を切らしてる。
それが、今の私の全部。
「……ごめんね、森さん」
誰もいない部屋で、小さくつぶやく。
届かない謝罪。
まだ送信されていないメッセージ。
それを胸の中に抱えたまま。
私は、ゆっくりと目を閉じた。




