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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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3/62

Part 3 だめって、言った


一か月。

配信の部屋は、少し明るくなった。ライトを一段上げたのではなく、画面の向こうの人数が光を増やしたのだ。視聴は三十から五十、跳ねると七十。チャットには常連の名前が並ぶ。


開幕の挨拶が終わる前から、帯が動き出す。


ハル:こんばんはー。本日も出席

リリィ:今日の部屋、空気が澄んでる

カオル:息多めでお願いします。夜なので

弓:こんばんは。今日も来てくれて、ありがとうございます。最初は短めの曲からいきますね


息を置く位置を確かめて、弓は吹く。

一曲目が終わると、拍手アイテムと短い感想が重なる。


ハル:一曲目から優勝

リリィ:中盤の間、綺麗でした

カオル:最後の抜き、ずるい


弓が水を飲む。視線が一度だけ右上の数字に触れ、すぐ戻る。

その瞬間、帯の中に見慣れた文字が流れる。


森:こんばんは。今日も聴けてうれしいです

弓:森さん、こんばんは。ありがとう。来てくれて安心しました


ハル:出た古参

カオル:森さん来たら部屋が落ち着くの草

リリィ:二人の空気、好きです


弓は笑って首を振る。


弓:みなさんの空気です。では、次は少し速いのを


二曲目は軽やかだが、呼吸は深い。

人気が出るほど、弓は無意識にテンポを上げる傾向がある。焦りではない。呼ばれる方へ早足になる、その癖。


曲が終わると、ハルがすぐ反応する。


ハル:本日も名手

カオル:後半の装飾、増やしてたよね

リリィ:マイク位置、少し下げると息が甘くなるかも


弓:助かる。ちょっと下げますね。こんな感じでどうだろう


森:今の位置、低音が近いです。外で吹いて、最後だけ窓際に戻る感じ

弓:窓際、いい。じゃあ次は窓際から始めます


ハル:ことばが詩人

カオル:森さんの比喩、すでに界隈名物

リリィ:窓際スタート承認


弓は小さく笑って三曲目へ。

窓際から始める。冒頭の二小節でマイクが唇の湿気を拾い、息の縁が柔らかく広がる。部屋の空気が一度沈んでから上がる。リスナーの視線が音へまとまるのが、画面越しにも分かる。


カオル:はい名勝負

ハル:今日は勝ってる

リリィ:最後の一拍、置いた勇気に拍手

森:今の間、部屋が広がりました。ありがとう


弓:こちらこそ。息、今の感じ、しっくりきました


配信は滑り出し好調。

だが、帯の速度が少しずつ上がっていく。

弓は呼吸を合わせるが、言葉の選択が一瞬遅れることがある。常連の冗談に返している間に、新規の問いが流れ、返信し損ねる。コメントは生き物だ。尾ひれをつけて進み、戻らない。


ハル:今日、掲示板つくるって話どうなりました?

カオル:管理大変だからやめときな派

リリィ:固定ポストで十分かも

弓:うーん、悩ましい。便利だとは思うんだけど、むずかしくて


森:風が吹いたらで大丈夫です。音の速度を守るのが一番

カオル:出た、森標準時

ハル:森時間すき

リリィ:わかる。音の側に時間を合わせる感じ


弓:ありがとう。じゃあ、焦らずに、風が吹いたらで


そのやり取りの最中、弓は一瞬だけ画面から目を外す。

マイクゲインを二ミリ下げる。戻る。その短い隙間に、森の一行が帯の奥へ進む。弓は追い、軽く笑う。

だが、その笑顔に微小な疲れが混ざる。

人気は音を誇らせるが、体力は削る。

それを知らないわけではない。知った上で、今日も吹く。


四曲目。

短く、深い。

終わると、拍手が一斉に跳ねる。


ハル:拍

カオル:この曲のときだけ部屋の音が一段落ちるの好き

リリィ:低域がやさしい

森:無理はしないでくださいね。息の量、少し多めに聞こえます


帯は速い。森の言葉は、画面の底に沈みかける。

弓は、ぎりぎりで拾う。


弓:ありがとう。少し、速くしてたかも。落ち着きます


ハル:森さん、よく聞いてる

カオル:古参の耳

リリィ:たぶん低音の入り口、昨日と位置が違う


弓:当たり。位置戻します。次が最後の曲かな


ハル:もう終盤か

カオル:今日は時間が溶ける

リリィ:アンコール期待


弓:どうだろう。体力が残ってたら、少しだけ


森は時計を横目で見る。

明日の朝は早い。資料の確認も残っている。

彼女の呼吸は確実に速い。

ここで退出すれば、彼女は体力を残せる。

そう思って、言葉を打つ。


森:今日はここで落ちます。最後の曲、アーカイブで聴きます


帯の流れが、ほんの一瞬だけ止まった。

弓の顔が、わずかに動く。

迷う時間も、言い換える余裕もなかった。

声が先に出た。


弓:だめ


帯がざわめく。

一拍置いて、弓自身が驚いたように目を瞬く。


弓:……今の、待って。えっと、だめ、は違って。えっと、その、最後の曲、聴いてほしい、が正しい


ハル:出ました名場面

カオル:きょうのハイライト

リリィ:素直でいい。大丈夫


森は、指を止める。

画面の中の彼女の耳朶が赤い。

言い直したけれど、最初の一語は戻らない。

その一語に宿った温度だけが、こちらの胸へ届いてくる。


森:了解です。では、もう一曲だけ。最後までいます


弓:ありがとう。ほんとに、ありがとう。ごめん、驚かせたよね


ハル:驚きました

カオル:でも好き

リリィ:言い直したところも含めて好き


弓:最後は、静かな曲。呼吸、ゆっくりめで


笛が上がる。

息が、今夜いちばん丁寧に通る。

冒頭の四小節で、部屋の全員が音へ向く。

チャットは自然に速度を落とし、スタンプの間隔が広がる。

音が支配しているのではない。

全員が、自分から音へ席を譲っている。


終わりの一音が、やさしく置かれた。

沈黙が、数秒だけ続く。

誰も崩さない。

弓が先に息を吐き、その音を合図に拍手がいっせいに跳ねる。


ハル:完

カオル:今日の一位

リリィ:最後の呼吸、宝石

森:ありがとう。いい夜でした


弓:こちらこそ。森さん、さっきは、えっと……言い方が悪かった。行かないで、って言いかけてた


帯が少しだけ騒がしくなる。

常連たちは、騒がしさを笑いに変えるのが上手い。


ハル:ここ、テストに出ます

カオル:今日の黒板名言

リリィ:無理にまとめないでいいよ。今のままで十分届いてる


弓:みんな、ありがとう。今日はここまで


配信終了のボタンの手前で、弓は小さく笑う。

その笑顔は、今日いちばん近かった。


森は画面を閉じずに、しばらく黒い画面を見ていた。

一語。

だめ、の一語。

恋ではない。まだ違う。

けれど、境界線を震わせるには、あれ一語で充分だった。






----


配信が終わったあとも、帯のログはしばらく流れ続けた。

「今日も最高」「おつかれさま」「よく寝てね」。

画面の明かりが少しずつ落ち着き、残り香のようにコメントが消えていく。


弓はマイクを切ったあと、息を吐く。

肺の奥が少し痛い。

さっきまで張っていた肩の力が、一気に抜けた。

窓の外は風が止んでいる。

静寂が、まるで一つの音のように部屋を満たしていた。


椅子の背にもたれながら、弓はスマホの画面を見つめた。

チャットの最後の一文が目に残っている。


森:ありがとう。いい夜でした。


小さく声に出してみる。

「いい夜でした」

自分の声が、さっきより少し掠れている。

マイクを通していたときの柔らかさが抜け落ちて、

少しだけ素の自分が顔を出す。


――だめ、って言っちゃった。


頬がまた熱を帯びる。

反射的に出た言葉だった。

森が「落ちます」と打ったその瞬間、

何かが切れたように口が動いた。

止めなきゃいけないなんて、考えてなかった。

ただ、その一瞬、

「行かないで」と言うよりも早く、

「だめ」の方が出てしまった。


人気が出てきて、常連も増えて、

配信は明るくなった。

みんな優しく、楽しい。

でも、森がいないときの静けさだけは、

どうしても違う。

コメント欄がどれだけにぎわっても、

音の奥が少し空っぽになる。


――そんなの、言っちゃだめでしょ。


弓は頭を抱える。

自分の中に、演者と人間の二人が住んでいる。

音を通して見せたい世界と、

誰かに寄りかかりたい心。

その境界が、今夜、少し溶けた気がした。


笛を手に取り、唇に軽く当てる。

吹かない。

ただ、冷たい金属の感触を確かめる。

森が言った「窓際から始める」という言葉が浮かぶ。

あの時、彼の想像した景色の中で自分が音を吹いていた気がする。

――その景色の中に、ほんとうに私がいたのかな。


そのまま少しだけ、息を通す。

音にはならない。

だけど、胸の中の息の形だけが、

確かにそこにあった。



森は机に置いたスマホを見つめていた。

コメント欄の最後に自分の名前が残っている。

画面はもう消えているのに、

そこにまだ光があるような気がした。


だめ。

あの一語が頭の奥で何度もリピートする。

笑って言い直した彼女の顔が、

再生のたびにほんの少しずつ違って見える。

驚いた顔、照れた顔、

そのどれもが現実の記憶なのに、

どれも現実ではないように感じる。


机の上には今日使った資料が山のように積まれている。

本来なら、明日の会議に備えて目を通さなければならない。

だが、今はどの文字も目に入らない。


会社を辞めてから、

世界のリズムはずいぶん静かになった。

会議室の議論も、数字も、

あの喧騒が恋しいとは思わない。

でも――

代わりに、あの音を聴くようになった。

笛の音。

弓の声。

そこにしかない温度。


彼女の配信が始まると、

部屋の空気が少し柔らかくなる。

終わると、少し寒くなる。

その繰り返しが、

ここ最近の“日常”になっている。


森は静かに立ち上がり、カーテンを開ける。

外は風が止んでいた。

街灯の光の中で、

夜の空気がわずかに揺れている。

――風が吹いたら。

彼女が最後に言った言葉が、

また浮かんだ。


ほんの一言が、こんなにも重い。

言葉が心を救うこともあれば、

縛ることもある。

自分は、どっちを望んでいるのだろう。


机に戻り、ペンを手に取る。

ノートの片隅に書く。


「行かないで」と「だめ」は違う。

でも、心の温度は同じだ。


書き終えて、少しだけ笑った。

まるで、自分が恋文を書いたみたいだ。


スマホを手に取り、通知をオフにしかけて、

指を止める。

――いや、今夜だけはこのままでいい。

もし、風が吹いたら。

彼女がまた、息を吸う音が聞こえるかもしれない。


森はライトを落とし、ベッドに横になった。

耳の奥で、まだ笛の音が響いている。

その音はもう現実ではないけれど、

確かに彼の夜を照らしていた。



数時間後、

弓は眠れずにベッドの上で目を開けていた。

スマホを開く。

新着コメントがひとつ。


森:いい夢を。風の音が聴こえますように。


弓はその一行を見て、

小さく笑い、スマホを伏せた。


部屋の隅で、笛が月明かりを反射して光っている。

手を伸ばして、そっと触れる。

金属の冷たさが、少しだけ心地よかった。


「……おやすみなさい、森さん」


その声はマイクに届かない。

でも、

誰かに聴かれているような気がして、

弓は少しだけ目を閉じた。


――風が吹いたら。

その約束だけが、

二人の夜に、静かに残った。









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