Part 3 だめって、言った
一か月。
配信の部屋は、少し明るくなった。ライトを一段上げたのではなく、画面の向こうの人数が光を増やしたのだ。視聴は三十から五十、跳ねると七十。チャットには常連の名前が並ぶ。
開幕の挨拶が終わる前から、帯が動き出す。
ハル:こんばんはー。本日も出席
リリィ:今日の部屋、空気が澄んでる
カオル:息多めでお願いします。夜なので
弓:こんばんは。今日も来てくれて、ありがとうございます。最初は短めの曲からいきますね
息を置く位置を確かめて、弓は吹く。
一曲目が終わると、拍手アイテムと短い感想が重なる。
ハル:一曲目から優勝
リリィ:中盤の間、綺麗でした
カオル:最後の抜き、ずるい
弓が水を飲む。視線が一度だけ右上の数字に触れ、すぐ戻る。
その瞬間、帯の中に見慣れた文字が流れる。
森:こんばんは。今日も聴けてうれしいです
弓:森さん、こんばんは。ありがとう。来てくれて安心しました
ハル:出た古参
カオル:森さん来たら部屋が落ち着くの草
リリィ:二人の空気、好きです
弓は笑って首を振る。
弓:みなさんの空気です。では、次は少し速いのを
二曲目は軽やかだが、呼吸は深い。
人気が出るほど、弓は無意識にテンポを上げる傾向がある。焦りではない。呼ばれる方へ早足になる、その癖。
曲が終わると、ハルがすぐ反応する。
ハル:本日も名手
カオル:後半の装飾、増やしてたよね
リリィ:マイク位置、少し下げると息が甘くなるかも
弓:助かる。ちょっと下げますね。こんな感じでどうだろう
森:今の位置、低音が近いです。外で吹いて、最後だけ窓際に戻る感じ
弓:窓際、いい。じゃあ次は窓際から始めます
ハル:ことばが詩人
カオル:森さんの比喩、すでに界隈名物
リリィ:窓際スタート承認
弓は小さく笑って三曲目へ。
窓際から始める。冒頭の二小節でマイクが唇の湿気を拾い、息の縁が柔らかく広がる。部屋の空気が一度沈んでから上がる。リスナーの視線が音へまとまるのが、画面越しにも分かる。
カオル:はい名勝負
ハル:今日は勝ってる
リリィ:最後の一拍、置いた勇気に拍手
森:今の間、部屋が広がりました。ありがとう
弓:こちらこそ。息、今の感じ、しっくりきました
配信は滑り出し好調。
だが、帯の速度が少しずつ上がっていく。
弓は呼吸を合わせるが、言葉の選択が一瞬遅れることがある。常連の冗談に返している間に、新規の問いが流れ、返信し損ねる。コメントは生き物だ。尾ひれをつけて進み、戻らない。
ハル:今日、掲示板つくるって話どうなりました?
カオル:管理大変だからやめときな派
リリィ:固定ポストで十分かも
弓:うーん、悩ましい。便利だとは思うんだけど、むずかしくて
森:風が吹いたらで大丈夫です。音の速度を守るのが一番
カオル:出た、森標準時
ハル:森時間すき
リリィ:わかる。音の側に時間を合わせる感じ
弓:ありがとう。じゃあ、焦らずに、風が吹いたらで
そのやり取りの最中、弓は一瞬だけ画面から目を外す。
マイクゲインを二ミリ下げる。戻る。その短い隙間に、森の一行が帯の奥へ進む。弓は追い、軽く笑う。
だが、その笑顔に微小な疲れが混ざる。
人気は音を誇らせるが、体力は削る。
それを知らないわけではない。知った上で、今日も吹く。
四曲目。
短く、深い。
終わると、拍手が一斉に跳ねる。
ハル:拍
カオル:この曲のときだけ部屋の音が一段落ちるの好き
リリィ:低域がやさしい
森:無理はしないでくださいね。息の量、少し多めに聞こえます
帯は速い。森の言葉は、画面の底に沈みかける。
弓は、ぎりぎりで拾う。
弓:ありがとう。少し、速くしてたかも。落ち着きます
ハル:森さん、よく聞いてる
カオル:古参の耳
リリィ:たぶん低音の入り口、昨日と位置が違う
弓:当たり。位置戻します。次が最後の曲かな
ハル:もう終盤か
カオル:今日は時間が溶ける
リリィ:アンコール期待
弓:どうだろう。体力が残ってたら、少しだけ
森は時計を横目で見る。
明日の朝は早い。資料の確認も残っている。
彼女の呼吸は確実に速い。
ここで退出すれば、彼女は体力を残せる。
そう思って、言葉を打つ。
森:今日はここで落ちます。最後の曲、アーカイブで聴きます
帯の流れが、ほんの一瞬だけ止まった。
弓の顔が、わずかに動く。
迷う時間も、言い換える余裕もなかった。
声が先に出た。
弓:だめ
帯がざわめく。
一拍置いて、弓自身が驚いたように目を瞬く。
弓:……今の、待って。えっと、だめ、は違って。えっと、その、最後の曲、聴いてほしい、が正しい
ハル:出ました名場面
カオル:きょうのハイライト
リリィ:素直でいい。大丈夫
森は、指を止める。
画面の中の彼女の耳朶が赤い。
言い直したけれど、最初の一語は戻らない。
その一語に宿った温度だけが、こちらの胸へ届いてくる。
森:了解です。では、もう一曲だけ。最後までいます
弓:ありがとう。ほんとに、ありがとう。ごめん、驚かせたよね
ハル:驚きました
カオル:でも好き
リリィ:言い直したところも含めて好き
弓:最後は、静かな曲。呼吸、ゆっくりめで
笛が上がる。
息が、今夜いちばん丁寧に通る。
冒頭の四小節で、部屋の全員が音へ向く。
チャットは自然に速度を落とし、スタンプの間隔が広がる。
音が支配しているのではない。
全員が、自分から音へ席を譲っている。
終わりの一音が、やさしく置かれた。
沈黙が、数秒だけ続く。
誰も崩さない。
弓が先に息を吐き、その音を合図に拍手がいっせいに跳ねる。
ハル:完
カオル:今日の一位
リリィ:最後の呼吸、宝石
森:ありがとう。いい夜でした
弓:こちらこそ。森さん、さっきは、えっと……言い方が悪かった。行かないで、って言いかけてた
帯が少しだけ騒がしくなる。
常連たちは、騒がしさを笑いに変えるのが上手い。
ハル:ここ、テストに出ます
カオル:今日の黒板名言
リリィ:無理にまとめないでいいよ。今のままで十分届いてる
弓:みんな、ありがとう。今日はここまで
配信終了のボタンの手前で、弓は小さく笑う。
その笑顔は、今日いちばん近かった。
森は画面を閉じずに、しばらく黒い画面を見ていた。
一語。
だめ、の一語。
恋ではない。まだ違う。
けれど、境界線を震わせるには、あれ一語で充分だった。
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配信が終わったあとも、帯のログはしばらく流れ続けた。
「今日も最高」「おつかれさま」「よく寝てね」。
画面の明かりが少しずつ落ち着き、残り香のようにコメントが消えていく。
弓はマイクを切ったあと、息を吐く。
肺の奥が少し痛い。
さっきまで張っていた肩の力が、一気に抜けた。
窓の外は風が止んでいる。
静寂が、まるで一つの音のように部屋を満たしていた。
椅子の背にもたれながら、弓はスマホの画面を見つめた。
チャットの最後の一文が目に残っている。
森:ありがとう。いい夜でした。
小さく声に出してみる。
「いい夜でした」
自分の声が、さっきより少し掠れている。
マイクを通していたときの柔らかさが抜け落ちて、
少しだけ素の自分が顔を出す。
――だめ、って言っちゃった。
頬がまた熱を帯びる。
反射的に出た言葉だった。
森が「落ちます」と打ったその瞬間、
何かが切れたように口が動いた。
止めなきゃいけないなんて、考えてなかった。
ただ、その一瞬、
「行かないで」と言うよりも早く、
「だめ」の方が出てしまった。
人気が出てきて、常連も増えて、
配信は明るくなった。
みんな優しく、楽しい。
でも、森がいないときの静けさだけは、
どうしても違う。
コメント欄がどれだけにぎわっても、
音の奥が少し空っぽになる。
――そんなの、言っちゃだめでしょ。
弓は頭を抱える。
自分の中に、演者と人間の二人が住んでいる。
音を通して見せたい世界と、
誰かに寄りかかりたい心。
その境界が、今夜、少し溶けた気がした。
笛を手に取り、唇に軽く当てる。
吹かない。
ただ、冷たい金属の感触を確かめる。
森が言った「窓際から始める」という言葉が浮かぶ。
あの時、彼の想像した景色の中で自分が音を吹いていた気がする。
――その景色の中に、ほんとうに私がいたのかな。
そのまま少しだけ、息を通す。
音にはならない。
だけど、胸の中の息の形だけが、
確かにそこにあった。
⸻
森は机に置いたスマホを見つめていた。
コメント欄の最後に自分の名前が残っている。
画面はもう消えているのに、
そこにまだ光があるような気がした。
だめ。
あの一語が頭の奥で何度もリピートする。
笑って言い直した彼女の顔が、
再生のたびにほんの少しずつ違って見える。
驚いた顔、照れた顔、
そのどれもが現実の記憶なのに、
どれも現実ではないように感じる。
机の上には今日使った資料が山のように積まれている。
本来なら、明日の会議に備えて目を通さなければならない。
だが、今はどの文字も目に入らない。
会社を辞めてから、
世界のリズムはずいぶん静かになった。
会議室の議論も、数字も、
あの喧騒が恋しいとは思わない。
でも――
代わりに、あの音を聴くようになった。
笛の音。
弓の声。
そこにしかない温度。
彼女の配信が始まると、
部屋の空気が少し柔らかくなる。
終わると、少し寒くなる。
その繰り返しが、
ここ最近の“日常”になっている。
森は静かに立ち上がり、カーテンを開ける。
外は風が止んでいた。
街灯の光の中で、
夜の空気がわずかに揺れている。
――風が吹いたら。
彼女が最後に言った言葉が、
また浮かんだ。
ほんの一言が、こんなにも重い。
言葉が心を救うこともあれば、
縛ることもある。
自分は、どっちを望んでいるのだろう。
机に戻り、ペンを手に取る。
ノートの片隅に書く。
「行かないで」と「だめ」は違う。
でも、心の温度は同じだ。
書き終えて、少しだけ笑った。
まるで、自分が恋文を書いたみたいだ。
スマホを手に取り、通知をオフにしかけて、
指を止める。
――いや、今夜だけはこのままでいい。
もし、風が吹いたら。
彼女がまた、息を吸う音が聞こえるかもしれない。
森はライトを落とし、ベッドに横になった。
耳の奥で、まだ笛の音が響いている。
その音はもう現実ではないけれど、
確かに彼の夜を照らしていた。
⸻
数時間後、
弓は眠れずにベッドの上で目を開けていた。
スマホを開く。
新着コメントがひとつ。
森:いい夢を。風の音が聴こえますように。
弓はその一行を見て、
小さく笑い、スマホを伏せた。
部屋の隅で、笛が月明かりを反射して光っている。
手を伸ばして、そっと触れる。
金属の冷たさが、少しだけ心地よかった。
「……おやすみなさい、森さん」
その声はマイクに届かない。
でも、
誰かに聴かれているような気がして、
弓は少しだけ目を閉じた。
――風が吹いたら。
その約束だけが、
二人の夜に、静かに残った。




