Part29 違和感のまま確証
《森視点》
弓と話す時間が、目に見えて減ってきた。
そう気づいたのは、ある夜、ふと画面の時計を見たときだった。
いつもなら、配信が終わってから一時間、長いときは二時間、他愛もない通話で埋まっていたはずの時間帯。
今日は、二十分で切れた。
「そろそろ寝なきゃ」
弓がそう言ったとき、森は反射的に「だね」と返していた。
ほんの少し、声が遅れた気がした。
(あれ、俺……今、なんて言いたかったんだっけ)
通話が切れたあと、暗くなったスマホの画面を見つめながら、指先にわずかな痺れが残っているのを感じる。
まだ話したかった。
でも、“まだ話したい”と言えなかった。
それは、言ってはいけない言葉のように思えたからだ。
既婚者の自分が、若い彼女にそれを言うのは、どこか踏み越えてはいけない線を越える気がした。
(あっちは、ブレーキを踏んでくれてるのかもしれない)
そう思おうとする。
理屈では、そう整理する。
だけど、胸の奥では、別の声がしている。
(……それだけ、なのか?)
◇
違和感の最初の一歩は、たいてい、とても小さい。
弓からの返信の遅さに気づいたのも、そんな些細な変化だった。
前なら、森が送ったメッセージに対して、数分以内にスタンプか一言が返ってきた。
「今から配信準備するー」
「今日はこれ吹こうかな」
「森さん起きてる?」
その軽さが、森にとっては空気みたいなものだった。
意識して吸ってはいないけれど、そこにあることが当たり前になっていた。
それが、ここ数日は一時間、二時間、ひどいときには半日ほど空く。
こちらからのメッセージは既読になる。
でも、返事は来ない。
仕事の合間にちらりとスマホを確認しては、そこに何も増えていないのを見て、胸の中のどこかが、きゅっと小さく萎む。
(忙しいんだろう。
練習もあるし、新曲もやってるって言ってたし)
そう言い聞かせる。
頭では納得できる理由を並べる。
だが同時に、森は知っている。
本当に忙しいときの弓は、その忙しさをちゃんと口に出す。
「明日早いから今日はちょっとだけね」
「今日ライン返すの遅いかも」
「練習やばい、死ぬ」
そうやって、息継ぎするみたいに、自分の状態をぽんと投げてくる子だった。
(それが、ない)
説明のない沈黙が、少しずつ増えている。
それは、森にとって“違和感”という名前の重りになっていった。
◇
配信を見ているときも、その変化はじわじわと形を持ち始める。
画面の向こうの弓は、相変わらずよく笑う。
相変わらず、よくしゃべる。
「今日も来てくれてありがとう」
「リクエストどうしよっか」
「じゃあ次これ吹こうかな」
コメント欄も、それなりに流れている。
森の名前に反応する目のきらめきも、前と似ている。
似ている。
でも、同じではない。
(前は、俺のコメントが来た瞬間に、体ごと向いてた)
スマホ越しでもわかるくらい、顔がこちら側を向き、声のトーンが半歩上がっていた。
今は、他のコメントと同じ流れの中で、ふっと拾われていく。
ちゃんと読まれる。
ちゃんと笑ってくれる。
ただ、その“ちゃんと”が、均一になっている。
(……みんなと同じ、か)
それは、本来なら喜ぶべきことなのかもしれない。
森自身、何度もそう思おうとする。
(これが、正しいんだろ。
配信者とリスナーなんだから)
彼女が「特別扱い」をやめることは、配信にとっては健全なのかもしれない。
そう、自分に言い聞かせながらも、心は別の形で沈んでいく。
“正しさ”と“寂しさ”が、全然別の場所にあることを、肌で思い知らされる。
◇
違和感が確信に変わる瞬間は、いつも些細な出来事とセットでやってくる。
その夜も、そうだった。
配信の終盤、弓はいつものように締めの挨拶をしていた。
「じゃあ、今日はこのへんで終わろうかな」
「来てくれてありがとう」
「またね」
森は、いつものように最後にコメントを打つ。
「おつかれさま。今日もよかった」
それに続くように、何人かのリスナーが「おつ」「楽しかった」「また来るね」と流していく。
いつもなら、弓はそこで、森のコメントに一言、何か添えてくれていた。
「今日すごく褒めてくれた」
「森さんの一言でがんばれた」
「最後までいてくれてありがとう」
それが、その夜はなかった。
「みんな、ありがとう。
また来てね」
ふわっとしたまとめの言葉のまま、配信はふっと切れた。
スマホの画面が暗くなり、森の顔だけが、窓の黒に浮かび上がる。
(……ああ、これは)
胸の中で、何かの位置が、カチリと動いた。
違和感が、ひとつの線になって繋がる感覚。
(俺にだけじゃない。
全体の距離感を、変えようとしてるんだろうな)
そう理解した瞬間、同時にもう一つの確信も生まれてしまう。
(でも、俺には説明されていない)
◇
配信者としての彼女が、全体との距離を整えようとするのは分かる。
森は、そういう構造を理解するのが得意なほうだ。
仕事でも、人と組織の動きを俯瞰して見るのが癖になっている。
自分ひとりが“特別”として扱われ続けることが、枠全体の空気を歪めることも知っている。
(だから、俺を“他のみんなと同じ”に戻そうとしている)
そこまでは、頭で整理できる。
問題は、そのプロセスだ。
(……どうして、“何も言わない”んだろう)
あれほど、自分のことをぽんぽん口にしてきた子が。
「森さん、こうしようと思う」
「ちょっと距離感考えたくてさ」
その一言があれば、森はきっと、納得も協力もできた。
むしろ、彼女がそう決断できたことを誇らしく感じたかもしれない。
それなのに、弓は何も言わない。
ただ、少しずつ、静かにブレーキを踏んでいる。
返信の間隔。
通話の長さ。
配信中の目線。
そのすべてを、言葉ではなく“減らす”ことで示している。
(俺の想像に任せる、ってことか)
その“任せられた空白”が、森にとっては一番きつかった。
◇
夜、布団に入っても、スマホの画面を伏せることができない。
通知が鳴るたびに、心臓が跳ねる。
仕事関係のメールだったときの落差が、日に日に酷くなっていく。
(何やってるんだ、俺は)
自分でも呆れながら、スマホを裏返してはまた手に取る。
既読が付く前の灰色の吹き出しを見ながら、送るかどうか迷う時間が長くなる。
「今日、どうだった?」
その一文すら、重く感じる。
彼女にプレッシャーをかけてしまうんじゃないか。
負担になるんじゃないか。
既婚者の自分が、そこまで踏み込んでいいのか。
そうやって、一文の重さを過剰に測り続けるうちに、森の指は、画面の上を行ったり来たりするだけで止まってしまう。
(前はもっと、気楽だった)
「おつかれ」
「眠い」
「今日のあの曲、よかった」
軽口のように投げていた言葉が、今は喉の奥で固まって出てこない。
(あっちが距離を測ってるんだろうな)
(だったら、俺も……大人にならないといけない)
そう考える一方で、胸の中では別の声が泣き叫んでいる。
(理由くらい、教えてくれてもよくないか)
(俺、そんなに“言う価値もない相手”だったか?)
言葉にはしない。
言葉にしてしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がして。
だから、森は黙ったまま、内側でだけ問い続ける。
◇
ある夜、ようやく通話が繋がった。
久しぶりに聞く、少し眠そうな声。
「もしもし」
「……起きてたんだ」
たったそれだけのやり取りなのに、喉がきゅっと閉まる。
「起きてるよ。
弓は?」
「うん。
ちょっと楽器触ってただけ」
いつもの、なんでもない会話。
なのに、声の奥に、薄い膜のようなものを感じる。
こちらに向かって来きりきっていない、半歩引いた温度。
(ああ、やっぱり……)
“違和感”は、もう疑いようのない“確信”になっていた。
弓は、距離を置こうとしている。
森だけでなく、全体と。
その中心にあるのは、おそらく“配信者としての自分”への意識だ。
森はそう推測する。
(でも、そのプロセスで、俺との関係だけが
一回、宙ぶらりんになっている)
自分の感情のやり場が、どこにもない。
あの頃みたいに、ただ応援していればよかった状態には戻れない。
かといって、踏み込んで「嫌だ」と言う資格も、自分にはない。
妻がいる。
過去に、一度その信頼を踏みにじっている。
だからこそ、今回は絶対に線を越えないと決めていた。
その“正しさ”が、今はただ、自分の首を締める縄のようだった。
◇
「最近、どう?」
思い切って森がそう聞くと、弓は少しだけ間を置いてから答えた。
「んー……
わかんない」
その“わかんない”が、本当に“わかんない”のだと、森はすぐに理解した。
考えてないのではなく、考えても形にならない状態。
感情だけが先に動いて、自分でも処理しきれていない様子。
(この子は、昔からそうなんだろうな)
自分のことになると、途端に鈍くなる。
反面、他人の空気はよく読む。
配信のコメント欄に流れる小さなニュアンスにも、ちゃんと気づいている。
だけど、それを“自分にどう関係するか”まで落とし込むのが苦手だ。
だから、無意識にブレーキを踏む。
無意識に距離を取る。
(俺が、怖くなったんだろうな)
その結論に辿りついたとき、森の胸の奥で、じわりと熱いものが広がった。
ショックと、納得と、諦めと、悔しさと。
いくつもの感情が折り重なって、形にならない塊になる。
「……そっか」
それだけを絞り出す。
本当は、もっと言いたいことがあった。
「俺の何が怖い?」
「どうして、説明してくれない?」
「配信者としての距離感の話なら、一緒に考えさせてほしい」
そのどれも、喉元まで来て、そこで止まる。
(言ったら、終わる)
直感的に、森はそう感じていた。
彼女は、自分の重さに耐えられない。
それは、これまでの会話や、弓の生い立ちの話からも、うすうす分かっている。
だからこそ、森は自分の重さを封じていた。
優しく、軽く、頼れる大人として振る舞うことで、均衡を保とうとしていた。
(……でも、その均衡は、もう保てていない)
自分の内側は、すでに傾いている。
◇
違和感が“確信”に変わった夜、森はようやく、ある決意に近づいていく。
このまま、中途半端な距離で揺れ続けるのは、もう無理だ。
配信に行けば、彼女の笑顔に揺れる。
行かなければ、彼女の不在に揺れる。
どちらにしても、心は揺さぶられ続ける。
その揺れが、いつまで続くのか分からないことのほうが、森には怖かった。
(終わることが怖いんじゃない。
終わったあとを生きる時間のほうが、怖い)
それでも、決断を先送りにし続ければ、傷はじわじわ深くなる。
弓の中で、自分が“ただの一リスナー”に戻っていくのを眺め続けることになる。
それに耐えられるほど、森は器用ではなかった。
(ちゃんと会って、話すしかない)
画面越しの言葉ではなく。
メッセージの文字でもなく。
直接、目を見て。
彼女の呼吸の速さと、視線の揺れと、間の長さを感じながら。
それで、彼女がどうしたいのかを、自分の耳で聞くしかない。
たとえその答えが、自分にとって残酷なものであっても。
それを聞かないまま揺れ続けるよりは、ずっとマシだと思った。
(ここで決めないと、ずっと引きずる)
自分のそういう性格も、森はよく知っている。
ゼロか百か。
いったん心が本気になってしまうと、中途半端な位置を保てない。
だからこそ、心を開くことを避けて生きてきた。
なのに、気づけば、彼女にだけは、ほとんど全部を見せてしまっている。
(もう遅いけどな)
苦笑いが、夜の部屋に静かに落ちる。
スマホの画面を開く。
通話履歴に残る弓の名前を、しばらく見つめる。
指が、その上をなぞって止まる。
電話をかけるのではなく、メッセージの画面を開く。
「今度、会って話せないか」
そう打ち込んで、何度も読み返す。
重すぎるかもしれない。
でも、これ以上軽くすることは、森にはできなかった。
送信ボタンを押す。
指先が、小さく震える。
灰色の吹き出しが、数秒後に“既読”に変わる。
時間にしては短いはずなのに、森には、ひどく長い沈黙に感じられた。
数十秒後、弓から一言だけ返ってくる。
「……うん」
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。
それは、始まりの合図なのか。
それとも、終わりに向かう音なのか。
まだ分からない。
ただひとつ確かなのは、ここから先は、もう“違和感”の段階ではないということだけだった。




