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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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29/62

Part29 違和感のまま確証


《森視点》


弓と話す時間が、目に見えて減ってきた。


そう気づいたのは、ある夜、ふと画面の時計を見たときだった。


いつもなら、配信が終わってから一時間、長いときは二時間、他愛もない通話で埋まっていたはずの時間帯。


今日は、二十分で切れた。


「そろそろ寝なきゃ」


弓がそう言ったとき、森は反射的に「だね」と返していた。


ほんの少し、声が遅れた気がした。


(あれ、俺……今、なんて言いたかったんだっけ)


通話が切れたあと、暗くなったスマホの画面を見つめながら、指先にわずかな痺れが残っているのを感じる。


まだ話したかった。


でも、“まだ話したい”と言えなかった。


それは、言ってはいけない言葉のように思えたからだ。


既婚者の自分が、若い彼女にそれを言うのは、どこか踏み越えてはいけない線を越える気がした。


(あっちは、ブレーキを踏んでくれてるのかもしれない)


そう思おうとする。


理屈では、そう整理する。


だけど、胸の奥では、別の声がしている。


(……それだけ、なのか?)



違和感の最初の一歩は、たいてい、とても小さい。


弓からの返信の遅さに気づいたのも、そんな些細な変化だった。


前なら、森が送ったメッセージに対して、数分以内にスタンプか一言が返ってきた。


「今から配信準備するー」


「今日はこれ吹こうかな」


「森さん起きてる?」


その軽さが、森にとっては空気みたいなものだった。


意識して吸ってはいないけれど、そこにあることが当たり前になっていた。


それが、ここ数日は一時間、二時間、ひどいときには半日ほど空く。


こちらからのメッセージは既読になる。


でも、返事は来ない。


仕事の合間にちらりとスマホを確認しては、そこに何も増えていないのを見て、胸の中のどこかが、きゅっと小さく萎む。


(忙しいんだろう。

 練習もあるし、新曲もやってるって言ってたし)


そう言い聞かせる。


頭では納得できる理由を並べる。


だが同時に、森は知っている。


本当に忙しいときの弓は、その忙しさをちゃんと口に出す。


「明日早いから今日はちょっとだけね」


「今日ライン返すの遅いかも」


「練習やばい、死ぬ」


そうやって、息継ぎするみたいに、自分の状態をぽんと投げてくる子だった。


(それが、ない)


説明のない沈黙が、少しずつ増えている。


それは、森にとって“違和感”という名前の重りになっていった。



配信を見ているときも、その変化はじわじわと形を持ち始める。


画面の向こうの弓は、相変わらずよく笑う。


相変わらず、よくしゃべる。


「今日も来てくれてありがとう」


「リクエストどうしよっか」


「じゃあ次これ吹こうかな」


コメント欄も、それなりに流れている。


森の名前に反応する目のきらめきも、前と似ている。


似ている。


でも、同じではない。


(前は、俺のコメントが来た瞬間に、体ごと向いてた)


スマホ越しでもわかるくらい、顔がこちら側を向き、声のトーンが半歩上がっていた。


今は、他のコメントと同じ流れの中で、ふっと拾われていく。


ちゃんと読まれる。


ちゃんと笑ってくれる。


ただ、その“ちゃんと”が、均一になっている。


(……みんなと同じ、か)


それは、本来なら喜ぶべきことなのかもしれない。


森自身、何度もそう思おうとする。


(これが、正しいんだろ。

 配信者とリスナーなんだから)


彼女が「特別扱い」をやめることは、配信にとっては健全なのかもしれない。


そう、自分に言い聞かせながらも、心は別の形で沈んでいく。


“正しさ”と“寂しさ”が、全然別の場所にあることを、肌で思い知らされる。



違和感が確信に変わる瞬間は、いつも些細な出来事とセットでやってくる。


その夜も、そうだった。


配信の終盤、弓はいつものように締めの挨拶をしていた。


「じゃあ、今日はこのへんで終わろうかな」


「来てくれてありがとう」


「またね」


森は、いつものように最後にコメントを打つ。


「おつかれさま。今日もよかった」


それに続くように、何人かのリスナーが「おつ」「楽しかった」「また来るね」と流していく。


いつもなら、弓はそこで、森のコメントに一言、何か添えてくれていた。


「今日すごく褒めてくれた」


「森さんの一言でがんばれた」


「最後までいてくれてありがとう」


それが、その夜はなかった。


「みんな、ありがとう。

 また来てね」


ふわっとしたまとめの言葉のまま、配信はふっと切れた。


スマホの画面が暗くなり、森の顔だけが、窓の黒に浮かび上がる。


(……ああ、これは)


胸の中で、何かの位置が、カチリと動いた。


違和感が、ひとつの線になって繋がる感覚。


(俺にだけじゃない。

 全体の距離感を、変えようとしてるんだろうな)


そう理解した瞬間、同時にもう一つの確信も生まれてしまう。


(でも、俺には説明されていない)



配信者としての彼女が、全体との距離を整えようとするのは分かる。


森は、そういう構造を理解するのが得意なほうだ。


仕事でも、人と組織の動きを俯瞰して見るのが癖になっている。


自分ひとりが“特別”として扱われ続けることが、枠全体の空気を歪めることも知っている。


(だから、俺を“他のみんなと同じ”に戻そうとしている)


そこまでは、頭で整理できる。


問題は、そのプロセスだ。


(……どうして、“何も言わない”んだろう)


あれほど、自分のことをぽんぽん口にしてきた子が。


「森さん、こうしようと思う」


「ちょっと距離感考えたくてさ」


その一言があれば、森はきっと、納得も協力もできた。


むしろ、彼女がそう決断できたことを誇らしく感じたかもしれない。


それなのに、弓は何も言わない。


ただ、少しずつ、静かにブレーキを踏んでいる。


返信の間隔。


通話の長さ。


配信中の目線。


そのすべてを、言葉ではなく“減らす”ことで示している。


(俺の想像に任せる、ってことか)


その“任せられた空白”が、森にとっては一番きつかった。



夜、布団に入っても、スマホの画面を伏せることができない。


通知が鳴るたびに、心臓が跳ねる。


仕事関係のメールだったときの落差が、日に日に酷くなっていく。


(何やってるんだ、俺は)


自分でも呆れながら、スマホを裏返してはまた手に取る。


既読が付く前の灰色の吹き出しを見ながら、送るかどうか迷う時間が長くなる。


「今日、どうだった?」


その一文すら、重く感じる。


彼女にプレッシャーをかけてしまうんじゃないか。


負担になるんじゃないか。


既婚者の自分が、そこまで踏み込んでいいのか。


そうやって、一文の重さを過剰に測り続けるうちに、森の指は、画面の上を行ったり来たりするだけで止まってしまう。


(前はもっと、気楽だった)


「おつかれ」


「眠い」


「今日のあの曲、よかった」


軽口のように投げていた言葉が、今は喉の奥で固まって出てこない。


(あっちが距離を測ってるんだろうな)


(だったら、俺も……大人にならないといけない)


そう考える一方で、胸の中では別の声が泣き叫んでいる。


(理由くらい、教えてくれてもよくないか)


(俺、そんなに“言う価値もない相手”だったか?)


言葉にはしない。


言葉にしてしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がして。


だから、森は黙ったまま、内側でだけ問い続ける。



ある夜、ようやく通話が繋がった。


久しぶりに聞く、少し眠そうな声。


「もしもし」


「……起きてたんだ」


たったそれだけのやり取りなのに、喉がきゅっと閉まる。


「起きてるよ。

 弓は?」


「うん。

 ちょっと楽器触ってただけ」


いつもの、なんでもない会話。


なのに、声の奥に、薄い膜のようなものを感じる。


こちらに向かって来きりきっていない、半歩引いた温度。


(ああ、やっぱり……)


“違和感”は、もう疑いようのない“確信”になっていた。


弓は、距離を置こうとしている。


森だけでなく、全体と。


その中心にあるのは、おそらく“配信者としての自分”への意識だ。


森はそう推測する。


(でも、そのプロセスで、俺との関係だけが

 一回、宙ぶらりんになっている)


自分の感情のやり場が、どこにもない。


あの頃みたいに、ただ応援していればよかった状態には戻れない。


かといって、踏み込んで「嫌だ」と言う資格も、自分にはない。


妻がいる。


過去に、一度その信頼を踏みにじっている。


だからこそ、今回は絶対に線を越えないと決めていた。


その“正しさ”が、今はただ、自分の首を締める縄のようだった。



「最近、どう?」


思い切って森がそう聞くと、弓は少しだけ間を置いてから答えた。


「んー……

 わかんない」


その“わかんない”が、本当に“わかんない”のだと、森はすぐに理解した。


考えてないのではなく、考えても形にならない状態。


感情だけが先に動いて、自分でも処理しきれていない様子。


(この子は、昔からそうなんだろうな)


自分のことになると、途端に鈍くなる。


反面、他人の空気はよく読む。


配信のコメント欄に流れる小さなニュアンスにも、ちゃんと気づいている。


だけど、それを“自分にどう関係するか”まで落とし込むのが苦手だ。


だから、無意識にブレーキを踏む。


無意識に距離を取る。


(俺が、怖くなったんだろうな)


その結論に辿りついたとき、森の胸の奥で、じわりと熱いものが広がった。


ショックと、納得と、諦めと、悔しさと。


いくつもの感情が折り重なって、形にならない塊になる。


「……そっか」


それだけを絞り出す。


本当は、もっと言いたいことがあった。


「俺の何が怖い?」


「どうして、説明してくれない?」


「配信者としての距離感の話なら、一緒に考えさせてほしい」


そのどれも、喉元まで来て、そこで止まる。


(言ったら、終わる)


直感的に、森はそう感じていた。


彼女は、自分の重さに耐えられない。


それは、これまでの会話や、弓の生い立ちの話からも、うすうす分かっている。


だからこそ、森は自分の重さを封じていた。


優しく、軽く、頼れる大人として振る舞うことで、均衡を保とうとしていた。


(……でも、その均衡は、もう保てていない)


自分の内側は、すでに傾いている。



違和感が“確信”に変わった夜、森はようやく、ある決意に近づいていく。


このまま、中途半端な距離で揺れ続けるのは、もう無理だ。


配信に行けば、彼女の笑顔に揺れる。


行かなければ、彼女の不在に揺れる。


どちらにしても、心は揺さぶられ続ける。


その揺れが、いつまで続くのか分からないことのほうが、森には怖かった。


(終わることが怖いんじゃない。

 終わったあとを生きる時間のほうが、怖い)


それでも、決断を先送りにし続ければ、傷はじわじわ深くなる。


弓の中で、自分が“ただの一リスナー”に戻っていくのを眺め続けることになる。


それに耐えられるほど、森は器用ではなかった。


(ちゃんと会って、話すしかない)


画面越しの言葉ではなく。


メッセージの文字でもなく。


直接、目を見て。


彼女の呼吸の速さと、視線の揺れと、間の長さを感じながら。


それで、彼女がどうしたいのかを、自分の耳で聞くしかない。


たとえその答えが、自分にとって残酷なものであっても。


それを聞かないまま揺れ続けるよりは、ずっとマシだと思った。


(ここで決めないと、ずっと引きずる)


自分のそういう性格も、森はよく知っている。


ゼロか百か。


いったん心が本気になってしまうと、中途半端な位置を保てない。


だからこそ、心を開くことを避けて生きてきた。


なのに、気づけば、彼女にだけは、ほとんど全部を見せてしまっている。


(もう遅いけどな)


苦笑いが、夜の部屋に静かに落ちる。


スマホの画面を開く。


通話履歴に残る弓の名前を、しばらく見つめる。


指が、その上をなぞって止まる。


電話をかけるのではなく、メッセージの画面を開く。


「今度、会って話せないか」


そう打ち込んで、何度も読み返す。


重すぎるかもしれない。


でも、これ以上軽くすることは、森にはできなかった。


送信ボタンを押す。


指先が、小さく震える。


灰色の吹き出しが、数秒後に“既読”に変わる。


時間にしては短いはずなのに、森には、ひどく長い沈黙に感じられた。


数十秒後、弓から一言だけ返ってくる。


「……うん」


その文字を見た瞬間、胸の奥で何かが静かに鳴った。


それは、始まりの合図なのか。


それとも、終わりに向かう音なのか。


まだ分からない。


ただひとつ確かなのは、ここから先は、もう“違和感”の段階ではないということだけだった。

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