Part25 剥がれる大人
【森視点】
スマホの画面が、真っ黒になった。
弓の寝顔を映していたビデオ通話が切れて、部屋の中が急に静かになる。
さっきまで、あんなに賑やかだったのに。
笑って。
拗ねて。
吹いて。
ふいに黙って。
そして、眠って。
「……はあ」
ソファの背にもたれたまま、ゆっくり息を吐く。
時計を見ると、もう朝に片足を突っ込んだ時間だ。
いつもなら、「またやっちゃったな」と軽く反省して、そのままシャワーを浴びて寝るところだ。
でも今日は、体が動かない。
まぶたの裏に、さっき画面越しに見ていた弓の寝顔が、何度も何度も浮かんでは消えていく。
髪が枕に広がって。
布団を胸まで引き上げて。
眠る直前まで、話しながら笑っていた口元が、まだ笑いの形のままで止まっている。
「ずるいなあ……」
思わず、口に出る。
本当は、ああいう顔を見せられる立場じゃない。
彼女はリスナーに囲まれたライバーで。
俺はその中の、古参のひとりでしかなくて。
しかも、既婚者だ。
本来なら一番、距離をとらなきゃいけない立場の人間だ。
なのに。
さっきのビデオ通話で、弓は言った。
「森さんの前だと、なんか、がんばらなくていいっていうか」
「うん」
「変な顔しても、なんか、平気」
「変な顔じゃなかったよ」
「えー、絶対してたもん」
「大丈夫。
変な顔でも、ちゃんと見てるから」
「それ励ましになってます?」
そのあと、ふふっと笑って、少しだけ真面目な声になった。
「ありがとね」
その一言が、胸にずっと残っている。
ありがとう。
この言葉を、俺はきっと、求めすぎている。
◇
テーブルの上に置きっぱなしの、昔の手帳を見る。
ページの端に、雑な字で書き殴ったメモが目に入る。
「二度と、同じことはしない」
あのとき。
俺は一度、間違えた。
部下と飲みに行って、そのまま、なしくずしに一線を越えた。
若かったとか、寂しかったとか、いくらでも言い訳はできる。
でも、事実はひとつだけだ。
“妻を傷つけた”
あのときの、家の中の空気を、俺は一生忘れないと思う。
何も言わずに泣く姿も。
「大丈夫」と、逆に気を遣おうとしてくるところも。
それを見て、「もう二度とやらない」と思った。
思ったし、決めた。
だから、配信を見始めたときも、注意深く線を引いていた。
画面の向こう。
音楽。
コメント。
安全圏。
そう思っていた。
現実じゃない。
触れられない。
会わない。
そのはずだった。
なのに、今この瞬間。
スマホの画面が消えた部屋で、眠る弓の姿を想像しながら、俺は胸のどこかをぎゅっと掴まれている。
「……俺は、何やってんだろうな」
自分に問いかける。
答えは、ちゃんとわかっている。
好きだ。
それも、ただのファンとしてじゃない。
“人として”も、“女として”も。
全部、惹かれている。
でも、その言葉を、自分の中でちゃんと認めるのが怖い。
一度認めてしまえば、ブレーキが利かなくなることを、知っているからだ。
◇
枕元に置いたスマホが鳴った気がして、反射的に手を伸ばす。
画面は真っ暗なまま。
通知も何も来ていない。
「……幻聴か」
笑ってみせるけど、笑えない。
さっきまで、彼女がそこにいた感覚が残りすぎている。
ビデオ通話の最後。
もう眠そうな声で、弓は言っていた。
「森さんさ」
「ん」
「奥さんと、別れようとかって、思わないの?」
一瞬、時間が止まった。
心臓が、変な打ち方をした。
「……どういう意味?」
できるだけ、穏やかな声で聞き返したつもりだった。
でも、喉が少し、ひゅっと鳴ったのがわかった。
「うーん……」
弓は、少し考えるように黙って、それから、柔らかく笑った声になった。
「や、なんかさ。
こんなに話合う人とさ、出会うことって、あるんだなーって」
「……」
「森さんにとってはさ。
奥さんと出会ったときのほうが、もっとすごかったのかもしれないけど」
「弓さん」
「ごめんごめん。
なんかね、ふと思っちゃっただけ。
なんでもない」
なんでもなくない。
ぜんぜん、なんでもなくない。
でも、言えなかった。
「そんな簡単に別れるとか、言えないよ」
「だよね」
弓は、あっけらかんと笑った。
「だよねー。
ごめんね、変なこと言って」
「いや……」
「わたしさ」
少し、声が落ち着く。
「恋愛とか、よくわかんないのね。
これが“好き”ってやつなのか、“依存”ってやつなのか」
「……」
「でも、森さんと話してると、安心するのはホント」
「安心、ね」
「うん。
なんか、世界がやっと“ピタッ”ってハマる感じ」
それを聞いて、俺のほうこそ、世界がずれた。
安心しているのは、むしろこっちのほうだ。
配信で、しんどい一日が終わったときも。
現場でうまくいかない日も。
家庭で、言葉にできない居心地の悪さを抱えている夜も。
「森さん、起きてる?」
「まだいる?」
その一言で、なんども救われてきたのは、俺のほうだ。
だからこそ、「別れたら?」という一言が怖い。
あの言葉に、もし俺が本気で揺らいだら。
たぶん、全部壊す。
家庭も。
彼女の配信も。
彼女の人生も。
それを知っているから、必死に理性を前に押し出している。
それでも。
弓が眠る直前。
小さな声で、こう言った。
「でもね。
ちゃんとわかってるから」
「何を」
「森さんは、奥さんが大事ってこと」
「……」
「だから、これ、恋愛じゃないってことも」
「そうか」
「うん。
でも、“好き”っていう気持ちと、“依存”っていう気持ちってさ」
少し笑って続ける。
「似てるよね」
その言葉が、耳の奥に残ったまま、弓は眠りに落ちた。
◇
ソファからゆっくり立ち上がって、カーテンの隙間を少しだけ開く。
外は、夜と朝の境目みたいな薄い色をしている。
まだ暗いけれど、完全な夜でもない。
俺の今の状態みたいだ。
踏み越えていない。
でも、戻り切れてもいない。
「……大人になり損ねたな」
自分でも、よくわからない独り言が漏れる。
俺はずっと、大人の役をやってきた。
部長として。
夫として。
父として。
“頼られる側”の顔を、外側に貼り付けて、なんとかバランスをとってきた。
でも今は。
スマホ一台で、簡単に崩れていく。
寝顔を見て。
笑い声を思い出して。
彼女の「起きてる?」というメッセージひとつで、心が上下する。
それは、大人より、ずっと子供じみている。
でも、嫌じゃない。
むしろ、心地いい。
その心地よさがいちばん危険だということも、よくわかっているのに。
◇
テーブルの上の手帳を、裏返す。
「二度と、同じことはしない」
その文字の上に、新しい言葉を、心の中で上書きする。
“二度と、同じやり方ではしない”
同じことはしない。
だけど、同じくらい、いやそれ以上に誰かを大事に思うことまで、やめられるわけじゃない。
「……どこまでなら、許されるんだろうな」
つぶやいて、自分で苦笑する。
そんな線引きが、本当は存在しないことくらい、知っている。
少しだけ眠ろうと思って、照明を落とす。
部屋が暗くなると、さっきまで聞こえていた弓の寝息が、また耳の奥で蘇る。
「おやすみ、弓さん」
もう通話は繋がっていないのに、そう呟いてしまう自分に、苦笑しながら目を閉じた。
“ここからだ”
ぼんやりとした意識のなかで思う。
ここから、俺は少しずつ、余裕を失っていく。
理屈より、気持ちが先に動くようになってしまう。
それがどれだけ危ないか、わかっているのに。
それでも、もう、止まれそうにない。




