Part23 反省とは
【森視点】
会社の昼休み。
デスクのパーティションの陰で、スマホを縦にしたまま、昨夜のアーカイブを眺めていた。
再生時間のバーの下を、コメントが横に流れていく。
自分のアイコンと名前が、画面の下のほうを埋めているのがわかる。
「……やっぱり、多いな。」
つぶやいて、ため息をひとつ吐く。
チャット欄のスクロールを少し戻してみる。
弓さんの一曲目。
静かな、柔らかいイントロ。
それにかぶせるように、俺のコメントが続いている。
『この曲、今日いつもより息が長いですね』
『二回目のフレーズ、前よりすべるように聞こえます』
『ここのタンギング好きです』
褒めているつもりだった。
自分でも、そう信じていた。
でも、こうしてアーカイブを改めて見返すと、
その前後に、初めて見る名前のアカウントからのコメントが、ぽつんぽつんとある。
『イングランド音楽って初めて聴くかも』
『綺麗な音ですね』
『フルート好きなので来ました』
それに対して、弓さんもちゃんと返している。
「はじめまして、こんばんは。
イングランドの曲、好きなんです。
楽しんでいってください。」
新しい人に向かって、笑顔でそう言っている。
そこまではいい。
問題は、そのあとだ。
新しい人からのコメントが、二つ三つ続いたあと。
間が少し空く。
沈黙。
弓さんが、笑いながら言う。
「えーっと……。
なん話そう。」
その一言が、俺の背中を押す。
『今日も音、綺麗に出てますよ』
『そういえばあの山の話の続き、聞きたいです』
『最近、新曲の練習どうですか』
気がつくと、また俺のコメントで画面が埋まっていく。
新規のアカウントの文字列は、
そのあたりから、ぱたりと止まっていた。
「……これ、たぶん、居づらいよな。」
今さらながら、はっきりそう思う。
自分が逆の立場だったら、と想像する。
初めて入った配信で、すでに出来上がっている空気。
常連と配信者の、軽やかな掛け合い。
そこに、ぽつんと自分だけ。
「まあ、居づらいわな。」
苦笑しながら、スマホを伏せる。
それでも、
昨夜リアルタイムで見ていたときの自分を思い出すと、
やっぱり、あの沈黙を放っておけなかった。
画面の向こうで、
言葉を探して、目を泳がせる弓さん。
「んー……。
あ、そういえばさ……。」
そう言いながら、話題を探す瞬間。
その沈黙が続くのが怖かった。
彼女の配信が、ひとりきりの独白みたいになってしまうのが、なぜか、耐えられなかった。
「だからって、
コメント欄を個人チャットみたいにしていい理由にはならないんだけど。」
頭でわかっていることと、
指が動くタイミングは、なかなか一致してくれない。
昼休みのざわめきの中で、
自分の過去の失敗が、ふと、脳裏に浮かぶ。
——一度だけ、やらかしている。
——なにもかも、失いかけた。
あのときの、家の空気。
玄関の前で、靴も脱がずに、
ただ黙って座っていた妻の姿。
「覚悟は、してたよ。」
静かにそう言われた声。
その奥にあった感情を、
俺は、今でもうまく言葉にできない。
怒りとか、悲しみとか、そのどれかひとつじゃない。
「信頼って、こうやって壊れるんだな。」
その瞬間に、骨の髄まで叩き込まれた感覚だけが、
今でも生々しく残っている。
だからこそ、
二度と同じことはしない、と決めたはずだった。
配信にハマり始めたときも、
「画面の向こうだから安全だ」と自分に言い訳していた。
会うこともない。
触れることもない。
ただ音楽を楽しんで、コメントをして。
それくらいなら、
「浮気」とは呼ばれないはずだ、と。
「なのに、結局、会ってるんだよな。」
山で初めて会った日のことを思い出す。
弓さんが、木漏れ日の中で笛を吹いたあの一瞬。
音のほうが先に届いて、
そのあとで、木の陰から彼女の姿が現れた。
自然の中の音と人が、ぴったり重なったような光景。
あの場面は、どうやっても言い訳がきかない。
「行ったのは、俺だ。」
誰に頼まれたわけでもない。
画面の向こうで、「行ってみたい」と言っていたのは弓さんだけど、
実際に予定を調整して、車を出して、山に向かったのは俺だ。
そこで、彼女の生活の端っこに触れて、
米を買って、駅まで歩いて、
LINEを交換した。
「完全に、自分の意思で。」
あのとき、
もっとはっきり線を引くこともできたはずだ。
ファンとしての距離を守る方法はいくらでもあった。
口で「守る」と言いながら、
心のどこかで、
ほんとうは、守りたくなかった。
「……素直じゃないな。」
自分に対して苦笑する。
そうやって曖昧なまま、
ここまで来てしまった。
昼休みの時間が、そろそろ終わる。
スマホをポケットに戻しながら、
さっきまで弓さんとやり取りしていたトーク画面が頭に浮かぶ。
『今週末、泊まりの日ってあったりする?』
小さな吹き出しに収まった、その一行。
あれを読んだとき、胸の奥で何かが鳴った。
「これは、ちょっと危なすぎるな。」
理性はいちばん最初に、そう言った。
土曜の夜。
ホテル。
朝まで電話。
状況だけを切り取れば、
どう考えても、線を越えやすい条件がそろっている。
それなのに、指は、迷う前に動いていた。
『土曜の夜なら、たぶんホテルです。
その日、空けておきますね』
送信したあとで、自分の文章を読み返す。
「空けておきますね、って。」
彼女のために時間を空けると、
はっきり書いている。
「これ、完全に口実だよな。」
家だと大きな声が出せないから。
だからホテルのときなら、というのは、
言い訳として使っているだけだ。
ほんとうは、
ただ、彼女と話す時間がほしい。
画面越しでも、
声を聞いていたい。
彼女の、少し鼻にかかった声。
笑うときに、息がふっと抜ける音。
音楽の話をしているときの、
一気にテンションが上がる感じ。
その全部が、今の自分にとって、
気がつけば、なくてはならないものになっている。
「それが一番、まずいんだけど。」
だからこそ、危険なのだと、頭では理解している。
依存するのは、よくない。
そういう言葉は、散々部下に言ってきた。
若いころのスタッフに、
「一人のお客さんに依存しすぎるな」
「業績を誰か一人に握らせちゃいけない」
そうやって指導してきたくせに、
自分は今、
一人の配信者に、
一人の女性に、
心のかなりの部分を預けてしまい始めている。
「やっぱり、人間って都合いいな。」
肩をすくめる。
理性でわかっていることと、
感情が求めていることが、
まったく逆方向に進んでいく。
その真ん中に、
うすいガラスみたいなものが一枚立っている。
そのガラスが、
ひび割れそうになっているのを、
自分でも感じている。
「……それでも、切れって言われたら、切れるのか?」
自分に問う。
配信を見ない。
コメントをしない。
メッセージを返さない。
そうすれば、この関係はゆっくりと薄まっていく。
彼女は、きっと、別のリスナーと新しい空気を作っていく。
「それが、たぶん一番健全なんだろうな。」
わかっている。
でも、その未来を想像すると、
胸のどこかが、すとんと穴が開いたみたいになる。
仕事から帰った夜。
リビングに、テレビの光。
淡々と流れるニュース。
そこに自分の居場所もある。
守るべき生活。
積み上げてきたもの。
「どっちが本物とかじゃないんだよな。」
家庭の時間が嘘なわけじゃない。
それはそれで、間違いなく自分の人生の一部だ。
ただ、
画面の向こうで笛を吹く彼女と話しているときの自分は、
また別の自分だ。
仕事でも、家庭でも見せていない顔が、そこにはある。
「……二重生活、ってこういうことを言うのかな。」
苦笑しながら、
自分のメッセージ履歴をまた開く。
『その日、空けておきますね』
『朝までコースで』
「調子に乗りすぎじゃないか、俺。」
文字にした瞬間は、
少しでも彼女の不安を軽くしたかった。
本気で楽しみにしているよ、と伝えたかった。
それが、
彼女にどう届くか。
どれくらい、
彼女の中で期待値を上げてしまうのか。
そこまで想像が及んでいなかった。
「……こういうところだよな。」
過去に失敗したときも、そうだった。
自分の言葉が、
相手の心にどう刺さるか。
そこを読み間違えた。
そして、結果として、
誰も守れなかった。
「今回は、同じことはしない。」
それだけは、はっきり決めている。
どれだけ距離が近づいても、
どれだけ夜更かししても、
線は越えない。
越えさせない。
それが、自分に課したルールだ。
「だったら、
なおさら、言葉を選ばないとな。」
スマホのメモ帳を開く。
彼女に送るかもしれない言葉。
配信についてのフィードバック。
数字の話。
常連と新規のバランス。
書いては消し、
消しては書き直す。
ダメ出しにはしたくない。
でも、
現実から目をそらさせるような、
甘い言葉だけにもしたくない。
その間にある、細いラインを、
慎重に探る。
「君がやりたいようにやればいい、って言うのは簡単だけどさ。」
それは、ある意味、
責任の放棄でもある。
「でも、俺が『こうした方がいい』って言い切る権利もない。」
配信は、彼女の場所だ。
俺は、あくまで通りすがりのリスナー。
たまたま早くからそこに居ついてしまっただけの、客。
「その客が、
店のレイアウトに口出しするのも、
ちょっと違うよな。」
昔、部下にそう言ったことを思い出す。
「お客さんの意見は大事だけど、
全部を聞いてたら店が死ぬ。
最終的に決めるのは、自分たちだ。」
今度はそれを、自分に向けて言う番だ。
弓さんの配信の形を決めるのは、弓さんだ。
俺は、その隣で、
「こうも見えるよ」と鏡を差し出すことしかできない。
「……そのはず、なんだけど。」
彼女が、
「森さんがそう言うなら、そうする」
と笑って言う姿が、目に浮かぶ。
あの素直さが、愛おしくもあり、怖くもある。
俺の言葉が、
彼女の未来を狭めてしまうかもしれない。
その可能性を思うと、
簡単に何かを提案することが、
途端に重く感じられる。
「じゃあ、どうする。」
問いだけが、頭の中に残る。
答えはまだ出ない。
それでも、土曜の夜は近づいてくる。
ホテルの一室。
深夜の静けさ。
彼女の声。
彼女の息づかい。
その全部を、
また長い時間、
独占してしまうことになる。
「……本当に、朝まで話すつもりなのか。」
自分に問いかけてみる。
徹夜明けで仕事に行く自分の姿が、頭に浮かぶ。
疲れた顔。
でも、どこか満たされたような、自分勝手な表情。
それを想像して、
嫌悪と期待が同時に湧く。
「最低だな。」
そう思う。
それでも、
土曜の予定をキャンセルする、という選択肢は、
どうしても、
選べなかった。




