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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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22/62

Part22 沼



【弓視点】


昼の光って、なんか苦手だ。

まぶしくて、現実を見せつけてくるから。


カーテンのすきまから差し込む光を、枕でなんとなく隠しながら、スマホの画面だけを見ていた。


昨夜までの通話履歴。

森さんとの長い長い通話時間。


画面に残っているその数字が、夢じゃなかったことを教えてくれる。


でも、配信のアプリを立ち上げると、胸の奥がすこしざわつく。


昨夜のアーカイブ。

視聴者数のグラフ。

コメント欄のログ。


指先でスクロールしながら、あらためて数字を見てしまう。


……少ない。


思っていたより、ずっと少ない。


「……そっか。」


声に出してみると、よけいに現実味が増して、枕に顔を埋めたくなる。


私って、そんなに魅力ないのかな。

私の音って、そんなに軽いんだろうか。


胸のあたりが、ふわっと沈む。

水のなかにゆっくり沈んでいくみたいな、あの感じ。


でも、沈みきる前に、頭のどこかで言い訳もしている。


夜中だったし。

平日だったし。

イングランドの曲なんて、たぶんマニアックだし。


……そうやって、自分で自分にクッションを噛ませるのが、私の悪い癖だ。


スマホを胸に乗せたまま、天井を見上げる。


「人気出ないなぁ……。」


ぽつりとつぶやく。


配信に「人気」がすべてじゃないとわかっているつもりなのに、結局、そこを気にしてしまう。


だって、人気がないと、上には上がれない。

上に上がれないと、音楽だけで生きていくって、むずかしい。


「……どうしたら良かったんだろ。」


昨夜の配信を思い返す。


森さんがいてくれて。

コメントで支えてくれて。

私が話しやすいように、いっぱい話題をふってくれて。


あの時間は、すごく楽しかった。

心から、ありがたいって思った。


でも――アーカイブを見返すと、コメント欄の半分くらいが、森さんの名前で埋まっている。


「あ……。」


その画面を見た瞬間、心の中に、小さなトゲが刺さる。


私にとっては、あの時間は救いだった。

でも、他の人から見たらどうだったんだろう。


新しく来た人。

初見さん。

何も知らないひとが、あのコメント欄を見たら。


「入りづらかった、かな……。」


言葉にしてみると、トゲがすこし太くなる。


でも、すぐに、それをかき消す声が頭の中に浮かぶ。


——その場の沈黙って、つらいじゃないですか。

——だから、僕は話してるだけですよ。


前に森さんが言ってくれた言葉。


沈黙が苦手な私にとって、その言葉は、本当に救いだった。


「……そうだよね。」


森さんがいなかったら、あの沈黙を、私ひとりで耐えていたことになる。


画面の向こうで、誰もコメントしてくれないなか、ひたすら笛を吹き続ける。

あるいは、無理にしゃべり続ける。


それを想像しただけで、胃のあたりがきゅっとなる。


怖い。


「……森さん、いてくれてよかった。」


ぽろっと、本音がこぼれた。


そうやって自分をなだめながら、布団から出る。


まだ午後の早い時間だ。

少しだけ笛を触っておきたい。


机の上に置いたフルートケースを開ける。

ひんやりした銀色の管を取り出すと、指先で軽くなでた。


「……今日も吹こ。」


音は、嘘をつかない。


私がどんなコンディションでも、ちゃんと向き合えば、ちゃんと返してくれる。

それだけは信じられる。


そう思うと、すこし呼吸が整う気がした。


ロングトーン。

スケール。

イングランドの新しい曲のフレーズ。


窓を少しだけ開けると、遠くの車の音と、近くの木の葉のざわめきが、部屋の中にうすく混ざってくる。


その上に、私の音が重なっていく。


——ほんとうは。

——配信じゃなくても、この時間だけで満足してしまえるんじゃないか。


そんな弱音がふとよぎる。


でも、それを掴んでしまったら、この世界から降りることになる気がして、慌てて手を離す。


「やだやだ。

 わたし、まだ上行きたいもん。」


思わず口に出す。


音楽で生きていきたい。

私の音楽を好きだって言ってくれる人が、もっと欲しい。


そう思うからこそ、昨夜の数字が痛い。



夜になった。


いつものように、夜型モードになっていく体を感じながら、軽くシャワーを浴びる。


髪を乾かしながら、鏡を見る。


寝不足で、すこし目の下に影ができている。


でも、配信のフィルターをつければ、ごまかせる。

そう思うと、なんだか少し虚しくもなる。


パーカーを着て、いつもの椅子に座る。

ライトをつけて、マイクの位置を調整する。


そして、配信アプリを立ち上げる。


指が、「配信開始」のボタンの上で一瞬だけ止まる。


——今日も、数字悪かったらどうしよう。


胸の奥が、きゅっと縮む。


「……やるしかないし。」


自分に小さく言い聞かせて、ボタンをタップする。


画面に「配信開始」の文字が浮かび、すぐに自分の映像が映る。


「こんばんはー、弓です。」


いつもの挨拶。

声のテンションを、ほんの少しだけ上げる。


数秒のタイムラグのあと、画面の左下に、ぽつぽつとアイコンが増えていく。


見慣れた名前。

はじめて見る名前。


「今日も来てくれてありがとう。

 初めましての人も、よかったらゆっくりしていってください。」


そう言いながら、視線はコメント欄を追う。


『こんばんは』

『今日も聴きにきました』

『おつかれさまです』


いくつか挨拶が流れて、すぐにコメントが落ち着いていく。


「あ、今日もイングランドの曲を中心にやろうと思ってます。

 もしリクエストあったら言ってください。」


そう口では言いながらも、心のどこかで、ひとつの名前を探してしまう。


森。


スクロールしても、その名前はまだない。


「……」


ちょっとだけ、息が浅くなる。


——今日は来れない日なのかな。


——仕事かな。


そう自分に言い聞かせながら、最初の一曲に息を入れる。


低めの音から、ゆっくりと旋律をなぞっていく。


コメント欄は、しばらく静かになる。


視界の端で、流れない文字と、動かない数字だけが、じっとこちらを見ている気がする。


音に集中しよう。

そう思っても、心の半分は、画面の向こうを気にしている。


一曲吹き終わる。


「……ありがとうございました。」


言いながら、コメント欄を見る。


『拍手』のスタンプが、ふたつ。


「ありがとう。」


笑顔を作って、お礼を言う。


でも、そのあとが続かない。


誰も、次の話題をふってこない。


沈黙。


「えっと……今日は、ひさしぶりにこの曲もやってみようかな。」


無理やりつないで、次の曲に入る。


また、沈黙。


『きれい』

と、一言だけコメントが流れる。


それが嬉しいのに、なぜか足りない気がする。


「ありがとう。」


そう言いつつ、心の中では、別のことを考えてしまう。


——これ、ずっとひとりでしゃべり続けるの?


——ずっと、ひとりで間を持たせるの?


——私、そんな器用じゃない。


喉の奥が、すこしだけきゅっと締まる。


そのときだった。


コメント欄に、見慣れたアイコンと名前が、ぽん、と現れた。


『こんばんは。遅くなりました。

 今日も聴きにきました』


「……森さん。」


思わず、声に出ていた。


「こんばんは。

 今日もありがとう。」


自分でもわかるくらい、声がふわっと明るくなる。


胸の奥にたまっていた重さが、すこし軽くなる。


『今日も音、きれいですね』


モニターの向こうから、文字でそう言われるだけで、肩の力が抜けていく。


「ほんと?

 よかった。」


さっきまでの沈黙の時間が、なかったことみたいに思えてくる。


『さっきの曲、途中のフレーズが以前より柔らかい気がしました』


「あ、わかった?

 あそこ、ちょっと変えてみたんだよね。

 前より、息を多めに入れて、でも音程は落とさないようにして……」


そこから、森さんとの会話が続いていく。


気づけば、ほとんどが私と森さんのやりとりだ。


他の人がコメントをしてくれても、それに返したあと、自然と森さんの話題に戻ってしまう。


だって、森さんは、具体的に音のことを言ってくれる。

具体的に、私の変化を拾ってくれる。


「え、でもそこまで聴いてくれてるの、嬉しいな。

 あのね、実はさ――」


気づいたら、私は今日の練習のこと。

自分のちっちゃいこだわり。

最近ハマってるイングランドの曲の話。


それを、森さんに向かって、ぽんぽん投げていた。


コメント欄の流れは、ゆっくりになる。


新しく入ってきた名前が、一瞬だけ表示されて、すぐに消えていく。


それを視界の端で見ながらも、口は止まらない。


だって、今、私の話をちゃんと受け止めてくれている人がいるから。


「森さん、そういう言い方してくれるの、なんか、いいよね。」


配信中なのに、そんなことまで言ってしまう。


『そうですか?

 思ったこと言ってるだけですよ』


「それがさ、嬉しいの。」


笑うと、胸の奥に、あたたかいものがふわっと広がる。


甘い泡みたいな、それに触れている間だけ、全部どうでもよくなってしまいそうな感覚。


配信の時間は、あっという間に過ぎていった。


気づけば、予定していた時間を三十分もオーバーしている。


「そろそろ終わろっか。

 今日もありがとうございました。」


最後の挨拶をして、配信を切る。


画面がすっと暗くなる。


明かりだけが残った部屋で、ふ、と息を吐いた。


「……楽しかった。」


心からの本音だった。


さっきまでの沈黙の恐怖も、数字のショックも、全部どこかへ行ってしまったみたいだ。


でも、配信アプリの画面に戻ると、また現実が目に入る。


今日の最大同時視聴者数。

平均視聴者数。

コメント数。


「……うん。」


声に出しても、無表情な数字たちは何も変わらない。


さっきより、ちょっとだけマシ。

でも、思っていたほど伸びてはいない。


私の中で、さっきのあたたかさと、この数字が、変な具合に絡み合う。


楽しい。

でも、足りない。


満たされているようで、どこか空いている。


「わたし、どうしたらいいんだろ。」


椅子にもたれながら、天井を見上げる。


森さんがコメントしてくれると、私は安心する。

話しやすくなる。

沈黙が怖くなくなる。


でも、そのことで、新しい人が入りづらくなっているのかもしれない。


そんな気もする。


でも、どうすればいいのか、具体的なやり方がわからない。


「……森さんに聞こ。」


口からこぼれた言葉に、自分で苦笑する。


困ったときにまず浮かぶのが、もう、森さんになっている。


スマホを手に取る。


メッセージアプリを開いて、少しだけ迷ってから、一言だけ打ち込む。


『今日もありがとう。

 ちょっと相談したいことある』


送信ボタンを押すと同時に、心臓がどきんと跳ねる。


少し間をおいて、返信が返ってくる。


『おつかれさま。

 どうしました?』


その文字を見ただけで、さっきまでのモヤモヤが、すこしほどける。


『なんかさ。

 最近、配信の数字、伸びないなって思ってて』


『今日も、すごい楽しかったんだけど。

 なんか、新しい人、すぐいなくなっちゃう気がして』


送信してから、少しだけ後悔する。


こんなことまで相談していいのかな。

重くないかな。


でも、もう送ってしまった。


画面の下に、「入力中」のマークが点いたり消えたりする。


数十秒後、返ってきた。


『アーカイブ、あとで軽く見ますね』


『その上で、思ったこと話してもいいですか』


その一文だけで、胸の奥にぽっと灯りがともる。


「……優しいな。」


小さくつぶやいて、枕元にスマホを置く。


森さんがどう言ってくれるのか。

ちょっと怖くて、ちょっと楽しみで。


そんな気持ちを抱えたまま、私は電気を消した。


暗闇の中で、さっきの配信画面が、まぶたの裏にふわふわと浮かんでいる。


沈黙の時間。

森さんのコメント。

私の笑い声。


どれも、私の一部になりつつある。


それが良いことかどうかなんて、まだ考えられない。


ただ、今は、あの甘い泡に身を預けていたい。


そう思いながら、私はゆっくり目を閉じた。




翌日。


スマホを開くと、メッセージアプリのアイコンに「1」の数字がついていた。


トーク画面を開くと、森さんからの、少し長めのメッセージが届いていた。


『昨日の配信、おつかれさまでした。

 アーカイブ、ひと通り見ました。

 まず最初に言わせてください。

 昨日の音、すごく良かったです』


文字を追う指が、そこで一瞬止まる。


「……良かったんだ。」


声に出した途端、胸の奥がふわっとゆるむ。


続きが気になって、また指を動かす。


『とくに、二曲目と三曲目のつなぎのところ。

 前よりも、息の流れが自然で、音の色が滑らかになっていた気がします。

 あそこ、大好きでした』


「やっぱ、そこ気づいてくれてたんだ……。」


昨日、自分なりにこっそり意識して変えたところ。

誰も気づかなくても仕方ないや、って思っていた箇所。


それをピンポイントで拾われると、

恥ずかしいような、誇らしいような、不思議な気持ちになる。


『数字のところは、気になりますよね。

 弓さんが、ちゃんと真剣にやってる証拠だと思います』


「……うん。」


画面の文字に、静かに相づちを打つ。


『正直に言うと、

 コメント欄は、ちょっと「身内感」が強く見えたかもしれません。

 (とくに自分のコメントで埋まり気味だったので、そこは反省してます)』


「……あー。」


心の中で、ちくっと刺さる。


やっぱり、そう見えるのか。

身内感。


その言葉自体は、なんとなく前から薄々感じていた。


常連さんたちの名前。

森さんの名前。

そこにだけ、安心してしゃべっている自分。


『でも、あの空気が好きな人も、ちゃんといると思うんです。

 ああいう「安心して話せる場所」って、そう簡単には作れないので』


少し救われる。


「……そっか。」


数字の話と、空気の話。

どちらも否定しないで、そのまま見てくれている感じがする。


『新しい人が入りづらいとしたら、

 それは「悪いこと」だけじゃなくて、

 弓さんが、ちゃんと誰かと関係を築けてるってことでもあるので。

 そこは誇っていい部分でもあると思います』


「誇って……いいのかな。」


私の中で、「良くないかも」と思っていたところを、

まるごと否定するんじゃなくて、

べつの角度から照らしてくれている。


でも、そのあとに続く一文が、ちゃんと現実も教えてくる。


『ただ、

 「初見さんが居心地悪く感じる可能性がゼロではない」

 とは思いました』


「……ゼロではない、ね。」


言い方が、森さんらしい。


「ダメ」じゃなくて「ゼロではない」。

完全な否定じゃなくて、ちゃんと余白を残してくれる。


『たとえば、

 最初の数分だけは、

 「今日はじめての人」に向けてしゃべる時間にするとか。

 最初の一曲は、誰でも入りやすい曲にしてみるとか。

 そういう工夫の余地は、あるかもしれません』


提案が、具体的に並んでいく。


最初の数分。

入りやすい曲。

初見さんに向けた話。


「……たしかに。」


言われたことは、わかる。

頭では。


『でも、

 いちばん大事なのは、

 弓さんが「やりたい」と思う形だと思うので。

 無理に変えすぎて、

 弓さんらしさが薄まるのは、もったいないです』


そこを読んだ瞬間、胸の奥にあったちいさな緊張が、またゆるんだ。


「やりたい形……か。」


私の「やりたい」ってなんだろう。


イングランドの曲を吹きたい。

自分の好きな音を出したい。

自然のことをしゃべりたい。


そして。


森さんと、しゃべっていたい。


気づけば、その四つ目が、かなり大きな割合を占めつつあることに、

自分でもうすうす気づいている。


『僕としては、

 これからも、弓さんがやりたいようにやる配信を、

 端っこから見られたら嬉しいです。

 沈黙がつらいときは、また遠慮なく使ってください』


「……っ。」


「使ってください」という表現に、思わず笑ってしまう。


「なにそれ。

 便利アイテムみたいじゃん。」


でも、その言葉が、すごく楽にしてくれる。


「使っていいんだ」


そう思えると、一気に呼吸がしやすくなる。


同時に、またトゲも顔を出す。


——こんなふうに甘えさせてもらってて、いいのかな。


——また、わたし、誰かに寄りかかって生きようとしてるんじゃないかな。


心の中に、うっすら前の彼氏の影がよぎる。


彼氏に合わせて、

彼氏の気分をうかがって、

彼氏の顔色を見て。


なにもかも、相手中心で考えていた頃の自分。


「でも……森さんは、ちがう。」


ぽろっと、声に出る。


彼は、わたしを「直そう」としない。

「こうなるべきだ」と押しつけてこない。


「こういうふうにも見えるよ」と、ただ鏡みたいに見せてくれる。


その鏡に映る自分が、

思っていたよりもずっとマシに見えるから、

私はほっとするのだ。


「……返信しよ。」


スマホを手に持ち直して、文字を打つ。


『こんなにちゃんと見てくれてありがとう』


一度消して、もう一度打ち直す。


『アーカイブ、そんなに見てくれたんだね。

 うれしい。

 ちょっと刺さるとこもあったけど、

 ちゃんと考えてみる』


すぐに「送信」を押すのが、なんとなく恥ずかしくて、数秒ためらう。


でも、考えすぎるとまた全部消したくなるから、思いきって押した。


メッセージが送信される。


数分後。

すこしだけ間をあけて、森さんから返事が来た。


『刺さりましたか。

 ごめんなさい。

 言い方きつくなってたら、すみません』


「優しすぎない?」


ひとりごとが出る。


『ぜんぜんきつくないよ。

 わたし、自分で言えなかったことだから。

 言ってくれてよかった』


そう返してから、少しだけ指を止める。


迷って、でもやっぱり打つ。


『ねえ。

 今度、配信のない日に、また電話してもいい?』


送る瞬間、胸がきゅっと締まる。


——重いって思われないかな。


——迷惑かな。


——調子乗ってると思われたらどうしよう。


いろんな不安が一気に押し寄せてきて、送信したあと、スマホを布団の上にポイっと投げてしまう。


数十秒。


一分。


「……来ないかな。」


自分で見にいくのが怖い。


でも、気になって、結局スマホを手に取る。


トーク画面を開くと、新しいメッセージが届いていた。


『いいですよ。

 日によりますが、

 家だと声が小さくなるので、

 外にいる日とか、泊まりの日とかなら、ゆっくり話せます』


それを読んで、胸の奥がじわっとあたたかくなる。


家だと声が小さくなる——その一文の裏側を、私はあえて深く読み取らない。


奥さんがいること。

家庭があること。

そこに、私が入り込んではいけないこと。


それは、ちゃんとわかっているつもりだ。


「じゃあ……。」


画面に向かって、そっと打つ。


『今週末、泊まりの日ってあったりする?』


送信。


少しの沈黙。


そして。


『土曜の夜なら、たぶんホテルです。

 その日、空けておきますね』


一文の最後にある「ね」が、妙にやさしく見える。


「空けておきますね、って……。」


思わず、頬が緩む。


私のために、時間を空ける。

そうはっきり書かれると、

心のどこかで、なにかがとろけていく。


「……楽しみにしてよ。」


ふふ、と笑いながら打つ。


『じゃあ、その日、

 朝までコースで』


『体力がもてばですが(笑)』


森さんからの返事にも(笑)がついていて、

その軽さが、逆に安心する。


「朝までコースかぁ。」


声に出すと、ますます現実味が増す。


前に一度、朝まで電話したときのことを思い出す。


気づけば太陽が出ていて、

窓の外が白んでいって、

どっちも眠いのに、切れなかった。


あの時間が、単純に、楽しかった。


「今度は、どんな話しよう。」


新しいイングランドの曲のこと。

最近ハマっている笛のフレーズ。

配信の細かい話。


それから——


「……わたしのこと、もっと知ってほしいな。」


ぽつりと、口から出てしまう。


音楽の話だけじゃなくて、

面倒くさがりなところ。

掃除が苦手なところ。

朝が弱いところ。


そういう、格好よくない部分も含めて、

森さんに知ってもらいたいと思っている自分に気づく。


「やば。」


顔を両手で覆う。


——それってもう、けっこう危ないんじゃない?


——奥さんいる人に、それはどうなの。


頭のどこかで、冷静な自分がそうつぶやく。


でも、心の真ん中は、ぜんぜん聞く耳を持たない。


「だって……。」


森さんは、私の音を好きだと言ってくれる。

私の演奏の、細かい変化に気づいてくれる。


「今まで、そんなふうに言ってくれた人、いなかったもん。」


それは、恋とかじゃなくて——と、自分に言い聞かせる。


尊敬、とか。

信頼、とか。

音楽仲間、みたいな。


そういう名前を必死に探して、そのラベルを上から貼り付ける。


“これは恋じゃない。

 これはそういうやつじゃない。”


何度も自分にそう言い聞かせて、かろうじてバランスを保っている感じがする。


スマホを机に置いて、フルートを手に取る。


次の配信で吹きたい曲を、ひとつ決めたい。


森さんが「昨日の二、三曲目が良かった」と言ってくれたから、

またその流れをベースにしたセットリストを組もうと思う。


頭の中で、森さんの文字の声と、

昨夜の配信画面と、

未来の電話の約束が、ぐるぐると回る。


数字のこと。

新規の人がすぐいなくなること。


もちろん、それは気になる。


でも今は、それよりも。


「土曜、たのしみだな。」


その一言のほうが、ずっとはっきりと胸の中に響いていた。


その響きが、あとできっと自分を苦しめることになるなんて。


このときの私は、まだ、ぜんぜん知らなかった。

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