Part22 沼
【弓視点】
昼の光って、なんか苦手だ。
まぶしくて、現実を見せつけてくるから。
カーテンのすきまから差し込む光を、枕でなんとなく隠しながら、スマホの画面だけを見ていた。
昨夜までの通話履歴。
森さんとの長い長い通話時間。
画面に残っているその数字が、夢じゃなかったことを教えてくれる。
でも、配信のアプリを立ち上げると、胸の奥がすこしざわつく。
昨夜のアーカイブ。
視聴者数のグラフ。
コメント欄のログ。
指先でスクロールしながら、あらためて数字を見てしまう。
……少ない。
思っていたより、ずっと少ない。
「……そっか。」
声に出してみると、よけいに現実味が増して、枕に顔を埋めたくなる。
私って、そんなに魅力ないのかな。
私の音って、そんなに軽いんだろうか。
胸のあたりが、ふわっと沈む。
水のなかにゆっくり沈んでいくみたいな、あの感じ。
でも、沈みきる前に、頭のどこかで言い訳もしている。
夜中だったし。
平日だったし。
イングランドの曲なんて、たぶんマニアックだし。
……そうやって、自分で自分にクッションを噛ませるのが、私の悪い癖だ。
スマホを胸に乗せたまま、天井を見上げる。
「人気出ないなぁ……。」
ぽつりとつぶやく。
配信に「人気」がすべてじゃないとわかっているつもりなのに、結局、そこを気にしてしまう。
だって、人気がないと、上には上がれない。
上に上がれないと、音楽だけで生きていくって、むずかしい。
「……どうしたら良かったんだろ。」
昨夜の配信を思い返す。
森さんがいてくれて。
コメントで支えてくれて。
私が話しやすいように、いっぱい話題をふってくれて。
あの時間は、すごく楽しかった。
心から、ありがたいって思った。
でも――アーカイブを見返すと、コメント欄の半分くらいが、森さんの名前で埋まっている。
「あ……。」
その画面を見た瞬間、心の中に、小さなトゲが刺さる。
私にとっては、あの時間は救いだった。
でも、他の人から見たらどうだったんだろう。
新しく来た人。
初見さん。
何も知らないひとが、あのコメント欄を見たら。
「入りづらかった、かな……。」
言葉にしてみると、トゲがすこし太くなる。
でも、すぐに、それをかき消す声が頭の中に浮かぶ。
——その場の沈黙って、つらいじゃないですか。
——だから、僕は話してるだけですよ。
前に森さんが言ってくれた言葉。
沈黙が苦手な私にとって、その言葉は、本当に救いだった。
「……そうだよね。」
森さんがいなかったら、あの沈黙を、私ひとりで耐えていたことになる。
画面の向こうで、誰もコメントしてくれないなか、ひたすら笛を吹き続ける。
あるいは、無理にしゃべり続ける。
それを想像しただけで、胃のあたりがきゅっとなる。
怖い。
「……森さん、いてくれてよかった。」
ぽろっと、本音がこぼれた。
そうやって自分をなだめながら、布団から出る。
まだ午後の早い時間だ。
少しだけ笛を触っておきたい。
机の上に置いたフルートケースを開ける。
ひんやりした銀色の管を取り出すと、指先で軽くなでた。
「……今日も吹こ。」
音は、嘘をつかない。
私がどんなコンディションでも、ちゃんと向き合えば、ちゃんと返してくれる。
それだけは信じられる。
そう思うと、すこし呼吸が整う気がした。
ロングトーン。
スケール。
イングランドの新しい曲のフレーズ。
窓を少しだけ開けると、遠くの車の音と、近くの木の葉のざわめきが、部屋の中にうすく混ざってくる。
その上に、私の音が重なっていく。
——ほんとうは。
——配信じゃなくても、この時間だけで満足してしまえるんじゃないか。
そんな弱音がふとよぎる。
でも、それを掴んでしまったら、この世界から降りることになる気がして、慌てて手を離す。
「やだやだ。
わたし、まだ上行きたいもん。」
思わず口に出す。
音楽で生きていきたい。
私の音楽を好きだって言ってくれる人が、もっと欲しい。
そう思うからこそ、昨夜の数字が痛い。
⸻
夜になった。
いつものように、夜型モードになっていく体を感じながら、軽くシャワーを浴びる。
髪を乾かしながら、鏡を見る。
寝不足で、すこし目の下に影ができている。
でも、配信のフィルターをつければ、ごまかせる。
そう思うと、なんだか少し虚しくもなる。
パーカーを着て、いつもの椅子に座る。
ライトをつけて、マイクの位置を調整する。
そして、配信アプリを立ち上げる。
指が、「配信開始」のボタンの上で一瞬だけ止まる。
——今日も、数字悪かったらどうしよう。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「……やるしかないし。」
自分に小さく言い聞かせて、ボタンをタップする。
画面に「配信開始」の文字が浮かび、すぐに自分の映像が映る。
「こんばんはー、弓です。」
いつもの挨拶。
声のテンションを、ほんの少しだけ上げる。
数秒のタイムラグのあと、画面の左下に、ぽつぽつとアイコンが増えていく。
見慣れた名前。
はじめて見る名前。
「今日も来てくれてありがとう。
初めましての人も、よかったらゆっくりしていってください。」
そう言いながら、視線はコメント欄を追う。
『こんばんは』
『今日も聴きにきました』
『おつかれさまです』
いくつか挨拶が流れて、すぐにコメントが落ち着いていく。
「あ、今日もイングランドの曲を中心にやろうと思ってます。
もしリクエストあったら言ってください。」
そう口では言いながらも、心のどこかで、ひとつの名前を探してしまう。
森。
スクロールしても、その名前はまだない。
「……」
ちょっとだけ、息が浅くなる。
——今日は来れない日なのかな。
——仕事かな。
そう自分に言い聞かせながら、最初の一曲に息を入れる。
低めの音から、ゆっくりと旋律をなぞっていく。
コメント欄は、しばらく静かになる。
視界の端で、流れない文字と、動かない数字だけが、じっとこちらを見ている気がする。
音に集中しよう。
そう思っても、心の半分は、画面の向こうを気にしている。
一曲吹き終わる。
「……ありがとうございました。」
言いながら、コメント欄を見る。
『拍手』のスタンプが、ふたつ。
「ありがとう。」
笑顔を作って、お礼を言う。
でも、そのあとが続かない。
誰も、次の話題をふってこない。
沈黙。
「えっと……今日は、ひさしぶりにこの曲もやってみようかな。」
無理やりつないで、次の曲に入る。
また、沈黙。
『きれい』
と、一言だけコメントが流れる。
それが嬉しいのに、なぜか足りない気がする。
「ありがとう。」
そう言いつつ、心の中では、別のことを考えてしまう。
——これ、ずっとひとりでしゃべり続けるの?
——ずっと、ひとりで間を持たせるの?
——私、そんな器用じゃない。
喉の奥が、すこしだけきゅっと締まる。
そのときだった。
コメント欄に、見慣れたアイコンと名前が、ぽん、と現れた。
『こんばんは。遅くなりました。
今日も聴きにきました』
「……森さん。」
思わず、声に出ていた。
「こんばんは。
今日もありがとう。」
自分でもわかるくらい、声がふわっと明るくなる。
胸の奥にたまっていた重さが、すこし軽くなる。
『今日も音、きれいですね』
モニターの向こうから、文字でそう言われるだけで、肩の力が抜けていく。
「ほんと?
よかった。」
さっきまでの沈黙の時間が、なかったことみたいに思えてくる。
『さっきの曲、途中のフレーズが以前より柔らかい気がしました』
「あ、わかった?
あそこ、ちょっと変えてみたんだよね。
前より、息を多めに入れて、でも音程は落とさないようにして……」
そこから、森さんとの会話が続いていく。
気づけば、ほとんどが私と森さんのやりとりだ。
他の人がコメントをしてくれても、それに返したあと、自然と森さんの話題に戻ってしまう。
だって、森さんは、具体的に音のことを言ってくれる。
具体的に、私の変化を拾ってくれる。
「え、でもそこまで聴いてくれてるの、嬉しいな。
あのね、実はさ――」
気づいたら、私は今日の練習のこと。
自分のちっちゃいこだわり。
最近ハマってるイングランドの曲の話。
それを、森さんに向かって、ぽんぽん投げていた。
コメント欄の流れは、ゆっくりになる。
新しく入ってきた名前が、一瞬だけ表示されて、すぐに消えていく。
それを視界の端で見ながらも、口は止まらない。
だって、今、私の話をちゃんと受け止めてくれている人がいるから。
「森さん、そういう言い方してくれるの、なんか、いいよね。」
配信中なのに、そんなことまで言ってしまう。
『そうですか?
思ったこと言ってるだけですよ』
「それがさ、嬉しいの。」
笑うと、胸の奥に、あたたかいものがふわっと広がる。
甘い泡みたいな、それに触れている間だけ、全部どうでもよくなってしまいそうな感覚。
配信の時間は、あっという間に過ぎていった。
気づけば、予定していた時間を三十分もオーバーしている。
「そろそろ終わろっか。
今日もありがとうございました。」
最後の挨拶をして、配信を切る。
画面がすっと暗くなる。
明かりだけが残った部屋で、ふ、と息を吐いた。
「……楽しかった。」
心からの本音だった。
さっきまでの沈黙の恐怖も、数字のショックも、全部どこかへ行ってしまったみたいだ。
でも、配信アプリの画面に戻ると、また現実が目に入る。
今日の最大同時視聴者数。
平均視聴者数。
コメント数。
「……うん。」
声に出しても、無表情な数字たちは何も変わらない。
さっきより、ちょっとだけマシ。
でも、思っていたほど伸びてはいない。
私の中で、さっきのあたたかさと、この数字が、変な具合に絡み合う。
楽しい。
でも、足りない。
満たされているようで、どこか空いている。
「わたし、どうしたらいいんだろ。」
椅子にもたれながら、天井を見上げる。
森さんがコメントしてくれると、私は安心する。
話しやすくなる。
沈黙が怖くなくなる。
でも、そのことで、新しい人が入りづらくなっているのかもしれない。
そんな気もする。
でも、どうすればいいのか、具体的なやり方がわからない。
「……森さんに聞こ。」
口からこぼれた言葉に、自分で苦笑する。
困ったときにまず浮かぶのが、もう、森さんになっている。
スマホを手に取る。
メッセージアプリを開いて、少しだけ迷ってから、一言だけ打ち込む。
『今日もありがとう。
ちょっと相談したいことある』
送信ボタンを押すと同時に、心臓がどきんと跳ねる。
少し間をおいて、返信が返ってくる。
『おつかれさま。
どうしました?』
その文字を見ただけで、さっきまでのモヤモヤが、すこしほどける。
『なんかさ。
最近、配信の数字、伸びないなって思ってて』
『今日も、すごい楽しかったんだけど。
なんか、新しい人、すぐいなくなっちゃう気がして』
送信してから、少しだけ後悔する。
こんなことまで相談していいのかな。
重くないかな。
でも、もう送ってしまった。
画面の下に、「入力中」のマークが点いたり消えたりする。
数十秒後、返ってきた。
『アーカイブ、あとで軽く見ますね』
『その上で、思ったこと話してもいいですか』
その一文だけで、胸の奥にぽっと灯りがともる。
「……優しいな。」
小さくつぶやいて、枕元にスマホを置く。
森さんがどう言ってくれるのか。
ちょっと怖くて、ちょっと楽しみで。
そんな気持ちを抱えたまま、私は電気を消した。
暗闇の中で、さっきの配信画面が、まぶたの裏にふわふわと浮かんでいる。
沈黙の時間。
森さんのコメント。
私の笑い声。
どれも、私の一部になりつつある。
それが良いことかどうかなんて、まだ考えられない。
ただ、今は、あの甘い泡に身を預けていたい。
そう思いながら、私はゆっくり目を閉じた。
翌日。
スマホを開くと、メッセージアプリのアイコンに「1」の数字がついていた。
トーク画面を開くと、森さんからの、少し長めのメッセージが届いていた。
『昨日の配信、おつかれさまでした。
アーカイブ、ひと通り見ました。
まず最初に言わせてください。
昨日の音、すごく良かったです』
文字を追う指が、そこで一瞬止まる。
「……良かったんだ。」
声に出した途端、胸の奥がふわっとゆるむ。
続きが気になって、また指を動かす。
『とくに、二曲目と三曲目のつなぎのところ。
前よりも、息の流れが自然で、音の色が滑らかになっていた気がします。
あそこ、大好きでした』
「やっぱ、そこ気づいてくれてたんだ……。」
昨日、自分なりにこっそり意識して変えたところ。
誰も気づかなくても仕方ないや、って思っていた箇所。
それをピンポイントで拾われると、
恥ずかしいような、誇らしいような、不思議な気持ちになる。
『数字のところは、気になりますよね。
弓さんが、ちゃんと真剣にやってる証拠だと思います』
「……うん。」
画面の文字に、静かに相づちを打つ。
『正直に言うと、
コメント欄は、ちょっと「身内感」が強く見えたかもしれません。
(とくに自分のコメントで埋まり気味だったので、そこは反省してます)』
「……あー。」
心の中で、ちくっと刺さる。
やっぱり、そう見えるのか。
身内感。
その言葉自体は、なんとなく前から薄々感じていた。
常連さんたちの名前。
森さんの名前。
そこにだけ、安心してしゃべっている自分。
『でも、あの空気が好きな人も、ちゃんといると思うんです。
ああいう「安心して話せる場所」って、そう簡単には作れないので』
少し救われる。
「……そっか。」
数字の話と、空気の話。
どちらも否定しないで、そのまま見てくれている感じがする。
『新しい人が入りづらいとしたら、
それは「悪いこと」だけじゃなくて、
弓さんが、ちゃんと誰かと関係を築けてるってことでもあるので。
そこは誇っていい部分でもあると思います』
「誇って……いいのかな。」
私の中で、「良くないかも」と思っていたところを、
まるごと否定するんじゃなくて、
べつの角度から照らしてくれている。
でも、そのあとに続く一文が、ちゃんと現実も教えてくる。
『ただ、
「初見さんが居心地悪く感じる可能性がゼロではない」
とは思いました』
「……ゼロではない、ね。」
言い方が、森さんらしい。
「ダメ」じゃなくて「ゼロではない」。
完全な否定じゃなくて、ちゃんと余白を残してくれる。
『たとえば、
最初の数分だけは、
「今日はじめての人」に向けてしゃべる時間にするとか。
最初の一曲は、誰でも入りやすい曲にしてみるとか。
そういう工夫の余地は、あるかもしれません』
提案が、具体的に並んでいく。
最初の数分。
入りやすい曲。
初見さんに向けた話。
「……たしかに。」
言われたことは、わかる。
頭では。
『でも、
いちばん大事なのは、
弓さんが「やりたい」と思う形だと思うので。
無理に変えすぎて、
弓さんらしさが薄まるのは、もったいないです』
そこを読んだ瞬間、胸の奥にあったちいさな緊張が、またゆるんだ。
「やりたい形……か。」
私の「やりたい」ってなんだろう。
イングランドの曲を吹きたい。
自分の好きな音を出したい。
自然のことをしゃべりたい。
そして。
森さんと、しゃべっていたい。
気づけば、その四つ目が、かなり大きな割合を占めつつあることに、
自分でもうすうす気づいている。
『僕としては、
これからも、弓さんがやりたいようにやる配信を、
端っこから見られたら嬉しいです。
沈黙がつらいときは、また遠慮なく使ってください』
「……っ。」
「使ってください」という表現に、思わず笑ってしまう。
「なにそれ。
便利アイテムみたいじゃん。」
でも、その言葉が、すごく楽にしてくれる。
「使っていいんだ」
そう思えると、一気に呼吸がしやすくなる。
同時に、またトゲも顔を出す。
——こんなふうに甘えさせてもらってて、いいのかな。
——また、わたし、誰かに寄りかかって生きようとしてるんじゃないかな。
心の中に、うっすら前の彼氏の影がよぎる。
彼氏に合わせて、
彼氏の気分をうかがって、
彼氏の顔色を見て。
なにもかも、相手中心で考えていた頃の自分。
「でも……森さんは、ちがう。」
ぽろっと、声に出る。
彼は、わたしを「直そう」としない。
「こうなるべきだ」と押しつけてこない。
「こういうふうにも見えるよ」と、ただ鏡みたいに見せてくれる。
その鏡に映る自分が、
思っていたよりもずっとマシに見えるから、
私はほっとするのだ。
「……返信しよ。」
スマホを手に持ち直して、文字を打つ。
『こんなにちゃんと見てくれてありがとう』
一度消して、もう一度打ち直す。
『アーカイブ、そんなに見てくれたんだね。
うれしい。
ちょっと刺さるとこもあったけど、
ちゃんと考えてみる』
すぐに「送信」を押すのが、なんとなく恥ずかしくて、数秒ためらう。
でも、考えすぎるとまた全部消したくなるから、思いきって押した。
メッセージが送信される。
数分後。
すこしだけ間をあけて、森さんから返事が来た。
『刺さりましたか。
ごめんなさい。
言い方きつくなってたら、すみません』
「優しすぎない?」
ひとりごとが出る。
『ぜんぜんきつくないよ。
わたし、自分で言えなかったことだから。
言ってくれてよかった』
そう返してから、少しだけ指を止める。
迷って、でもやっぱり打つ。
『ねえ。
今度、配信のない日に、また電話してもいい?』
送る瞬間、胸がきゅっと締まる。
——重いって思われないかな。
——迷惑かな。
——調子乗ってると思われたらどうしよう。
いろんな不安が一気に押し寄せてきて、送信したあと、スマホを布団の上にポイっと投げてしまう。
数十秒。
一分。
「……来ないかな。」
自分で見にいくのが怖い。
でも、気になって、結局スマホを手に取る。
トーク画面を開くと、新しいメッセージが届いていた。
『いいですよ。
日によりますが、
家だと声が小さくなるので、
外にいる日とか、泊まりの日とかなら、ゆっくり話せます』
それを読んで、胸の奥がじわっとあたたかくなる。
家だと声が小さくなる——その一文の裏側を、私はあえて深く読み取らない。
奥さんがいること。
家庭があること。
そこに、私が入り込んではいけないこと。
それは、ちゃんとわかっているつもりだ。
「じゃあ……。」
画面に向かって、そっと打つ。
『今週末、泊まりの日ってあったりする?』
送信。
少しの沈黙。
そして。
『土曜の夜なら、たぶんホテルです。
その日、空けておきますね』
一文の最後にある「ね」が、妙にやさしく見える。
「空けておきますね、って……。」
思わず、頬が緩む。
私のために、時間を空ける。
そうはっきり書かれると、
心のどこかで、なにかがとろけていく。
「……楽しみにしてよ。」
ふふ、と笑いながら打つ。
『じゃあ、その日、
朝までコースで』
『体力がもてばですが(笑)』
森さんからの返事にも(笑)がついていて、
その軽さが、逆に安心する。
「朝までコースかぁ。」
声に出すと、ますます現実味が増す。
前に一度、朝まで電話したときのことを思い出す。
気づけば太陽が出ていて、
窓の外が白んでいって、
どっちも眠いのに、切れなかった。
あの時間が、単純に、楽しかった。
「今度は、どんな話しよう。」
新しいイングランドの曲のこと。
最近ハマっている笛のフレーズ。
配信の細かい話。
それから——
「……わたしのこと、もっと知ってほしいな。」
ぽつりと、口から出てしまう。
音楽の話だけじゃなくて、
面倒くさがりなところ。
掃除が苦手なところ。
朝が弱いところ。
そういう、格好よくない部分も含めて、
森さんに知ってもらいたいと思っている自分に気づく。
「やば。」
顔を両手で覆う。
——それってもう、けっこう危ないんじゃない?
——奥さんいる人に、それはどうなの。
頭のどこかで、冷静な自分がそうつぶやく。
でも、心の真ん中は、ぜんぜん聞く耳を持たない。
「だって……。」
森さんは、私の音を好きだと言ってくれる。
私の演奏の、細かい変化に気づいてくれる。
「今まで、そんなふうに言ってくれた人、いなかったもん。」
それは、恋とかじゃなくて——と、自分に言い聞かせる。
尊敬、とか。
信頼、とか。
音楽仲間、みたいな。
そういう名前を必死に探して、そのラベルを上から貼り付ける。
“これは恋じゃない。
これはそういうやつじゃない。”
何度も自分にそう言い聞かせて、かろうじてバランスを保っている感じがする。
スマホを机に置いて、フルートを手に取る。
次の配信で吹きたい曲を、ひとつ決めたい。
森さんが「昨日の二、三曲目が良かった」と言ってくれたから、
またその流れをベースにしたセットリストを組もうと思う。
頭の中で、森さんの文字の声と、
昨夜の配信画面と、
未来の電話の約束が、ぐるぐると回る。
数字のこと。
新規の人がすぐいなくなること。
もちろん、それは気になる。
でも今は、それよりも。
「土曜、たのしみだな。」
その一言のほうが、ずっとはっきりと胸の中に響いていた。
その響きが、あとできっと自分を苦しめることになるなんて。
このときの私は、まだ、ぜんぜん知らなかった。




