Part20 甘い毒
【森視点】
リビングの時計の針が、静かに一周していく音が聞こえるような気がした。
実際には、そんな音はしていないはずなのに。
ソファに沈みこんだまま、天井の白い模様をぼんやり眺めている。
今日は、よく歩いた。
海沿いの道。
山の細いカーブ。
川べりの石だらけのところ。
ひさしぶりに、こんなに足を使った気がする。
ふくらはぎのあたりが、じんわりと重い。
「……俺も、歳かね」
天井に向かってつぶやいて、苦笑いが漏れる。
でも、悪くない疲れ方だった。
身体の奥から、少しずつほどけていくような疲れ。
いやな重さじゃない。
スマホが、ソファの肘掛けのところに伏せて置いてある。
画面は消えているのに、そこにあるだけで、意識がそっちに引っぱられる。
あの子からの「またね」が、まだ胸の中に残っている。
――「またね」って、便利な言葉だよな。
別に約束でもなんでもない。
「さよなら」ほど、はっきり終わりもしない。
曖昧で、先があるような、ないような。
でも、今日の「またね」は、妙に重さがあった。
あの子が、山道の途中で笑った顔を思い出す。
風で髪が少し乱れて、片手でそれを直しながら、「うわ、ここすき」と素直に言った顔。
あれは、たぶん、作ってない。
配信のテンションとも違う。
ただ、嬉しくて、楽しくて、素で出ている声。
「……あれは、ずるいな」
誰に向かってともなく、もう一度つぶやく。
ちゃんと線を引いておかないと、と、頭では何度も言い聞かせている。
そもそも、既婚者なんだから。
一度、その線を踏み越えて、痛い目を見ている。
あのときの、妻の顔。
何も言えなくなった自分の喉の詰まり方。
夜、家に帰るのが怖くて、玄関の前で足が止まったこと。
あの感じは、一生忘れない。
浮気をした自分が一番悪いのはわかっている。
言い訳の余地なんて、どこにもない。
だからこそ、その後、自分なりに線を決めた。
「もう、二度とやらない」
当たり前のことだ。
大人として、人として、夫として。
そして、あの子と出会ったのは、そのずっとあとだ。
画面の向こう側。
コメント欄。
匿名性と、距離感と、どこか安全そうな空気。
「この距離なら、大丈夫」
最初は、そう思っていた。
顔も知らない。
住所も知らない。
本名も知らない。
配信アプリと、コメント欄。
せいぜいが、アイコンと、ハンドルネーム。
なのに。
こうやって、現実の足で、同じ土地を歩いてしまうと、話が変わる。
車の助手席。
コンビニの駐車場。
景色のいいところを見つけたときの「ちょっと停めてもらっていいですか」の声。
全部、現実だ。
「……まずいよな」
ようやく、言葉として出てくる。
まずい。
頭の中で「危険」という赤い文字が点滅している。
でも、そのすぐ隣で、さっきの弓の笑い声が、柔らかく響いている。
「森さんって、ほんと大人ですよね」
山の帰り道、そう言われた。
自分では、ぜんぜんそんなつもりはないのに。
ただ、年齢分だけ、失敗して、反省して、考える癖がついただけだ。
「あの子から見たら、それが“大人”なんだろうな」
そう思うと、少しだけ、胸の奥が痛くなる。
自分が昔やらかしたことを知らないから、ああいう言葉が出てくる。
あの子の前では、いまの自分が“完成形”みたいに見えているのかもしれない。
実際は、傷の上に、なんとか土台を組み直しただけなのに。
ソファから身体を起こす。
リモコンを取って、テレビをつける。
バラエティの派手な音と笑い声が、部屋に流れ込んでくる。
けれど、画面の内容がまったく頭に入ってこない。
チャンネルを変える。
ニュース。
ドラマの再放送。
スポーツのハイライト。
どれにしても、あの子の声のほうが勝ってしまう。
テレビを消す。
静寂。
「……やっぱ、そうなるか」
苦笑いして、スマホを手に取る。
画面をつけると、ロック画面には家族の写真が出る。
数年前に撮ったものだ。
妻の笑顔。
「……悪いな」
無意識に、そう言っていた。
誰に向けてなのか、自分でもよくわからない。
ロックを解除して、配信アプリを開く。
弓のアイコンが、今はグレーになっている。
配信中ではない。
今日の夜、配信をするのかどうかは、まだわからない。
通知欄には、「お気に入りライバーが配信を始めました」というお知らせがいくつか。
そのどれにも、触れる気になれない。
一瞬、アプリを閉じかけて、指が止まる。
「……来たら、どうする?」
もし、あの子が配信を始めたら。
入るか。
入らないか。
入ったら、また名前を呼ばれる。
「森さん」って。
配信の中で、あれだけ露骨に名前を呼ぶライバーも珍しい。
そのたびに、コメント欄がざわつく。
「特別扱いだ」とか。
「夫婦漫才みたい」とか。
あれは、正直に言えば、少し怖い。
楽しくもある。
楽しい、けれど、怖い。
その両方が、同じ場所にある。
「……まるで、ジェットコースターだな」
一番上に上るとき、景色はきれいだ。
風も気持ちいい。
でも、その先には落ちる区間が必ずある。
それを知っているのに、乗ってしまっている感じ。
「何やってんだろうな、俺」
笑いながら、頭をかく。
そのとき、スマホが小さく震えた。
画面の上に、「弓が配信を開始しました」という通知が出る。
タイミングが良すぎて、笑うしかない。
「……試されてる?」
誰に、とは言わない。
自分なのか。
神様みたいなものなのか。
あるいは、このアプリそのものか。
どうでもいい。
意識しすぎだ、と自分にツッコミを入れながら、グッと息を吸う。
「入らないっていう選択肢も、ある」
一応、そう頭の中で言ってみる。
でも、すぐに別の声が返してくる。
――もし誰もいなかったら、どうする。
――最初の一人がいないと、不安になる子だろう。
――あの子の「こんばんは」が、空振りするのを想像できるか。
「……ずるいな」
あの子に向かって、じゃない。
このアプリに向かってそう言った。
結局、親指は、いつもの位置をタップする。
画面が切り替わって、あの部屋が映る。
いつもの、少し暗めの間接照明。
後ろには、楽譜が積まれた棚。
画面の真ん中に、弓が座っている。
少し眩しいくらいの笑顔で。
「こんばんは。弓です」
さっき、頭の中で再生していた声と、同じ声。
でも、現実に聞くと、やっぱり少し違う。
画面の向こうから、こちらをまっすぐ見ている。
視聴者数は、ゆっくりと増えていく。
コメント欄に、「おかえり」「待ってた」が並ぶ。
その中に、自分の名前はまだ出ていない。
「……今日は、最初から前に出ないでおこう」
視聴者のふりをして、ただ見ているだけにしよう。
そう決めて、しばらくコメントを打たずに眺める。
「昨日はね、中学生たちの定期演奏会に行ってました」
あのホールの話をする弓の顔は、誇らしげで、どこか柔らかい。
教え子たちのことを話すときの声は、また少し違うトーンになる。
指導者としての顔。
あの子には、あの子なりの「守っている世界」があるんだな、と改めて思う。
それを話しているときの弓は、俺なんかより、よほど“大人”だ。
コメント欄が、その話で盛り上がっていく。
『先生だったの知らなかった』
『教え子とかかっこよすぎ』
『その子たちがここ見てる可能性もあるの?』
俺は、まだ何も打たない。
ただ、見ている。
弓が、自分の世界を言葉にしていく様子を。
それだけでも、十分楽しい。
「で、そのあと、ちょっと自然のほうに行ってきました」
その一言で、胸の奥が、少しだけ締め付けられる。
あの景色が、自分の視界にも広がる。
海。
山。
川。
『自然?』
『山?海?』
『外出るの珍しくない?』
コメント欄がざわつく。
「海見て、山行って、川も行きました」
簡単に、あっさりと。
誰と行ったかは言わない。
それが、正しい。
あの子にとっては、あれは「自然に行った一日」だ。
隣に誰がいたかより、自分が何を感じたかのほうがずっと大事。
……そういう意味では、あの子らしい。
『音、変わりそう』
『外の空気吸ったあとの演奏楽しみ』
コメントが流れていく。
そこで、ようやく、指が動いた。
『おつかれさま』
それだけ打って、送信する。
弓が、画面の下を見て、少し目を細める。
「えっとね、教え子の中学生たちの定期演奏会に行ってきました」
さっきまでと同じトーンで話し続ける。
名前を呼ばれなくて、少しだけほっとする。
同時に、少しだけ寂しくもなる。
わがままだな、と自分で自分に苦笑する。
しばらくすると、弓がふっと笑った。
「なんかね、“音楽してる顔”になってて、嬉しかったです」
その言葉を聞いた瞬間、さっきの弓の横顔と、ホールのステージの光景が重なって見えた。
俺は、またひとつだけコメントを打つ。
『いいなぁ。
そういう話、ずっと聞いてられる』
送信。
弓が、少しだけ照れたような顔をする。
「じゃあ、また今度も聞いてください」
その言葉を聞いて、胸のどこかが、静かに鳴った。
「……ああ、これが危ないんだよな」
小さく、息を吐く。
画面の外側で、俺の現実が、ちゃんと存在している。
妻がいて、家があって、仕事がある。
そのすべてを背負ったまま、画面の中の世界にも足を踏み入れている。
どこかでその線を自分で管理しないと、誰も止めてくれない。
「自分で、自分の首輪を持っておけ」
昔、先輩に言われた言葉がふっと浮かぶ。
自由は悪いことじゃない。
でも、自由でいるためには、自分で自分を縛る部分が必要だ、と。
今、その意味を、改めて噛みしめている。
弓がフルートを手に取る。
画面の前の空気が変わるのがわかる。
息を吸う気配。
指の位置。
頭部管が唇に触れる瞬間。
そして、音。
昨日の海と、山と、川。
あの子の身体の中を通った風が、そのまま音になって出てきているような感じ。
コメント欄が、一気に流れる。
『拍手』
『今日すごい』
『やさしい音』
俺も、その中に紛れるようにして打つ。
『やっぱり外の空気、入ってる気がする』
送信。
弓が、少しだけこちらを見たように感じる。
「外の空気?」
そう言って、笑う。
「……いい意味?」
『もちろん』
それ以上の言葉はいらない気がした。
本当は、もっと細かく言語化できる。
音の立ち上がりがどうとか。
ビブラートのかかり方がどうとか。
でも、そういう分析的な言葉は、今は邪魔な気がした。
あの子にとって必要なのは、「いい」「好き」「伝わってる」というシンプルなサインだ。
それが、やがて負担になる可能性があることを、どこかでわかっていながら。
配信が進むにつれて、弓のテンションが少しずつ上がっていく。
「コメント急に止まると、不安になるんですよね」
ぽろっと出た本音。
ああ、やっぱり、と思う。
あの子は、無音が怖い。
誰もいない部屋で、一人でいる時間が、苦手だ。
だから、配信をつけて、人の気配をそこに作る。
それ自体は、悪いことじゃない。
むしろ、今の時代の自然な使い方かもしれない。
ただ、そこに「特定の誰か」が強く絡み始めると、話が変わる。
「だからね。
森さんが急に黙ると、“起きてます?”って聞いちゃうんですよね」
その一言が、刃物みたいに胸に刺さる。
コメント欄がざわつく。
『やっぱ特別』
『森さん寝たら怒られるやつ』
弓は笑ってごまかしているけれど、たぶん自分がどういう構造を作っているのか、まだよくわかっていない。
俺は、スマホを持つ指に力が入るのを感じながら、ゆっくりとコメントを打つ。
『ちゃんと起きてますよ』
送信。
しばらくして、もうひとつ。
『寝てても起きろって言われるしね』
送信。
自分で書いておいて、苦笑いしてしまう。
こういう軽口で全部流してしまえればいいのに、とどこかで思う。
笑い話の枠内に、ずっと収めていられれば。
だけど、人の感情は、そんなに都合よくコントロールできない。
配信が終わりに近づく。
弓が、いつもの締めの挨拶をする。
「じゃあ、そろそろ終わりますね。
今日も聴いてくれてありがとうございました」
コメント欄が「おつかれ」で埋まっていく。
俺も、その中にひとつ、コメントを混ぜる。
『今日も楽しかったです。
ゆっくり休んでね』
それが、本心だった。
この関係がどうなろうと、あの子にはちゃんと休んでいてほしい。
身体を壊してほしくないし、心も壊してほしくない。
その願いだけは、わりと本気でそう思っている。
「森さんも、ちゃんと寝てくださいね。
途中で静かになったら、また“起きてますか”って聞きますから」
弓が、画面の向こうで笑う。
それに合わせて、俺も小さく笑ってしまう。
『それ、楽しみにして寝ます』
半分冗談、半分本音。
送信したあと、自分で自分にツッコミを入れる。
「楽しみにして寝るって、なんだよ」
配信が切れる。
画面が暗くなる。
部屋が、さっきまでより少し広く感じる。
静かだ。
さっきまで、あの子の声と、コメントの流れで埋まっていた時間。
急に、現実の空白が顔を出す。
ソファに背中を預けて、天井を見上げる。
「……これ以上は、まずいな」
ようやく、言葉にする。
依存される構造は、いちど作ってしまうと、壊すのが難しい。
あの子にとって、「森さんがいないと不安」という状態を常態化させてしまうのは、絶対に良くない。
そして、自分にとっても。
人から必要とされることは、麻薬みたいなものだ。
まして、それが、自分の好きな音楽をやっている子からだったら。
「……気をつけろよ、俺」
また、ソファの上で、自分に向かってつぶやく。
コメントを減らすべきか。
配信に入る頻度を減らすべきか。
でも、急にいなくなるのは、それはそれで残酷だ。
あの子はきっと、自分を責める。
「なにか変なこと言っちゃったかな」とか。
「わたしが重かったのかな」とか。
そうなってほしいわけじゃない。
「……どうしろってんだ」
額に手を当てて目を閉じる。
さっきまでの、美しい海と山と川の記憶。
それと、コメント欄のざわめき。
あの子の「森さん」という呼び方。
全部が混ざって、胸の中で渦を巻いている。
ふと、スマホがまた震いた。
画面を見ると、弓からのメッセージがひとつ。
『今日もありがとうございました
また一緒に自然行けたら、うれしいな』
心臓が、ドクンと鳴る。
たぶん、あの子は、深く考えていない。
その文章の重さを、自覚していない。
「……そうだよな」
無邪気な言葉ほど、人を動かす。
そして、人を壊す。
それを知っているのは、大人になってからだ。
だから、俺が、線を引かなきゃいけない。
返事の文面を考える。
『今日はゆっくり休んで。
自然は、また余裕があるときにでも。
無理しないでね』
無難だ。
少し、物足りない気もする。
でも、これ以上は踏み込まないほうがいい。
「……これぐらいが、俺の限界だな」
そう言って、送信ボタンを押す。
画面の向こうで、あの子がどんな顔をするのかは、わからない。
少し物足りないと思うかもしれない。
それとも、あたたかいと思うかもしれない。
どちらにしても。
「ここで止まっておけ」
自分にそう言い聞かせながら、ソファの背もたれに、深く身体を預けた。
まぶたを閉じると、今日の景色と、あの子の笑い声が、もう一度くっきりと浮かび上がる。
それでも、さっきより少しだけ距離を感じる。
その距離感を、手放してはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、静かな夜の中に、ゆっくりと沈んでいった。




