Part19 紛れもない自覚
【弓視点】
目が覚めたとき、部屋の空気が、いつもより少しだけ軽い気がした。
布団の中で、ゆっくりと手足を伸ばす。
背中がぽきぽき鳴って、ちょっと笑ってしまう。
「……あー、歩いたなぁ、昨日」
ふくらはぎのあたりが、じんわり重い。
筋肉痛になるほど動いたのなんて、いつぶりだろう。
カーテンの隙間から入ってくる光は、柔らかい昼前の色をしている。
天井を見上げると、見慣れたはずなのに、少しだけ違って見えた。
昨日の海の青と、山の緑と、川のきらきらが、まぶたの裏にまだ残っている。
「……ふふ」
気づいたら、笑っていた。
理由を言葉にしようとすると、なんか照れくさくて、途中でやめる。
枕元のスマホに手を伸ばす。
画面をつけると、ロック画面の時刻と、その下に、通知がいくつか並んでいる。
配信アプリからの、フォロワーがどうとか、誰かが配信を始めたとか、そういうお知らせ。
それらを一旦スルーして、ロックを解除する。
指が、迷いなく森さんとのトークをタップしていた。
昨夜の「今日はゆっくり休んで」「おやすみ」のやり取りが、一番下に並んでいる。
その短いやりとりを、何度もスクロールするでもなく、ただぼんやり見つめる。
「……なんか、へんな感じ」
ひとりごとの声が、部屋の中に落ちる。
森さんは、画面の向こうの人だった。
コメント欄を埋めてくれる人。
電話越しに、少し低い声で「おつかれ」と言ってくれる人。
それが今は、助手席で「ここ曲がるよ」とか、「そこの景色、好きそうだね」とか、当たり前みたいに言ってくれる人になった。
ちゃんと、そこにいる人。
ちゃんと、歩幅があって、運転する手つきがあって、横顔があって。
「だからって、別に……ね」
声に出して自分に言い聞かせる。
森さんは、森さんだ。
既婚者で、ちゃんと家があって、仕事があって。
わたしとは、全然違う場所で生きてる人。
昨日一緒にいたのが、ただ楽しかったのは本当だけど、それ以上でも以下でもない。
……と思いたい。
布団から身体を起こす。
床の冷たさが足裏に伝わってきて、少しだけ現実に戻る。
顔を洗って、軽く髪をまとめる。
鏡に映った自分の顔は、寝ぐせと、ちょっとだけ薄いくまで、いつも通り。
なのに、目の奥のほうだけ、なんとなく明るい。
「なに、いいことありましたって顔してんの」
自分でツッコミを入れて、鏡の前で小さく肩をすくめる。
キッチンでパンを焼いて、コーヒーを淹れる。
トースターの音と、ドリップの細いお湯の音。
そのあいだも、頭のなかでは、教え子たちの顔と、あのホールの響きと、森さんと見た景色が、ぐるぐる回っている。
中学校のホール。
舞台の上で、必死に吹いていた子たち。
あの子のアンブシュア、注意したんだよな、とか。
ここまで吹けるようになったか、とか。
そういう誇らしい気持ちと。
「海、きれいだったなぁ」
ぽつりと出てくる言葉。
海の音。
風の匂い。
山道のあの緑のトンネルみたいなところ。
川べりで、石を蹴りながらなんでもないことを話した時間。
どれも、ひとつひとつが、すごく鮮明だ。
パンをかじりながら、無意識にスマホを手に取る。
配信アプリの自分のページを開く。
フォロワー数の数字は、微妙に増えているような、変わっていないような。
通知欄には、「昨日配信なかったから寂しかった」とか、「演奏会どうだった?」とか、そんなメッセージがいくつか。
そして、その中に、森さんからの
『今日はゆっくり休んでね。
配信は明日からまた、でいいと思うよ』
というメッセージが、昨夜のまま残っている。
「……そうだ、今日どうしよ」
パンをもぐもぐしながらつぶやく。
配信。
休みすぎるわけにはいかない。
わたしの配信は、そもそもそんなに人が多くない。
続けていないと、すぐに忘れられてしまう。
でも、本音を言えば。
人気が欲しい。
ただ、人がいっぱい来て、キャーキャー言われたいとかじゃない。
わたしの音を好きだって言ってくれる人が、もっと増えたらいいなっていう意味での人気。
演奏家として。
笛吹きとして。
わたしの出した音が、「あ、これすき」って言ってもらえる、その数が増えてほしい。
数字だけ増えて、音を聴いてくれない人が多いのは、ちょっと違う。
だから、なんとなく見ればバズるようなことはしたくない。
「……とか言いつつ、全然伸びてないの、わたしなんだけどね」
ソファに倒れ込みながら、ため息混じりに笑う。
アーカイブの一覧をスクロールする。
タイトルが、どれも似たような感じで並んでいる。
「夜の笛時間」とか、「雨の日のイングランド」とか。
この中で、どれくらいの人が、本気で音を聴いてくれているんだろう。
そんなことを考えていると、思考がじわじわ重くなるので、途中で切る。
「ま、考えてもしょうがないか」
結局、吹くしかない。
それは、最初に決めたときから変わっていない。
テーブルの上に視線を戻すと、スマホに、さっき見たトーク画面の小さな通知マークがついていることに気づく。
森さんから、じゃなかった。
別の人からだった。
少しだけ、がっかりする。
その感情に、自分で「あ」と気づく。
「……わかりやす」
自分で自分に突っ込んで、枕を抱きしめるみたいにソファに丸まる。
別に。
別に、森さんのことを、そういうふうに見てるわけじゃない。
森さんがいてくれると、枠が楽なんだ。
それは本当。
コメントが止まらないように、話題を振ってくれるし、
わたしが言葉に詰まったら、すぐ拾ってくれるし、
変な空気になりかけたら、どこかに落としてくれる。
「無音」の時間が怖いわたしには、あの存在は正直、ありがたすぎる。
「……依存してるって言われたら、否定できないよなぁ」
そう思った瞬間。
頭の中で、誰かに説教されているみたいな気分になって、慌てて首を振る。
そんな難しい言葉で、自分のことを分析できるほど、恋愛経験も、人付き合いの経験もない。
ただ、寂しいのが苦手で。
ひとりで夜を過ごすのが、下手で。
音だけ吹いて終わるより、誰かと会話をしていたほうが、気がまぎれる。
それだけだ。
……たぶん。
昼過ぎまで、動画を見たり、ぼーっと天井を見たり、フルートの指慣らしを少ししたりして過ごす。
「あ、今日もちゃんと配信しよ」
夕方になって、ようやくそう決めた。
森さんにそう言われたから、というのも、ほんの少しある。
言われたからやる、じゃなくて、背中を押された感覚。
夜。
部屋の中のライトを調整する。
カメラに映る範囲だけ、ちゃんと片付ける。
ベッドの上は、見えないから、そのまま。
リングライトをつけると、部屋の空気が一気に「配信の時間」の空気に変わる。
椅子に座って、マイクの位置を整える。
フルートは、手の届くところに置いておく。
スマホを三脚にセットして、配信アプリを開く。
指が、「配信開始」のボタンの上に止まる。
深呼吸をひとつ。
「……よし」
タップ。
三秒カウントが始まる。
三。
二。
一。
「あ、こんばんは。弓です」
いつもの挨拶。
でも、自分の声が、いつもよりほんの少しだけ明るく聞こえた。
視聴者数が、ゆっくりと数字を増やしていく。
コメント欄に、常連さんたちのアイコンがぽつぽつと現れる。
「いらっしゃいませ。
昨日は、配信お休みしてました。
ただいま、ですね」
『おかえり』
『待ってた』
『演奏会どうだった?』
画面の下のほうを、親指でスクロールするみたいに視線を滑らせる。
「えっとね、教え子の中学生たちの定期演奏会に行ってきました」
そう言うと、コメント欄がぱっと明るくなる。
『先生だ』
『先生してるのかっこいい』
『どんな曲吹いてた?』
質問がいくつも飛んでくる。
「うちの子たちはね、ポップスと、ちょっと難しめのクラシックと、あとマーチもやってて」
客席から見ていたこと、
あの子が最初ぜんぜん吹けなかったこと、
それが少しずつ形になっていった過程。
ぽつぽつ話していると、胸の奥があったかくなってくる。
ふと、コメント欄の中に見慣れた名前を見つける。
『おつかれさま』
森。
単純な四文字なのに、その行だけ、文字が少しだけ濃く見える気がする。
「あ、森さん」
名前を出してしまってから、「あ」と思う。
でも、もう遅い。
『出た、名前呼び』
『やっぱ特別なんだよなぁ』
『森さんきょうもいるの安心感ある』
コメント欄がざわざわし始める。
「いや、特別っていうか……」
苦笑いしながら言葉を濁す。
森さんから、コメントが返ってくる。
『演奏会どうだった?
子どもたち、成長してた?』
その問い方が、やさしくて。
わたしの話をちゃんと聴こうとしてくれているのが、文字越しにも伝わってくる。
「うん。
なんかね、ちゃんと“音楽してる顔”になってて、嬉しかったです」
自分でも、少し照れくさいことを言っている自覚はある。
でも、今日ぐらいはいいか、と思う。
『いいなぁ。
そういう話、ずっと聞いてられる』
「じゃあ、また今度も聞いてください」
自然にそんな言葉が出てくる。
自分で言っておいて、胸の中がくすぐったくなる。
『ずるい』
『その会話ずるい』
『なんだこの空気』
コメント欄がまた、わいわいしている。
でも、それもいつものことになりつつある。
「でね。
そのあと、ちょっと自然のほうに行ってきました」
さりげなく付け足す。
誰と、とは言わない。
言う必要もない。
『自然?』
『山?海?』
『外出るのめずらしい』
「海見て、山行って、川も行きました」
風の音と、水の匂いと、空の色のことだけ話す。
誰が隣にいたか、なんて関係ない。
わたしが見た景色の話だけ。
『なんか、音変わりそう』
『外の空気吸ったあとの演奏たのしみ』
「そうかな。
自分ではあんまりわかんないですけど」
笑いながら言って、フルートを手に取る。
「じゃあ、ちょっとだけ吹いてもいいですか」
コメント欄が「待ってました」で埋まる。
その中に、『聴きたい』と、短く書かれた森さんのコメントがあって、それを見つけた瞬間、指先が少しだけ軽くなる。
頭部管を唇に当てて、息を流す。
ロングトーンから始める。
部屋の空気が、音で満たされていく。
昨日の海のリズム、山の影、川の光。
それを少しずつ混ぜながら、イングランドの旋律を吹いていく。
吹いている間は、何も考えなくていい。
ただ、息と音のことだけ。
最後の音が、静かに部屋に溶けていく。
マイク越しに、わずかな残響が耳に残る。
顔を上げると、コメント欄が一気に流れている。
『拍手』
『今日すごいすき』
『やさしい音だった』
スクロールの途中に、森さんのコメントが引っかかる。
『やっぱり外の空気、入ってる気がする』
「外の空気?」
思わず、復唱してしまう。
『なんか、前より肩の力抜けてる感じ』
「……いい意味?」
『もちろん』
短いやりとりなのに、その行だけ、胸にすとんと入ってくる。
「よかった」
素直な言葉が、そのままマイクに乗る。
コメント欄がまた「かわいい」でざわつく。
しばらく、リクエストに応えて何曲か吹く。
曲と曲の合間に、ちょっとした雑談を挟む。
「そういえばさ。
コメント急に止まると、不安になるんですよね」
なんとなく、ぽろっと出た本音。
『わかる』
『あるある』
『こっちは聴いてるだけって時もあるよ』
「そう、それもわかってるんですけど。
でも、なんか、“誰かいるよ”っていうサインがほしくて」
話しながら、コメント欄を眺める。
「だからね。
森さんが急に黙ると、“起きてます?”って聞いちゃうんですよね」
笑って言った瞬間。
コメント欄が、一瞬止まったように感じた。
『やっぱ特別』
『はい出ました指名』
『森さん寝たら怒られるやつ』
「怒らないよ。
怒らないけど……なんか、ね」
そこまで言って、ごまかすみたいに笑う。
『ちゃんと起きてますよ』
森さんからコメントが飛んでくる。
『寝てても起きろって言われるしね』
「寝かせないですよ。
……って言ったら、パワハラかな」
『やさしいパワハラなら大歓迎です』
「なにそれ。
新しいジャンルじゃないですか」
そのやりとりに、コメント欄がまた笑いで満たされていく。
『なにこの安心感』
『夫婦漫才みたい』
『そろそろ森さんの奥さんに怒られません?』
その文字列を見た瞬間、指が一瞬だけ止まる。
「あー……」
声にならない声がのどの奥で引っかかる。
森さんに奥さんがいることは、ちゃんと知っている。
前に、配信で普通に聞いた。
森さんも、隠すことなく答えてくれた。
だからといって、今のこの会話をやめる理由にはならない。
「大丈夫ですよ。
わたしはちゃんと、森さんを、“森さん”としてしか見てませんから」
笑い混じりに言う。
それは、本心だった。
男の人としてどうとか。
恋愛対象としてどうとか。
そういうふうに見るには、わたしはまだ、経験も想像力も足りない。
安心できる人。
話していて楽な人。
音を聴いてくれる人。
そのぐらいの距離感。
……だと思っている。
それ以上に考えようとすると、どこかで足が止まってしまう。
コメント欄に、『それが一番やばい』『いちばん危ない距離感だよ』と書かれているのが見えたけれど、そこには敢えて触れない。
「はいはい。
じゃあ、もう一曲吹きます」
いつものように、笑って流す。
最近、こうやって笑って流すのが、少しだけ上手くなった気がする。
配信は、そのあともいつも通り続いていった。
リクエスト曲を何曲か。
雑談を少し。
森さんが話を振ってくれて、他のリスナーさんが広げてくれて。
気づけば、終了予定時間を少しだけオーバーしていた。
「じゃあ、そろそろ終わりますね。
今日も聴いてくれてありがとうございました」
手を振って、いつもの挨拶をする。
『おつかれさま』
『今日もよかった』
『ぐっすり眠れそう』
コメント欄に、「おやすみ」が増えていく。
その中に、森さんの
『今日も楽しかったです。
ゆっくり休んでね』
というコメントが流れてきて、終わり際なのに、胸の奥がふっとあたたかくなる。
「森さんも、ちゃんと寝てくださいね。
途中で静かになったら、また“起きてますか”って聞きますから」
そう言って、笑う。
『それ、楽しみにして寝ます』
最後のコメントを見届けてから、配信を切る。
画面が暗くなった瞬間、部屋の空気が、さっきまでとは別のものになる。
静か。
音のない夜。
ソファに倒れ込む。
天井を見ながら、大きく息を吐く。
「……たのしかった」
ぽつりと漏れた言葉は、誰のものでもない、ただの本音だった。
それがどういう意味を持つのかなんて、まだちゃんと考えられない。
考えようとしても、思考が途中でふわっと浮いてしまう。
ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがある。
――次の配信でも、森さんが来てくれたらいいな。
その願いが、胸のいちばん奥のほうに、柔らかく沈んでいた。




