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ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


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19/62

Part19 紛れもない自覚


【弓視点】


目が覚めたとき、部屋の空気が、いつもより少しだけ軽い気がした。


布団の中で、ゆっくりと手足を伸ばす。

背中がぽきぽき鳴って、ちょっと笑ってしまう。


「……あー、歩いたなぁ、昨日」


ふくらはぎのあたりが、じんわり重い。

筋肉痛になるほど動いたのなんて、いつぶりだろう。


カーテンの隙間から入ってくる光は、柔らかい昼前の色をしている。

天井を見上げると、見慣れたはずなのに、少しだけ違って見えた。


昨日の海の青と、山の緑と、川のきらきらが、まぶたの裏にまだ残っている。


「……ふふ」


気づいたら、笑っていた。

理由を言葉にしようとすると、なんか照れくさくて、途中でやめる。


枕元のスマホに手を伸ばす。

画面をつけると、ロック画面の時刻と、その下に、通知がいくつか並んでいる。


配信アプリからの、フォロワーがどうとか、誰かが配信を始めたとか、そういうお知らせ。

それらを一旦スルーして、ロックを解除する。


指が、迷いなく森さんとのトークをタップしていた。


昨夜の「今日はゆっくり休んで」「おやすみ」のやり取りが、一番下に並んでいる。

その短いやりとりを、何度もスクロールするでもなく、ただぼんやり見つめる。


「……なんか、へんな感じ」


ひとりごとの声が、部屋の中に落ちる。


森さんは、画面の向こうの人だった。

コメント欄を埋めてくれる人。

電話越しに、少し低い声で「おつかれ」と言ってくれる人。


それが今は、助手席で「ここ曲がるよ」とか、「そこの景色、好きそうだね」とか、当たり前みたいに言ってくれる人になった。


ちゃんと、そこにいる人。

ちゃんと、歩幅があって、運転する手つきがあって、横顔があって。


「だからって、別に……ね」


声に出して自分に言い聞かせる。


森さんは、森さんだ。

既婚者で、ちゃんと家があって、仕事があって。

わたしとは、全然違う場所で生きてる人。


昨日一緒にいたのが、ただ楽しかったのは本当だけど、それ以上でも以下でもない。

……と思いたい。


布団から身体を起こす。

床の冷たさが足裏に伝わってきて、少しだけ現実に戻る。


顔を洗って、軽く髪をまとめる。

鏡に映った自分の顔は、寝ぐせと、ちょっとだけ薄いくまで、いつも通り。


なのに、目の奥のほうだけ、なんとなく明るい。


「なに、いいことありましたって顔してんの」


自分でツッコミを入れて、鏡の前で小さく肩をすくめる。


キッチンでパンを焼いて、コーヒーを淹れる。

トースターの音と、ドリップの細いお湯の音。


そのあいだも、頭のなかでは、教え子たちの顔と、あのホールの響きと、森さんと見た景色が、ぐるぐる回っている。


中学校のホール。

舞台の上で、必死に吹いていた子たち。

あの子のアンブシュア、注意したんだよな、とか。

ここまで吹けるようになったか、とか。


そういう誇らしい気持ちと。


「海、きれいだったなぁ」


ぽつりと出てくる言葉。


海の音。

風の匂い。

山道のあの緑のトンネルみたいなところ。

川べりで、石を蹴りながらなんでもないことを話した時間。


どれも、ひとつひとつが、すごく鮮明だ。


パンをかじりながら、無意識にスマホを手に取る。

配信アプリの自分のページを開く。


フォロワー数の数字は、微妙に増えているような、変わっていないような。

通知欄には、「昨日配信なかったから寂しかった」とか、「演奏会どうだった?」とか、そんなメッセージがいくつか。


そして、その中に、森さんからの


『今日はゆっくり休んでね。

 配信は明日からまた、でいいと思うよ』


というメッセージが、昨夜のまま残っている。


「……そうだ、今日どうしよ」


パンをもぐもぐしながらつぶやく。


配信。

休みすぎるわけにはいかない。

わたしの配信は、そもそもそんなに人が多くない。


続けていないと、すぐに忘れられてしまう。


でも、本音を言えば。

人気が欲しい。


ただ、人がいっぱい来て、キャーキャー言われたいとかじゃない。

わたしの音を好きだって言ってくれる人が、もっと増えたらいいなっていう意味での人気。


演奏家として。

笛吹きとして。


わたしの出した音が、「あ、これすき」って言ってもらえる、その数が増えてほしい。


数字だけ増えて、音を聴いてくれない人が多いのは、ちょっと違う。

だから、なんとなく見ればバズるようなことはしたくない。


「……とか言いつつ、全然伸びてないの、わたしなんだけどね」


ソファに倒れ込みながら、ため息混じりに笑う。


アーカイブの一覧をスクロールする。

タイトルが、どれも似たような感じで並んでいる。

「夜の笛時間」とか、「雨の日のイングランド」とか。


この中で、どれくらいの人が、本気で音を聴いてくれているんだろう。


そんなことを考えていると、思考がじわじわ重くなるので、途中で切る。


「ま、考えてもしょうがないか」


結局、吹くしかない。

それは、最初に決めたときから変わっていない。


テーブルの上に視線を戻すと、スマホに、さっき見たトーク画面の小さな通知マークがついていることに気づく。


森さんから、じゃなかった。

別の人からだった。


少しだけ、がっかりする。

その感情に、自分で「あ」と気づく。


「……わかりやす」


自分で自分に突っ込んで、枕を抱きしめるみたいにソファに丸まる。


別に。

別に、森さんのことを、そういうふうに見てるわけじゃない。


森さんがいてくれると、枠が楽なんだ。

それは本当。


コメントが止まらないように、話題を振ってくれるし、

わたしが言葉に詰まったら、すぐ拾ってくれるし、

変な空気になりかけたら、どこかに落としてくれる。


「無音」の時間が怖いわたしには、あの存在は正直、ありがたすぎる。


「……依存してるって言われたら、否定できないよなぁ」


そう思った瞬間。

頭の中で、誰かに説教されているみたいな気分になって、慌てて首を振る。


そんな難しい言葉で、自分のことを分析できるほど、恋愛経験も、人付き合いの経験もない。


ただ、寂しいのが苦手で。

ひとりで夜を過ごすのが、下手で。

音だけ吹いて終わるより、誰かと会話をしていたほうが、気がまぎれる。


それだけだ。


……たぶん。


昼過ぎまで、動画を見たり、ぼーっと天井を見たり、フルートの指慣らしを少ししたりして過ごす。


「あ、今日もちゃんと配信しよ」


夕方になって、ようやくそう決めた。

森さんにそう言われたから、というのも、ほんの少しある。

言われたからやる、じゃなくて、背中を押された感覚。


夜。


部屋の中のライトを調整する。

カメラに映る範囲だけ、ちゃんと片付ける。

ベッドの上は、見えないから、そのまま。


リングライトをつけると、部屋の空気が一気に「配信の時間」の空気に変わる。


椅子に座って、マイクの位置を整える。

フルートは、手の届くところに置いておく。


スマホを三脚にセットして、配信アプリを開く。


指が、「配信開始」のボタンの上に止まる。

深呼吸をひとつ。


「……よし」


タップ。


三秒カウントが始まる。


三。

二。

一。


「あ、こんばんは。弓です」


いつもの挨拶。

でも、自分の声が、いつもよりほんの少しだけ明るく聞こえた。


視聴者数が、ゆっくりと数字を増やしていく。

コメント欄に、常連さんたちのアイコンがぽつぽつと現れる。


「いらっしゃいませ。

 昨日は、配信お休みしてました。

 ただいま、ですね」


『おかえり』

『待ってた』

『演奏会どうだった?』


画面の下のほうを、親指でスクロールするみたいに視線を滑らせる。


「えっとね、教え子の中学生たちの定期演奏会に行ってきました」


そう言うと、コメント欄がぱっと明るくなる。


『先生だ』

『先生してるのかっこいい』

『どんな曲吹いてた?』


質問がいくつも飛んでくる。


「うちの子たちはね、ポップスと、ちょっと難しめのクラシックと、あとマーチもやってて」


客席から見ていたこと、

あの子が最初ぜんぜん吹けなかったこと、

それが少しずつ形になっていった過程。


ぽつぽつ話していると、胸の奥があったかくなってくる。


ふと、コメント欄の中に見慣れた名前を見つける。


『おつかれさま』


森。


単純な四文字なのに、その行だけ、文字が少しだけ濃く見える気がする。


「あ、森さん」


名前を出してしまってから、「あ」と思う。

でも、もう遅い。


『出た、名前呼び』

『やっぱ特別なんだよなぁ』

『森さんきょうもいるの安心感ある』


コメント欄がざわざわし始める。


「いや、特別っていうか……」


苦笑いしながら言葉を濁す。

森さんから、コメントが返ってくる。


『演奏会どうだった?

 子どもたち、成長してた?』


その問い方が、やさしくて。

わたしの話をちゃんと聴こうとしてくれているのが、文字越しにも伝わってくる。


「うん。

 なんかね、ちゃんと“音楽してる顔”になってて、嬉しかったです」


自分でも、少し照れくさいことを言っている自覚はある。

でも、今日ぐらいはいいか、と思う。


『いいなぁ。

 そういう話、ずっと聞いてられる』


「じゃあ、また今度も聞いてください」


自然にそんな言葉が出てくる。

自分で言っておいて、胸の中がくすぐったくなる。


『ずるい』

『その会話ずるい』

『なんだこの空気』


コメント欄がまた、わいわいしている。

でも、それもいつものことになりつつある。


「でね。

 そのあと、ちょっと自然のほうに行ってきました」


さりげなく付け足す。

誰と、とは言わない。

言う必要もない。


『自然?』

『山?海?』

『外出るのめずらしい』


「海見て、山行って、川も行きました」


風の音と、水の匂いと、空の色のことだけ話す。

誰が隣にいたか、なんて関係ない。

わたしが見た景色の話だけ。


『なんか、音変わりそう』

『外の空気吸ったあとの演奏たのしみ』


「そうかな。

 自分ではあんまりわかんないですけど」


笑いながら言って、フルートを手に取る。


「じゃあ、ちょっとだけ吹いてもいいですか」


コメント欄が「待ってました」で埋まる。

その中に、『聴きたい』と、短く書かれた森さんのコメントがあって、それを見つけた瞬間、指先が少しだけ軽くなる。


頭部管を唇に当てて、息を流す。

ロングトーンから始める。

部屋の空気が、音で満たされていく。


昨日の海のリズム、山の影、川の光。

それを少しずつ混ぜながら、イングランドの旋律を吹いていく。


吹いている間は、何も考えなくていい。

ただ、息と音のことだけ。


最後の音が、静かに部屋に溶けていく。


マイク越しに、わずかな残響が耳に残る。


顔を上げると、コメント欄が一気に流れている。


『拍手』

『今日すごいすき』

『やさしい音だった』


スクロールの途中に、森さんのコメントが引っかかる。


『やっぱり外の空気、入ってる気がする』


「外の空気?」


思わず、復唱してしまう。


『なんか、前より肩の力抜けてる感じ』


「……いい意味?」


『もちろん』


短いやりとりなのに、その行だけ、胸にすとんと入ってくる。


「よかった」


素直な言葉が、そのままマイクに乗る。


コメント欄がまた「かわいい」でざわつく。


しばらく、リクエストに応えて何曲か吹く。

曲と曲の合間に、ちょっとした雑談を挟む。


「そういえばさ。

 コメント急に止まると、不安になるんですよね」


なんとなく、ぽろっと出た本音。


『わかる』

『あるある』

『こっちは聴いてるだけって時もあるよ』


「そう、それもわかってるんですけど。

 でも、なんか、“誰かいるよ”っていうサインがほしくて」


話しながら、コメント欄を眺める。


「だからね。

 森さんが急に黙ると、“起きてます?”って聞いちゃうんですよね」


笑って言った瞬間。

コメント欄が、一瞬止まったように感じた。


『やっぱ特別』

『はい出ました指名』

『森さん寝たら怒られるやつ』


「怒らないよ。

 怒らないけど……なんか、ね」


そこまで言って、ごまかすみたいに笑う。


『ちゃんと起きてますよ』


森さんからコメントが飛んでくる。


『寝てても起きろって言われるしね』


「寝かせないですよ。

 ……って言ったら、パワハラかな」


『やさしいパワハラなら大歓迎です』


「なにそれ。

 新しいジャンルじゃないですか」


そのやりとりに、コメント欄がまた笑いで満たされていく。


『なにこの安心感』

『夫婦漫才みたい』

『そろそろ森さんの奥さんに怒られません?』


その文字列を見た瞬間、指が一瞬だけ止まる。


「あー……」


声にならない声がのどの奥で引っかかる。


森さんに奥さんがいることは、ちゃんと知っている。

前に、配信で普通に聞いた。

森さんも、隠すことなく答えてくれた。


だからといって、今のこの会話をやめる理由にはならない。


「大丈夫ですよ。

 わたしはちゃんと、森さんを、“森さん”としてしか見てませんから」


笑い混じりに言う。

それは、本心だった。


男の人としてどうとか。

恋愛対象としてどうとか。

そういうふうに見るには、わたしはまだ、経験も想像力も足りない。


安心できる人。

話していて楽な人。

音を聴いてくれる人。


そのぐらいの距離感。


……だと思っている。


それ以上に考えようとすると、どこかで足が止まってしまう。


コメント欄に、『それが一番やばい』『いちばん危ない距離感だよ』と書かれているのが見えたけれど、そこには敢えて触れない。


「はいはい。

 じゃあ、もう一曲吹きます」


いつものように、笑って流す。

最近、こうやって笑って流すのが、少しだけ上手くなった気がする。


配信は、そのあともいつも通り続いていった。

リクエスト曲を何曲か。

雑談を少し。

森さんが話を振ってくれて、他のリスナーさんが広げてくれて。


気づけば、終了予定時間を少しだけオーバーしていた。


「じゃあ、そろそろ終わりますね。

 今日も聴いてくれてありがとうございました」


手を振って、いつもの挨拶をする。


『おつかれさま』

『今日もよかった』

『ぐっすり眠れそう』


コメント欄に、「おやすみ」が増えていく。


その中に、森さんの


『今日も楽しかったです。

 ゆっくり休んでね』


というコメントが流れてきて、終わり際なのに、胸の奥がふっとあたたかくなる。


「森さんも、ちゃんと寝てくださいね。

 途中で静かになったら、また“起きてますか”って聞きますから」


そう言って、笑う。


『それ、楽しみにして寝ます』


最後のコメントを見届けてから、配信を切る。


画面が暗くなった瞬間、部屋の空気が、さっきまでとは別のものになる。

静か。

音のない夜。


ソファに倒れ込む。

天井を見ながら、大きく息を吐く。


「……たのしかった」


ぽつりと漏れた言葉は、誰のものでもない、ただの本音だった。


それがどういう意味を持つのかなんて、まだちゃんと考えられない。

考えようとしても、思考が途中でふわっと浮いてしまう。


ただ、ひとつだけ、はっきりしていることがある。


――次の配信でも、森さんが来てくれたらいいな。


その願いが、胸のいちばん奥のほうに、柔らかく沈んでいた。

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