Part18 一歩手前
【弓視点】
朝、目が覚めた瞬間から、胸の奥がそわそわしていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもの部屋を少しだけ違って見せる。
スマホを手に取る。
画面には、昨日の夜の通話履歴と、最後のメッセージが残っていた。
「明日、気をつけておいでね」
「うん。森さんも、ちゃんと寝てください」
あのあとやっと眠ったのは、空が少し白み始めた頃だった。
それなのに、アラームが鳴る前に目が覚めてしまうあたり、自分でもちょっと笑えてくる。
「……遠足前の小学生か」
布団の中でそうつぶやいてから、勢いよく起き上がった。
二度寝なんてしたら、本当に取り返しがつかない。
服を選ぶ。
「海」と「森さん」と「歩く」が同時に成り立つ格好ってなんだろうと、クローゼットの前でしばらく固まる。
かわいくしすぎると自分でもなんか引くし、女を出してると思われたくない。
でも、あまりに適当だと、せっかくの自然がもったいない気もしてくる。
結局、ゆるっとした白のブラウスに、動きやすいロングスカート、足元は歩き慣れたスニーカーにした。
風が強くても大丈夫なように、薄手のパーカーもバッグに入れる。
「よし」
鏡の前で小さくガッツポーズをする。
メイクは、配信よりもずっと薄く。
画面越しのライティングは味方してくれるけど、外の光はごまかしがきかない。
「森さん、びっくりするかな」
「……いや、別にわたしを見に来るわけじゃないし」
自分で自分に突っ込みを入れて、苦笑する。
でも、心のどこかで、少しだけ“女の子”でいたいと思っているのも事実だった。
最寄り駅まで歩く道すがら、空を見上げる。
雲は多いけど、ところどころ光が抜けている。
雨にはならなさそうだ。
改札を抜け、電車に乗り込む。
座席に腰を下ろしてから、ようやく深呼吸をした。
スマホを取り出して、森さんとのトーク画面を開く。
「今電車乗りました」
そう打ってから、一瞬迷う。
送るほどのことでもないかもしれない。
でも、こうやって誰かに「今から行くよ」って伝えられるの、なんだか久しぶりな気がした。
送信ボタンを押す。
数分もしないうちに、返信が届く。
「了解。駅で待ってます」
「気をつけてね」
その短い文章に、妙な安心感を覚える。
絵文字もスタンプもないのに、ちゃんと優しさがにじんでいる。
窓の外を眺める。
景色が流れていくたびに、少しずつ、日常が遠ざかっていくみたいだった。
昨日までのわたしは、彼氏と喧嘩をして、別れを決めて、電話越しに泣いた。
自分で自分に呆れるくらい、感情のジェットコースターだった。
でも、今は――
胸の中にあるのは、後悔でも不安でもなくて、「楽しみ」という言葉に近い何かだ。
「こんなこと、していいのかな」
窓ガラスに映った自分の顔に、そっと問いかける。
答えは返ってこない。
その代わりに、昨日の夜の森さんの声が、耳の奥でふわりと蘇る。
「弓さんが今日、少しでも軽くなれたらいいなって思うよ」
「自然の力も借りながら、ね」
あの言葉を思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
誰かに“軽くなってほしい”って心から言ってもらえることが、こんなに救いになるなんて、知らなかった。
電車は、いつもの生活圏を抜けて、少しずつ知らない風景に変わっていく。
海に近づいている気配が、空気の色でわかる。
しばらくして車内アナウンスが流れ、目的の駅名が告げられた。
バッグを持ち直し、立ち上がる。
改札を抜けた先にあるロータリーには、タクシーと数台の車が停まっていた。
その中で、ひときわ見慣れないナンバーの車のそばに、背の高い男性が立っている。
森さんだった。
スーツじゃなくて、ラフなシャツにチノパン。
配信で見えていた上半身の印象よりも、ずっと“現実の男の人”という感じがする。
「弓さん」
名前を呼ばれて、思わず背筋が伸びた。
手を軽く振ると、森さんも笑って小さく会釈した。
「お疲れさま。電車、混んでなかった?」
「そこまででもなかったです。ちゃんと座れました」
「それはよかった」
近づいていくと、彼の服から、ほんのりと柔らかい洗剤の匂いがした。
配信では絶対にわからない部分だ。
「車、こっちです」
トランクを開けてくれたので、バッグを中に入れる。
助手席のドアを開けて待ってくれているのが、なんだか妙にくすぐったい。
「すみません、なんか送迎させちゃって」
「いやいや、こっちのほうが俺も楽なんで。電車乗り継ぎさせるほうが申し訳ないですよ」
乗り込んで、シートベルトを締める。
エンジンがかかる音がして、ゆっくりと車が動き出す。
窓の外に流れていく景色を眺めながら、しばらく何を話そうか迷っていたら、先に森さんが口を開いた。
「緊張してる?」
「……してますね、たぶん」
「だよね」
あっさり認めたら、彼は少し笑った。
「俺もしてるから、安心して」
「森さんがですか?」
「そりゃそうですよ。いつも画面の中にいた人が、こうして助手席にいるんだから」
その言い方が冗談半分なのはわかるのに、胸の奥がふわっと浮き上がる。
「変な感じですよね」
「うん。配信の時は、“枠”っていう箱の中で会ってたのにね」
「たしかに。ここ、完全に現実ですもんね」
言いながら、自分でおかしくなって笑ってしまう。
配信のコメント欄みたいに、文字が流れていくわけじゃない。
スタンプも、ギフトもない。
代わりにあるのは、同じ空気と、同じ音と、同じ時間だけだ。
「海、もうすぐ見えると思うよ」
「ほんとですか」
そう言われた瞬間、さっきまでの緊張が少し溶けた。
わたしはやっぱり、自然に対しては素直だ。
しばらく走ると、開けた場所に出て、遠くにきらきらしたものが見えた。
水平線までは見えないけど、確かに海だ。
「うわぁ……」
思わず声が漏れる。
ガラス越しでもわかる、あの塩っぽい光の反射。
胸の奥がすっとしていく。
「良かった。海、ちゃんと海してるね」
「どういう評価ですか、それ」
「たまにあるんですよ。海って聞いてたのに、ただの広めの川みたいなとこ」
くだらないことを言って笑わせようとしてくれているのがわかる。
そういうところが、森さんっぽい。
海沿いの駐車場に車を停めると、風の音が急に大きくなった。
ドアを開けた瞬間、潮の匂いが一気になだれ込んでくる。
「わ、風つよ」
「気をつけて。ドア、持っててね」
スカートの裾を押さえながら、車から降りる。
風が頬を叩くように吹き抜けていくけど、その冷たさが妙に心地いい。
「やっぱり、海すきだなぁ」
思ったままの言葉が、口からするすると出ていく。
わたしの悪い癖でもあり、いいところでもある。
「顔が完全に“好きな場所に来た人”の顔してる」
「してます?」
「してるしてる」
森さんの声には、少しだけ誇らしげな響きがあった。
まるで、自分がこの海をプレゼントしたみたいな言い方だ。
「部長さん、ポイント高いですよ」
「元部長ね」
「元・部長さん」
「その“元”をつけると、一気に世知辛い感じになるからやめてほしいな」
そう言いながら、彼は海の方を指さした。
「少し歩きましょうか」
「はい」
海沿いの遊歩道を並んで歩く。
でも、べったり横にくっつくわけじゃなくて、微妙に一人分くらいの距離が空いている。
その距離感が、今のわたしたちの関係をそのまま形にしたみたいだった。
「そういえば」
「はい」
「昨日の演奏、ほんとによかったよ」
「……ありがとうございます」
中学校のホールで吹いた、あの曲。
教え子たちの音と、自分の音が交じり合ったあの時間を思い出して、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
「あのあと、彼氏さんとは話せた?」
その言葉が出てくることは、予想していた。
でも、いざ聞かれると、喉の奥が少しだけ詰まる。
「話しました。ちゃんと、別れました」
風の音に紛れないように、でも大きすぎない声で言う。
森さんは、わたしのほうをちらっと見てから、前を向いた。
「……そうなんだ」
「はい」
返事が短くなってしまう。
でも、そこに余計な言葉を足すのは違う気がした。
しばらく、波の音だけが聞こえる時間が続いた。
「寂しい?」
「……うーん」
少し考える。
寂しい、のかもしれない。
でも、それが“彼氏と別れたから”寂しいのかというと、少し違う気もする。
「なんか、長く住んでた部屋を引き払った、みたいな感じです」
「ほう」
「好きとか嫌いとかじゃなくて、そこにあるのが当たり前だったものが、急になくなったっていうか」
「なるほどね」
森さんは、納得したように何度か頷いた。
「でも、いなくなってみたら、前より深く息が吸える部屋ってあるよね」
「……あるかもしれないです」
自分で言っておきながら、少しだけ笑ってしまう。
本当はとっくに、気持ちは冷めていた。
わたしに家事をちゃんとしてほしい彼と、演奏と配信に全力を注ぎたいわたし。
求めているものが、最初からずれていたのかもしれない。
「掃除、そんなに苦手?」
「苦手ですね。というか、興味が持てないっていうか」
「正直でよろしい」
笑いながら、森さんは続けた。
「でも、それがダメだって思わなくていいと思うけどな」
「え」
「弓さんは、音楽と自分に向き合うことで、いろんなものをちゃんと見てるじゃないですか」
「ちゃんと……見てるんですかね」
「俺からしたら、すごく、まっすぐ見てるように見えるよ」
その言葉は、思いのほかまっすぐに胸に飛び込んできた。
「掃除が得意で、家事が完璧で、いつもニコニコしてる人が“いい彼女像”って、世の中的には言われがちだけどさ」
「言われがちですね」
「でも、弓さんが弓さんじゃなくなったら、あの音は出ないと思う」
一瞬、足が止まりそうになった。
それくらい、その言葉はわたしにとって危険だった。
「……そんな風に思ってくれる人、いなかったです」
正直な気持ちが、口から零れる。
今まで、わがままだとか、自己中心的だとか、もっとしっかりしろとか、そういうことはたくさん言われてきた。
それが全部、自分の欠点だと思っていた。
「いや、普通は言わないよね」
「普通ってなんですか」
「“普通”は、弓さんの音を聴いてない人たちのほうだと思うよ」
風が、また強く吹いた。
髪が乱れて、慌てて耳にかけ直す。
「なんか……ずるいですね、森さん」
「どのへんが」
「そんなこと言われたら、すごく、楽になっちゃうじゃないですか」
本当は、“好きになっちゃうじゃないですか”と続けそうになって、慌てて飲み込む。
それは言っちゃいけないやつだ。
「楽になっていいんですよ」
「簡単に言いますね」
「だって、俺は弓さんの生活を管理する立場じゃないから」
「たしかに」
その軽口が、妙に心地いい。
彼氏だった人とは、もうずいぶん前から、こういう会話をしていなかった気がする。
「ねぇ、森さん」
「うん」
「森さんって、大人ですよね」
「年齢的にはね」
「そうじゃなくて」
少しだけ立ち止まって、海のほうを見る。
光が水面で細かく砕けて、またひとつに戻っていく。
「なんか……受け止めてくれる感じがするんです」
「弓さんを?」
「わたしとか、音とか、考えてることとか。全部」
言いながら、自分でちょっと照れくさくなった。
でも、一度口に出してしまったものは、もう引っ込められない。
森さんは、少しだけ黙ったあとで、ゆっくりと息を吐いた。
「受け止めたいと思ってるのは、たしかかな」
「……」
その言い方がずるい。
“好き”とか“特別”とか、直接的な言葉は使わないくせに、それ以上の温度を持っている。
「でも、俺も完璧な大人じゃないですよ」
「そうなんですか」
「むしろ、けっこうどうしようもないところ、いっぱいある」
「例えば?」
「例えば……弓さんのこういうところを、素直に“素敵だ”って思っちゃうところとか」
一瞬、呼吸が止まった。
「今のは……どうしようもないんですか?」
「立場的にはね」
既婚者。
その一言が、頭の片隅で赤く点滅する。
「ごめん。変な空気にしたくはないんだけど」
「……大丈夫です」
大丈夫じゃないけど、大丈夫だと言うしかない。
わたしだって、森さんを“そういう目”で見ないようにしている。
これはファンサであり、感謝であり、尊敬であり――
そこに別の色を混ぜてしまったら、全部が壊れてしまう気がする。
「ね、森さん」
「うん」
「今日は、自然ツアーなんですよね」
「そう、そのつもり」
「海の次はどこですか」
「山。そのあと、川」
「フルコースですね」
「することがない、とも言う」
正直すぎる。
でも、その正直さがうれしい。
「でも、いいです。なんか……何もないことを、一緒にしてる感じがして」
「それ、けっこう最高の褒め言葉かもしれない」
森さんが笑う。
わたしもつられて笑った。
何か特別なことをするわけでもない。
テーマパークに行くわけでもないし、高級なご飯を食べるわけでもない。
ただ、海を見て、山に行って、川の音を聞くだけ。
その“だけ”が、今のわたしには何より贅沢だった。
「じゃあ、そろそろ次のポイント行きますか」
「はい」
車に戻る途中、ふと、森さんの横顔を盗み見る。
配信のコメント欄越しに見ていた“森の人”とは違う、現実の輪郭。
笑ったときに少しだけ目尻にしわが寄るのも、真剣な顔のときに顎が固くなるのも、今日初めて知った。
「楽しいなぁ」
小さくつぶやいたつもりが、思ったよりも声に出てしまったらしい。
森さんが振り向く。
「なにが?」
「全部です」
そう答えたら、彼は少しだけ目を細めた。
「よかった」
その一言に、変な意味なんてない。
ないはずだ。
でも、胸のどこかが危うく熱を帯びる。
この人は、線を引こうとしている。
わたしも、線を引かなきゃいけないことくらいわかってる。
なのに、その線ぎりぎりのところで、ふたりとも立ち止まろうとしない。
「次も……会えるのかな」
心の中だけでそうつぶやいて、わたしは車のドアに手をかけた。
今日一日が終わる頃には、きっとまたひとつ、戻れない地点を踏んでいる。
そんな予感だけが、潮風と一緒に、胸の奥に残り続けていた。




