Part16 海に溶ける音
(弓視点)
待ち合わせの駅に近づくにつれて、息が少しずつ浅くなっているのがわかった。
昨日あれだけ泣いたのに、胸の奥には妙な軽さと、同じくらいの落ち着かなさが残っていた。
浮き上がるみたいな気持ちと、不安みたいな気持ちが、同じ場所で静かに混ざっていた。
電車が減速して、ゆっくりとホームに入っていく。
窓に映った自分は、眠そうで、でも、どこか明るかった。
昨日の夜から、心がずっと騒いでいた。
改札を出た瞬間、湿った風が足元にまとわりついて、思わず立ち止まる。
人の流れの向こうに、ひとりだけ動かない影が見えた。
森さんだった。
思ったより背が高くて、落ち着いていて、昨日電話で聞いた声より少し硬い空気をまとっていた。
でも、その静けさに触れた瞬間、心がすっと落ち着いた。
「弓さん」
それだけで、胸がひとつ跳ねた。
わたしは軽く会釈する。
「おはようございます」
「おはようございます。電車、混んでませんでした?」
「だいじょうぶでした。けっこう座れました」
「良かった。じゃあ、行きましょうか」
自然に歩幅を合わせてくれるのが、なんだか不思議だった。
車のドアを開けてくれて、乗り込むと、ふわっと落ち着いた匂いがした。
エンジンの音がゆっくりと広がる。
わたしは窓の外に流れていく景色を見ながら、胸の奥のざわつきを押さえるように深呼吸した。
「まず海、行きませんか?今日、すごく天気いいから」
「うん……海、好きです」
「ですよね。なんとなくそんな気がして」
森さんの声が、ゆっくりと心の奥まで染みていく感じがした。
なんでだろう。
そんなに長く知ってるわけじゃないのに、“聞いていたい”と思ってしまう。
車が海沿いに近づくにつれて、空の色が変わっていった。
手前の淡い青と、奥の深い青のあいだに、光がいくつも重なっていた。
「すご……」
思わず声が漏れた。
風が強くて、前髪が揺れた。
海の音が、胸の奥に直接触れてくるみたいだった。
「やっぱり、来て良かったですね」
「うん……すごい、すき、こういうの……」
風が強く吹いて、身体が少し震える。
わたしは浜の方へ歩いていきながら、無意識に口を開いた。
「昨日、電話……すごかったですね」
「すごかったですね。気づいたら、朝でした」
「わたし、あんなに話せる人いないです」
「僕もですよ」
その“僕も”の響き方が、胸の奥にすっと落ちた。
よく考えたら、ちょっと危ない言葉だと思う。
でも、森さんはそんなつもりじゃない。
うん……ない、と思う。
波の音が足元に重なる。
「弓さん、眠れてます?」
「少し。森さんは?」
「僕も少しだけ。でも、不思議と体は平気です。昨日の話、いろいろ……大変でしたよね」
「うん……でも、森さんが聞いてくれたから、ぜんぶ言えた」
「……あれ、けっこう重かったですよ」
「重かったです?」
「重かった。ただ、それが嫌じゃなかった。人って、誰かにああやって話すと、ほんとに変わりますね」
心が喉までせり上がって、思わず口をつぐむ。
波の音が、代わりに胸の奥を揺らした。
「森さん……わたしって、そんな……話しやすいですか?」
「話しやすいですよ。言葉を選ばなくていいところが、すごく楽です」
「……わたしもです。森さんって……なんか……だいじょうぶって思える」
「え?」
「なんか……ね。嫌われない気がするっていうか……」
自分でも言いながら恥ずかしくなって、足元の砂を見つめる。
「弓さん」
呼ばれた声が、少しだけ優しくて、息が詰まった。
「嫌うわけないでしょう。昨日、あれだけ話したんですから」
風がまた吹く。
髪が揺れて、頬に触れた。
(やば……なに、この感じ)
女として見られたくない。
でも、こういう言葉だけは、素直に、胸に落ちてしまう。
「森さんって……大人ですよね」
「それ、褒めてくれてます?」
「褒めてます。すごい……安定してる感じ。なんか、安心する」
「それは、弓さんがそう思わせてるんですよ」
「え、わたしが?」
「昨日も言ったけど、弓さんって……音に向き合うところとか、人との距離の取り方とか、すごくまっすぐでしょう。そういう人の言葉は、けっこう響きます」
「……そんな……わたし、ただのインキャです」
「その“ただの”が、ぜんぜんただのじゃないんですよ」
胸の奥がじんわり熱くなる。
そんな風に言われたこと、今まで一度もなかった。
波の音が足元を通り抜けた。
わたしは少しだけ息を吸い込んだ。
「森さん……今日来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ。来てくれて……いや、誘ってくれて、かな」
「誘って……るのかな、わたし」
「誘われたと思いましたよ。だから、ちゃんと線は引いてます」
「あ……線はね。大事ですよね」
「大事です。僕にも家庭がありますから」
その言葉を聞いた瞬間、心がほんの少し沈んだ。
沈んだけど、それが正しい感覚なんだと思った。
だから、わたしは素直にうなずく。
「……うん。わたしも、そこは……ちゃんとわかってるつもり」
森さんが少しだけ目線をそらして、海を見た。
「でも、会えて良かったですよ。本当に」
波が静かに寄せては返す。
その音に溶けるみたいに、心がゆっくり落ち着いていった。
「つぎ……また会えるかなって……ちょっと思った」
言ってしまって、すぐ後悔する。
でも、もう遅い。
「……僕も思ってますよ」
森さんの声が、落ち着いていて、やさしかった。
海の青さがそのまま胸に広がっていくみたいだった。
「せっかくだから……このあと、山も行きません?せっかく来たんだし」
「行く。行きたい」
「じゃあ、行きましょう。時間はたっぷりあります」
「うん」
“たっぷり”という言葉に、胸がまた跳ねた。
こんな風に誰かと時間を過ごすの、いつ以来だろう。
森さんの車のほうへ歩きながら、
わたしは胸の奥で、そっと言葉を抱えた。
(また……会いたい)
それはまだ、彼には言わない。
でも、歩く足取りが少し軽くなる。
その軽さが、答えみたいに胸の中で揺れ続けていた。




