Part15 海に行こうか
【森視点】
ホテルの部屋のエアコンが、一定のリズムで風を吐き出していた。
その音と、自分の鼓動と、耳に押し当てているスマホから聞こえる息遣いが、少しずつ同じテンポになっていく。
「……ほんとに、別れたの?」
気づいたら、そう聞いていた。
問い詰めるつもりはなかったのに、確認せずにはいられなかった。
『うん。さっき、電話で言った』
弓さんの声は、泣いたあとの人の声をしていた。
しゃくり上げるような泣き方じゃなくて、静かに泣いて、涙腺のスイッチを切ったあとに残る、少しかすれた音。
『なんかね、電話切ったあと……しばらくぼーっとしてて。
急に、ちゃんとしなきゃって思って。
で、起きて……かけた』
「彼に?」
『うん』
一拍の間。
その間に、自分の中にいくつかの感情が浮かんで、沈んでいく。
安堵。嫉妬。みっともない独占欲。
それをひとつひとつ横に寄せて、言葉を選ぶ。
「なんて、言ったんですか」
『“別れたい”って。
すごいストレートでしょ』
少し笑ってみせる声音。
その軽さの裏に、緊張の残骸みたいなものが張り付いている。
「向こうは?」
『“いいよ”って』
あまりにもあっさりした返事だった。
一瞬、耳を疑う。
「“いいよ”? それだけ?」
『うん。“好きにしたら”って。
なんかさ……ずっとそうだったなって思って』
「どういう意味ですか」
『わたしが何言っても、“はいはい”って受け流される感じ。
怒られるときは怒られるけど、最後は“まぁいいけど”で終わる。
でも、今回みたいに、わたしが本当に決めたことも……“勝手にしたら”って感じで』
そこまで言って、弓さんは小さく息を吐いた。
溜め息とも違う。
何かを出し切ったあとの、空っぽになったような呼吸。
『あーあ、こんなもんだったのかなって』
「弓さん」
呼びかけると、スマホ越しに小さな「ん」が返ってくる。
「つらかったですね」
その言葉しか出てこなかった。
慰めとか、きれいごととか、説教とか。
選べる言葉はいくらでもあるのに、どれも場違いに思えた。
『……ううん。
つらいっていうより、なんか……妙に納得した』
「納得?」
『うん。“あ、やっぱり”って。
わたし、ずっと彼の中で、そういうポジションだったんだなって。
ちゃんと“向き合う相手”っていうより、なんか……“方向修正する対象”みたいな』
「方向修正、ですか」
『うん。
わたしを、“ちゃんとした女の子”にしたかったんだと思う。
掃除ができて、家事もできて、
ちゃんと毎日同じ時間に起きて、
規則正しく生活して、
人に恥ずかしくない彼女でいてくれ、みたいな』
それを悪いと言い切れない自分もいる。
誰かを整えようとするのは、彼なりの愛情の形だったのかもしれない。
ただ——
『でもさ、わたし、そんな器用じゃないし。
音楽のこと考えてたら、洗濯物畳むの忘れるし、
レッスンして帰ってきたら、そのままソファで寝ちゃうし。
たぶん、最初から“ちゃんとした彼女像”とはズレてたんだよね』
「……ズレてた、というより」
言葉を途中で飲み込む。
彼を悪者にするのは簡単だ。
でも、それを弓さんが望んでいるかどうかは別の話だ。
「弓さんは“普通の彼女像”じゃなくて、“弓さん像”で生きてるだけだと思いますよ」
『弓さん像って』
「音楽のことを中心にして、
自然のことが好きで、
子どもたちにフルート教えて、
配信で音楽を届けて。
それを優先して生きてる人の生活が、“普通の彼女像”にきっちり収まる方が不自然です」
『……』
「むしろ、そんなに簡単に“普通”に収まる弓さんだったら、
あんな音、出ないですよ」
少し間を置いてから、スマホの向こうで笑い声がした。
『なにそれ。
それ、ズルくない?』
「ズルいですか」
『ズルいよ。
そんなこと言われたらさ……
なんか、今まで怒られてたのも、“まあいっか”って気になるじゃん』
「怒られたことを“まあいっか”にするために言ったわけじゃないですけどね」
『でも、そう聞こえる。
森さん、言葉、上手い』
「仕事柄、女性と話す機会は多かったので」
『あ、出た。本部長キャリア』
少し誇らしげに言われて、思わず苦笑いする。
『でもね……なんか、感覚が違うの』
「感覚?」
『うん。
森さん、わたしのこと“女”として見てる感じがあんまりしない』
その言葉に、一瞬だけ胸がざわつく。
図星を刺されたような感覚と、少しだけ残念なような、混ざった感情。
『ごめん、変な意味じゃなくて。
なんか、“人として”見てくれてる感じがするっていうか』
「ああ……」
『だから、話してても怖くない。
“こうしなよ”“そういうとこダメだよ”って上から言ってこないし、
わたしの話、ちゃんと最後まで聞いてくれるし』
その「怖くない」という言葉が、妙に胸に残った。
怖くない大人。
それは、かつて自分がなりたかったものでもある。
『さっきさ、“音楽に向き合ってる人の生活だ”って言ってくれたじゃん』
「言いましたね」
『ああいうふうに思ってくれた人、いなかった。
みんな、“ちゃんと仕事しなよ”とか、“趣味はほどほどにな”とか……そんな感じで』
「弓さんの音楽は、趣味の域を超えてますからね」
『……』
「僕は少なくとも、
弓さんの音を“片手間でやってること”だとは、一度も思ったことないですよ」
『森さんって、ほんと大人だよね』
「さっきも言われました」
『もう一回言う。
大人だよね。
ちゃんと話聞いてくれて、ちゃんと返してくれる大人』
「だてに年は食ってないので」
『なんかさ、森さんと話してると……落ち着く。
なんだろ……
わたしのこと、否定されない感じ』
それは、思っていたよりもずっと重い言葉だった。
“否定されない”という感覚を、彼女がどれだけ渇望してきたか。
たぶん本人は、自覚していない。
「弓さんは、否定されるような生き方してないですからね」
『してたんだよ、あの人の前では』
少しだけ、苦笑いが混じる。
『掃除できないし。
片付けも下手だし。
朝も弱いし。
感情の波も激しいし。
彼氏から見たら、たぶん“ダメ彼女”だったと思う』
「……ダメだと思って離れていくなら、それはそれでいいんじゃないですか」
『え』
「弓さんを“ちゃんとした彼女”にしようとした人と、
弓さんをそのまま、“弓さんとして”見てる人と。
どっちと一緒にいる方が楽かって話です」
『……』
沈黙が落ちた。
さっきまでよりも、少しだけ重い沈黙。
『ねぇ、森さん』
「はい」
『わたしさ、
自分のこと“ダメな女”だって思ってたの』
その言葉には、言い慣れている響きがあった。
冗談半分に、何度も自分に貼ってきたラベルみたいな音。
『部屋も散らかってるし。
料理だって、得意ってほどじゃないし。
なんでも後回しにするし。
甘えるし、すぐ泣くし。
……なのに、音楽だけは、やめられなくて』
そこだけは、彼女の声が少し強くなった。
『音楽だけは、
ちゃんとやりたいんだよね。
サボってるくせに、ここだけは譲れなくて。
だから、余計に“ダメだな”って思ってた』
「譲れないものがある人は、強いですよ」
『強い……?』
「ええ。
譲れないもののために、他のところでバランスが崩れるのは自然です。
僕は……そういう人を、尊敬しますよ」
『尊敬』
「弓さんは、魅力的な女性だと思います」
言った瞬間、自分で少し驚いた。
“女性”という単語を、ここで使うかどうか迷ったはずなのに、口が先に動いた。
『……今、“女性”って言った』
「言いましたね」
『なんか、くすぐったい』
笑い声の中に、ほんの少しだけ緊張が混ざる。
それでも、拒絶の気配はない。
「女として、どうとかじゃなくて。
弓さんという人間が、魅力的だと思います。
音楽に対する姿勢も。
自然の話をするときの目線も。
子どもたちの話をするときの声も。
どれも、大事なものをちゃんと大事にしてる人の話し方をしている」
『……それ、さ。
もっと早く言って』
「今言いました」
『ずるいなぁ』
また、少し泣きそうな笑い声。
『あーあ。
ほんと、なんでだろうね』
「何がですか」
『森さんと、もっと早く出会ってたらさ。
わたし、もうちょっと楽に生きられてたかなって』
「それを言い出したら、キリがないですよ」
『そうだね。
今だから、このタイミングだから、なんだろうね』
その言葉に、少しだけ救われる。
『でもさ……
なんか、不思議。
森さんって、わたしを“女の子”として見てる感じ、あんまりしないのに』
「そうですか?」
『うん。
なんか、“音楽やってる人”としてしか見てない感じがする。
それがさ……
嬉しいのか、ずるいのか、自分でもよく分かんない』
嬉しい、ずるい、分からない。
その三つを一度に投げてくるのが、弓さんらしい。
「少なくとも僕は、弓さんの音楽を一番最初に好きになりました」
『一番最初』
「はい。
配信で初めて聴いたとき、
“あ、この人は本物だ”って思いました。
視聴者としてとか、男としてとかじゃなくて。
音楽をやってきた人間として、そう感じました」
『本物、かぁ』
彼女はその言葉を、ゆっくり噛みしめているようだった。
『ねぇ、森さん』
「はい」
『わたし、今日のこの決断って……間違ってないのかな』
ようやく、本音が顔を出した。
「間違ってるかどうかは、すぐには分からないと思います」
『……だよね』
「でも、
自分で決めたことを、自分の言葉で言えたのは、間違いなく前進だと思いますよ」
『前進』
「誰かに言われてじゃなくて。
“こうしなよ”って指示されたからじゃなくて。
自分で、“こうしたい”って決めて、その通りに動いた。
それだけで、十分すごいことです」
静かな沈黙が落ちる。
さっきまでの沈黙とは違って、少しだけ温度が高い。
『……ありがと』
小さな声。
そのあとに続く、深い呼吸。
『なんか、ほんと、楽になった』
「ならよかったです」
『ねえ、森さん』
「はい」
『こんな話したあとで、あれなんだけど』
一瞬、言いよどむ気配。
『自然、行きたい。
海か、山か、どっちか』
「心が傷ついたときは、海ですね」
『それ、こないだも言ってた』
「言いましたね」
『じゃあ、海がいい。
波の音、聞きたい』
彼女の声が、ほんの少しだけ明るくなる。
泣き顔のまま、前を見ようとしている音。
「じゃあ、海に行きましょう」
『ほんとに?』
「ええ。
明日はお互い休んだ方がいいでしょうから、明後日」
『明後日……行ける。
配信、休みにしちゃおうかな』
「傷ついた心のメンテナンスって書いておけば、リスナーさんも納得しますよ」
『そんな正直に書けないってば』
笑いながら言い返す。
そのやり取りが、妙に愛おしい。
『でも、行きたい。
森さんと、一緒に、海……行きたい』
あくまで“自然に行きたい”が主語で、
“森さんと”は、自然に添えられているだけ。
その距離感が、今の二人にはちょうどいい。
「じゃあ、行きましょう」
『うん』
少し間が開いて、弓さんが続けた。
『森さん』
「はい」
『わたしね。
今、ちょっとだけ、幸せだなって思ってる』
予想外の言葉だった。
『別れたのにさ。
彼氏と、完全に終わっちゃったのに。
なのに、“あ、ちゃんと終われたな”って思って。
ちゃんと終わらせたうえで、森さんと話してるのが……なんか、安心する』
「……」
『きっと、今だけなんだろうけどね。
あとで、いろいろ面倒な気持ちも出てくるんだろうけど』
そう言いながら、彼女は自分で自分を少しだけ守ろうとしていた。
「今、そう思えてるなら、それは本物だと思いますよ」
『本物』
「後で気持ちが変わるかどうかは、今の本物さとは別の話ですから」
『森さんって、そういう言い方するよね』
「どういう言い方ですか」
『なんかさ、“ダメじゃないよ”って、ちゃんと言ってくれる感じの言い方』
少しだけ照れたような声。
それを聞いて、胸の奥が温かくなった。
『ねぇ、森さん』
「はい」
『海、行ったらさ。
なんか、“お疲れさま”って言ってくれる?』
「もちろんですよ」
即答だった。
考えるまでもない。
「“よく頑張りました”も、セットで言います」
『ふふ……それ、欲しいかも』
笑いながら、彼女が言う。
『じゃあ、今日は寝るね。
明日、ちゃんと起きて……なんか、片付けでもしよっかな』
「無理しない程度にしてくださいね」
『はーい。
森さんも、ちゃんと寝てね』
「弓さんに言われると、従わざるをえないですね」
『それ、なんか嬉しい』
嬉しそうな声。
そのあとに続く小さな沈黙が、名残惜しさの形をしていた。
『……森さん』
「はい」
『ほんとに、ありがと』
その「ありがとう」は、
さっきまでのどの言葉よりも、ゆっくり胸の奥に沈んでいった。
「こちらこそ。
話してくれて、ありがとうございます」
通話が切れたあと、しばらくスマホを胸の上に置いたまま目を閉じる。
暗闇の中で、弓さんの声と、彼女の選んだ言葉と、決めた未来が、何度も浮かんでは消えていく。
海に行く。
二人で。
それが、ただの“自然へのお出かけ”で終わればいい。
本当は、そう願う自分もいる。
けれど——
あの夜の声を思い出すたびに、胸のどこかで別の感情が顔を出す。
(それでも、行きたいと思ってしまったのは……俺のエゴだ)
その事実だけを、誰にも見せない場所にそっと沈めて、明かりを消した。
まぶたの裏に、暗い海と、まだ見ぬ波の音が浮かんでいた。




