表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ライバーさんとの甘い罠  作者: 困ったクマー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/62

Part15 海に行こうか

【森視点】


ホテルの部屋のエアコンが、一定のリズムで風を吐き出していた。

その音と、自分の鼓動と、耳に押し当てているスマホから聞こえる息遣いが、少しずつ同じテンポになっていく。


「……ほんとに、別れたの?」


気づいたら、そう聞いていた。

問い詰めるつもりはなかったのに、確認せずにはいられなかった。


『うん。さっき、電話で言った』


弓さんの声は、泣いたあとの人の声をしていた。

しゃくり上げるような泣き方じゃなくて、静かに泣いて、涙腺のスイッチを切ったあとに残る、少しかすれた音。


『なんかね、電話切ったあと……しばらくぼーっとしてて。

 急に、ちゃんとしなきゃって思って。

 で、起きて……かけた』


「彼に?」


『うん』


一拍の間。

その間に、自分の中にいくつかの感情が浮かんで、沈んでいく。

安堵。嫉妬。みっともない独占欲。

それをひとつひとつ横に寄せて、言葉を選ぶ。


「なんて、言ったんですか」


『“別れたい”って。

 すごいストレートでしょ』


少し笑ってみせる声音。

その軽さの裏に、緊張の残骸みたいなものが張り付いている。


「向こうは?」


『“いいよ”って』


あまりにもあっさりした返事だった。

一瞬、耳を疑う。


「“いいよ”? それだけ?」


『うん。“好きにしたら”って。

 なんかさ……ずっとそうだったなって思って』


「どういう意味ですか」


『わたしが何言っても、“はいはい”って受け流される感じ。

 怒られるときは怒られるけど、最後は“まぁいいけど”で終わる。

 でも、今回みたいに、わたしが本当に決めたことも……“勝手にしたら”って感じで』


そこまで言って、弓さんは小さく息を吐いた。

溜め息とも違う。

何かを出し切ったあとの、空っぽになったような呼吸。


『あーあ、こんなもんだったのかなって』


「弓さん」


呼びかけると、スマホ越しに小さな「ん」が返ってくる。


「つらかったですね」


その言葉しか出てこなかった。

慰めとか、きれいごととか、説教とか。

選べる言葉はいくらでもあるのに、どれも場違いに思えた。


『……ううん。

 つらいっていうより、なんか……妙に納得した』


「納得?」


『うん。“あ、やっぱり”って。

 わたし、ずっと彼の中で、そういうポジションだったんだなって。

 ちゃんと“向き合う相手”っていうより、なんか……“方向修正する対象”みたいな』


「方向修正、ですか」


『うん。

 わたしを、“ちゃんとした女の子”にしたかったんだと思う。


 掃除ができて、家事もできて、

 ちゃんと毎日同じ時間に起きて、

 規則正しく生活して、

 人に恥ずかしくない彼女でいてくれ、みたいな』


それを悪いと言い切れない自分もいる。

誰かを整えようとするのは、彼なりの愛情の形だったのかもしれない。

ただ——


『でもさ、わたし、そんな器用じゃないし。

 音楽のこと考えてたら、洗濯物畳むの忘れるし、

 レッスンして帰ってきたら、そのままソファで寝ちゃうし。

 たぶん、最初から“ちゃんとした彼女像”とはズレてたんだよね』


「……ズレてた、というより」


言葉を途中で飲み込む。

彼を悪者にするのは簡単だ。

でも、それを弓さんが望んでいるかどうかは別の話だ。


「弓さんは“普通の彼女像”じゃなくて、“弓さん像”で生きてるだけだと思いますよ」


『弓さん像って』


「音楽のことを中心にして、

 自然のことが好きで、

 子どもたちにフルート教えて、

 配信で音楽を届けて。


 それを優先して生きてる人の生活が、“普通の彼女像”にきっちり収まる方が不自然です」


『……』


「むしろ、そんなに簡単に“普通”に収まる弓さんだったら、

 あんな音、出ないですよ」


少し間を置いてから、スマホの向こうで笑い声がした。


『なにそれ。

 それ、ズルくない?』


「ズルいですか」


『ズルいよ。

 そんなこと言われたらさ……

 なんか、今まで怒られてたのも、“まあいっか”って気になるじゃん』


「怒られたことを“まあいっか”にするために言ったわけじゃないですけどね」


『でも、そう聞こえる。

 森さん、言葉、上手い』


「仕事柄、女性と話す機会は多かったので」


『あ、出た。本部長キャリア』


少し誇らしげに言われて、思わず苦笑いする。


『でもね……なんか、感覚が違うの』


「感覚?」


『うん。

 森さん、わたしのこと“女”として見てる感じがあんまりしない』


その言葉に、一瞬だけ胸がざわつく。

図星を刺されたような感覚と、少しだけ残念なような、混ざった感情。


『ごめん、変な意味じゃなくて。

 なんか、“人として”見てくれてる感じがするっていうか』


「ああ……」


『だから、話してても怖くない。

 “こうしなよ”“そういうとこダメだよ”って上から言ってこないし、

 わたしの話、ちゃんと最後まで聞いてくれるし』


その「怖くない」という言葉が、妙に胸に残った。


怖くない大人。

それは、かつて自分がなりたかったものでもある。


『さっきさ、“音楽に向き合ってる人の生活だ”って言ってくれたじゃん』


「言いましたね」


『ああいうふうに思ってくれた人、いなかった。

 みんな、“ちゃんと仕事しなよ”とか、“趣味はほどほどにな”とか……そんな感じで』


「弓さんの音楽は、趣味の域を超えてますからね」


『……』


「僕は少なくとも、

 弓さんの音を“片手間でやってること”だとは、一度も思ったことないですよ」


『森さんって、ほんと大人だよね』


「さっきも言われました」


『もう一回言う。

 大人だよね。

 ちゃんと話聞いてくれて、ちゃんと返してくれる大人』


「だてに年は食ってないので」


『なんかさ、森さんと話してると……落ち着く。

 なんだろ……

 わたしのこと、否定されない感じ』


それは、思っていたよりもずっと重い言葉だった。

“否定されない”という感覚を、彼女がどれだけ渇望してきたか。

たぶん本人は、自覚していない。


「弓さんは、否定されるような生き方してないですからね」


『してたんだよ、あの人の前では』


少しだけ、苦笑いが混じる。


『掃除できないし。

 片付けも下手だし。

 朝も弱いし。

 感情の波も激しいし。


 彼氏から見たら、たぶん“ダメ彼女”だったと思う』


「……ダメだと思って離れていくなら、それはそれでいいんじゃないですか」


『え』


「弓さんを“ちゃんとした彼女”にしようとした人と、

 弓さんをそのまま、“弓さんとして”見てる人と。


 どっちと一緒にいる方が楽かって話です」


『……』


沈黙が落ちた。

さっきまでよりも、少しだけ重い沈黙。


『ねぇ、森さん』


「はい」


『わたしさ、

 自分のこと“ダメな女”だって思ってたの』


その言葉には、言い慣れている響きがあった。

冗談半分に、何度も自分に貼ってきたラベルみたいな音。


『部屋も散らかってるし。

 料理だって、得意ってほどじゃないし。

 なんでも後回しにするし。

 甘えるし、すぐ泣くし。


 ……なのに、音楽だけは、やめられなくて』


そこだけは、彼女の声が少し強くなった。


『音楽だけは、

 ちゃんとやりたいんだよね。

 サボってるくせに、ここだけは譲れなくて。

 だから、余計に“ダメだな”って思ってた』


「譲れないものがある人は、強いですよ」


『強い……?』


「ええ。

 譲れないもののために、他のところでバランスが崩れるのは自然です。


 僕は……そういう人を、尊敬しますよ」


『尊敬』


「弓さんは、魅力的な女性だと思います」


言った瞬間、自分で少し驚いた。

“女性”という単語を、ここで使うかどうか迷ったはずなのに、口が先に動いた。


『……今、“女性”って言った』


「言いましたね」


『なんか、くすぐったい』


笑い声の中に、ほんの少しだけ緊張が混ざる。

それでも、拒絶の気配はない。


「女として、どうとかじゃなくて。

 弓さんという人間が、魅力的だと思います。


 音楽に対する姿勢も。

 自然の話をするときの目線も。

 子どもたちの話をするときの声も。


 どれも、大事なものをちゃんと大事にしてる人の話し方をしている」


『……それ、さ。

 もっと早く言って』


「今言いました」


『ずるいなぁ』


また、少し泣きそうな笑い声。


『あーあ。

 ほんと、なんでだろうね』


「何がですか」


『森さんと、もっと早く出会ってたらさ。

 わたし、もうちょっと楽に生きられてたかなって』


「それを言い出したら、キリがないですよ」


『そうだね。

 今だから、このタイミングだから、なんだろうね』


その言葉に、少しだけ救われる。


『でもさ……

 なんか、不思議。


 森さんって、わたしを“女の子”として見てる感じ、あんまりしないのに』


「そうですか?」


『うん。

 なんか、“音楽やってる人”としてしか見てない感じがする。


 それがさ……

 嬉しいのか、ずるいのか、自分でもよく分かんない』


嬉しい、ずるい、分からない。

その三つを一度に投げてくるのが、弓さんらしい。


「少なくとも僕は、弓さんの音楽を一番最初に好きになりました」


『一番最初』


「はい。

 配信で初めて聴いたとき、

 “あ、この人は本物だ”って思いました。


 視聴者としてとか、男としてとかじゃなくて。

 音楽をやってきた人間として、そう感じました」


『本物、かぁ』


彼女はその言葉を、ゆっくり噛みしめているようだった。


『ねぇ、森さん』


「はい」


『わたし、今日のこの決断って……間違ってないのかな』


ようやく、本音が顔を出した。


「間違ってるかどうかは、すぐには分からないと思います」


『……だよね』


「でも、

 自分で決めたことを、自分の言葉で言えたのは、間違いなく前進だと思いますよ」


『前進』


「誰かに言われてじゃなくて。

 “こうしなよ”って指示されたからじゃなくて。


 自分で、“こうしたい”って決めて、その通りに動いた。


 それだけで、十分すごいことです」


静かな沈黙が落ちる。

さっきまでの沈黙とは違って、少しだけ温度が高い。


『……ありがと』


小さな声。

そのあとに続く、深い呼吸。


『なんか、ほんと、楽になった』


「ならよかったです」


『ねえ、森さん』


「はい」


『こんな話したあとで、あれなんだけど』


一瞬、言いよどむ気配。


『自然、行きたい。

 海か、山か、どっちか』


「心が傷ついたときは、海ですね」


『それ、こないだも言ってた』


「言いましたね」


『じゃあ、海がいい。

 波の音、聞きたい』


彼女の声が、ほんの少しだけ明るくなる。

泣き顔のまま、前を見ようとしている音。


「じゃあ、海に行きましょう」


『ほんとに?』


「ええ。

 明日はお互い休んだ方がいいでしょうから、明後日」


『明後日……行ける。

 配信、休みにしちゃおうかな』


「傷ついた心のメンテナンスって書いておけば、リスナーさんも納得しますよ」


『そんな正直に書けないってば』


笑いながら言い返す。

そのやり取りが、妙に愛おしい。


『でも、行きたい。

 森さんと、一緒に、海……行きたい』


あくまで“自然に行きたい”が主語で、

“森さんと”は、自然に添えられているだけ。

その距離感が、今の二人にはちょうどいい。


「じゃあ、行きましょう」


『うん』


少し間が開いて、弓さんが続けた。


『森さん』


「はい」


『わたしね。

 今、ちょっとだけ、幸せだなって思ってる』


予想外の言葉だった。


『別れたのにさ。

 彼氏と、完全に終わっちゃったのに。


 なのに、“あ、ちゃんと終われたな”って思って。

 ちゃんと終わらせたうえで、森さんと話してるのが……なんか、安心する』


「……」


『きっと、今だけなんだろうけどね。

 あとで、いろいろ面倒な気持ちも出てくるんだろうけど』


そう言いながら、彼女は自分で自分を少しだけ守ろうとしていた。


「今、そう思えてるなら、それは本物だと思いますよ」


『本物』


「後で気持ちが変わるかどうかは、今の本物さとは別の話ですから」


『森さんって、そういう言い方するよね』


「どういう言い方ですか」


『なんかさ、“ダメじゃないよ”って、ちゃんと言ってくれる感じの言い方』


少しだけ照れたような声。

それを聞いて、胸の奥が温かくなった。


『ねぇ、森さん』


「はい」


『海、行ったらさ。

 なんか、“お疲れさま”って言ってくれる?』


「もちろんですよ」


即答だった。

考えるまでもない。


「“よく頑張りました”も、セットで言います」


『ふふ……それ、欲しいかも』


笑いながら、彼女が言う。


『じゃあ、今日は寝るね。

 明日、ちゃんと起きて……なんか、片付けでもしよっかな』


「無理しない程度にしてくださいね」


『はーい。

 森さんも、ちゃんと寝てね』


「弓さんに言われると、従わざるをえないですね」


『それ、なんか嬉しい』


嬉しそうな声。

そのあとに続く小さな沈黙が、名残惜しさの形をしていた。


『……森さん』


「はい」


『ほんとに、ありがと』


その「ありがとう」は、

さっきまでのどの言葉よりも、ゆっくり胸の奥に沈んでいった。


「こちらこそ。

 話してくれて、ありがとうございます」


通話が切れたあと、しばらくスマホを胸の上に置いたまま目を閉じる。

暗闇の中で、弓さんの声と、彼女の選んだ言葉と、決めた未来が、何度も浮かんでは消えていく。


海に行く。

二人で。


それが、ただの“自然へのお出かけ”で終わればいい。

本当は、そう願う自分もいる。


けれど——

あの夜の声を思い出すたびに、胸のどこかで別の感情が顔を出す。


(それでも、行きたいと思ってしまったのは……俺のエゴだ)


その事実だけを、誰にも見せない場所にそっと沈めて、明かりを消した。


まぶたの裏に、暗い海と、まだ見ぬ波の音が浮かんでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ