Part14 潮の兆し
【弓視点】
朝、カーテンの隙間からこぼれた光が、
まぶたの裏でじわっと広がった。
あったかいような、ちょっとまぶしいような色。
でも、胸の奥は重かった。
しばらく目を閉じたまま、
吸って、吐いてを数える。
五回くらい繰り返して、
やっと、現実に戻る覚悟ができた。
そっと目を開ける。
視界に飛び込んできたのは、
見慣れた天井と、散らかった部屋。
ソファの上には、途中まで畳んで力尽きた洗濯物。
テーブルには、フルートケースと、開きっぱなしの楽譜。
昨日飲んだペットボトルのお茶。
(……あー、絶対、あれ見てまた怒ったよな)
枕元のスマホに手を伸ばす。
画面をつけると、通知が一つ。
《今日、夕方行く。部屋、ちゃんとしておけよ》
短い文なのに、
胸のあたりがきゅっと縮む。
(朝イチでそれ……)
ため息が、喉の奥で丸くなった。
彼氏。
一応そういうことになっている人。
とはいえ、
一緒に住んでいるわけじゃない。
月に一回、多くて週に一度。
思い出したように「行くわ」と連絡が来て、
そのたびに、部屋の状態や、わたしの生活態度に
あれこれ注文をつけてくる。
来ていないあいだ、
わたしがどう生きてるかには興味がないくせに。
(ああいうの、なんて言うんだろ……“生活指導”?)
自分で心の中でそんなあだ名をつけて、
ちょっとだけ笑いそうになるけど、
口角は上がらなかった。
昨日の夜のことが、
湿ったフィルムみたいに、頭の中に貼りついている。
***
昨日。
夕方、彼が来た。
玄関を開けた瞬間、
部屋を一瞥しただけで顔が曇った。
「……またこれかよ」
靴も脱ぎきっていないのに、
二言目には部屋の話。
悪気なく散らかった洗濯物の山が、
途端に犯罪現場みたいな意味を持ちはじめる。
「ごめん。今日は中学校の子たちのレッスンがあって、
帰ってきたらもうくたくたで……」
「はい出た、“レッスンが”ね」
眉間にシワを寄せて、
彼はテーブルの上の楽譜をぐいっと端に寄せた。
「お前さ、
仕事と趣味を言い訳にするの、そろそろやめた方がいいと思うよ」
「趣味じゃない。これも仕事だよ」
思わず、いつもより強い声が出た。
自分でも驚くくらい。
「はいはい。
でもな、女なんだからさ、
せめて人を家に呼べるくらいにはしておこうよ。
普通だろ、それくらい」
“女なんだから”
その言葉が、
ずしっと胸に落ちてくる。
(普通ってなに。
“普通の女の子”って、なんなの)
言い返したかった。
でも、口を開くと、
「でも」とか「だって」とか、
全部言い訳に聞こえそうで、
喉の奥で固まってしまう。
彼はため息をついて、
ソファの背もたれに体重を預けた。
「この前も言ったよな。
結婚するなら、きちんと家のこともできる子がいいって。
お前といると、将来のイメージが湧かないんだわ」
(じゃあ、なんでまだここに来るの)
喉まで出かかった言葉を、
ぎゅっと飲み込む。
代わりに、小さく「ごめん」とだけ言った。
ほんとは、あんまり悪いと思っていない。
でも、
ここで謝るのがいつものパターンだった。
謝れば、なんとか収まって、
わたしも面倒なことを考えなくて済んだ。
でも——
昨日は、
その「ごめん」が出ていかなかった。
彼の方が、
「またそれかよ」と笑って先に踏みつぶしたからかもしれない。
「“ごめん”って言って、
なんか変わるわけ?
変える気あんの?」
(……ああ、もういいや)
心のどこかで、
ぷつっと何かが切れる音がした。
「……もういいわ」
彼はそう言って立ち上がると、
テーブルの上から鍵を取って、玄関に向かった。
いつもなら、
ここでわたしが慌てて追いかける。
腕を掴んだり、
泣きそうな声を出したりして、
何度も「ごめん」を重ねて、
それで、なんとか扉の前で踏みとどまらせてきた。
だけど昨日は——
身体が、動かなかった。
正確に言うと、
動けなかったんじゃなくて、
動きたくなかった。
玄関のほうを見もしないまま、
ソファの上から小さく言った。
「行くなら、行けば」
自分の声とは思えないくらい、
静かで、まっすぐな音だった。
ドアが閉まる音がして、
足音が遠ざかっていく。
追いかけるタイミングはいくらでもあったのに、
わたしは一度も立ち上がらなかった。
“彼氏を追いかけなかった”
その事実だけが、
あとになってじわじわと効いてくる。
***
そして、
いま。
枕元のスマホを握りしめながら、
さっき見たメッセージをもう一度頭の中でなぞる。
《今日、夕方行く》
知らないふりをしたくなる言葉。
(来なくていいのに)
胸の中でだけ、
小さく毒づいた。
でも、今日は——
中学校の吹奏楽部の定期演奏会。
わたしがレッスンしていた子たちの本番。
彼と行く予定だった。
隣で、
適当な顔をして拍手して、
終わったあとに
「まあ、よかったんじゃない?」なんて曖昧に笑う姿が
頭の中に浮かぶ。
(……それ、いる?)
自分に問いかけて、
自分で微妙な顔になる。
「今日は、ひとりで行こ」
声に出してみたら、
思ったよりすっきりした響きになった。
***
白いブラウスに袖を通して、
落ち着いた色のスカートを合わせる。
中学生の子たちにとって、
今日がどれだけ大きな一日かは、
自分があの頃を通ってきたからよく分かる。
わたしは先生でもあり、
ただの通りすがりの大人でもある。
きちんとしていたい日。
髪を軽くまとめて、
首元に小さなピアスをつけた。
玄関でスニーカーの紐を結びながら、
ふとスマホに目をやる。
配信アプリのアイコンの中には、
昨夜の固定メッセージ。
《今日は一日お出かけなので、配信お休みします》
……“彼氏と行く”とは書いていない。
(なんか……うそついたみたい)
少し胸がチクっとしたけれど、
靴紐をきゅっと結び直して、
ドアを開けた。
外の空気は冷たくて、
思っていたよりも澄んでいた。
***
ホールまでは、
駅から歩いて十五分。
途中の商店街には、
制服姿の中学生と親らしき人たちが混ざって歩いている。
「ちゃんとあいさつするんだよ」
「うん」
そんな会話が聞こえてくる。
(いいなあ……“親子”って感じ)
わたしには、
あの子たちにとってそんな存在ではないけれど。
“フルートの先生”くらいには、
なれているだろうか。
ホールにつくと、
入口のところで先生が立っていて、
私の顔を見つけて笑った。
「今日はありがとうございます、先生」
「とんでもないです。こっちこそ、呼んでくださって」
ペコリと頭を下げると、
“先生”と呼ばれるたびに、
まだ少しくすぐったい。
席について、
プログラムを眺める。
裏面には、
一人一人のメッセージ。
「本番で緊張しないようにがんばります」
「先生、ありがとうございました」
そんな文字を見ていると、
胸の奥の重さが、
少しだけ溶けていく気がした。
照明が落ちて、
ざわざわがすっと細くなる。
指揮者の先生が出てきて、
頭を下げる。
息を吸う音。
最初の音が鳴った瞬間、
心臓のなかの何かが、ぽん、と跳ねた。
(出た……ちゃんと、出た)
リズムが微妙に揺れているところもある。
音がかすれそうになる子もいる。
でも、
全員の「やる」と決めた気持ちが、
舞台からまっすぐ届いてくる。
わたしが手を入れたフレーズも、
ちゃんと音になっていた。
(大丈夫、大丈夫……)
指先に、
あの日一緒に指回しした感覚が蘇る。
終曲の最後の一音がホールに溶けていったとき、
客席から大きな拍手が起きた。
わたしも、
精一杯手を叩いた。
誰かの親みたいな顔をしながら。
***
「先生ー!」
終演後、
廊下で声をかけられた。
レッスンのときからよくしゃべっていたフルートの子が、
汗で前髪を額に貼り付けたまま走ってくる。
「ちゃんと吹けてた?」
「うん。ちゃんと、客席まで届いてたよ」
「途中でミスっちゃってさ……」
「ミスしても、そのあとちゃんと吹き続けてたじゃん。
それが一番カッコよかったよ」
そう言いながら、
思わず頭をなでてしまう。
自分で言った言葉が、
少し自分にも返ってきて、
胸がじんとした。
(わたしも、ミスしたあとに、
ちゃんと吹き続けられてるのかな)
***
ホールを出ると、
空はもう夕方の色になっていた。
オレンジと群青の境目みたいなグラデーションが、
街のビルの間に沈んでいく。
駅までの道をひとりで歩きながら、
ポケットからスマホを取り出す。
彼からのメッセージは、
あれきり増えていなかった。
(……来る気、あるのかな)
来られても困るし、
来ないなら来ないでモヤモヤする。
その両方が、
同じくらい面倒くさい。
ホームに立って、
電車を待つあいだ、
もう一度スマホを見つめる。
配信アプリじゃないほう。
ふと指が、
ある名前のところで止まった。
「森」
山で会った日から、
ときどきメッセージをやりとりするようになった人。
リスナーで、
でも、ただの“リスナー”じゃない人。
(声、聞きたいな……)
気づいたときには、
通話ボタンに指が触れていた。
コール音が鳴りはじめて、
心臓が早くなる。
一回。
二回。
「もしもし。弓さん?」
思っていたよりも近い声が、
耳の奥に届いた。
背後に、
人のざわめきと、グラスの当たる音がする。
「……ごめん。今、もしかして、飲み会とか?」
「はい。会社の懇親会の二次会に連行されてまして」
ちょっと苦笑いが混じった声。
「やっぱりそうだよね。
ごめん、邪魔した……」
慌てて切ろうとしたとき、
彼の声が少しだけ低くなった。
「いえ。
弓さんから電話もらえるの、普通に嬉しいです」
胸の奥が、
きゅっと縮んだ。
「……あのね」
そこまで言って、
言葉が続かなくなる。
何をどう話せばいいかわからなくなって、
口の中で言葉がぐるぐる回る。
「今日さ、中学生の子たちの定期演奏会で……」
まずは、安全な話題から。
「おお、それは大事な日ですね」
「うん。
みんな、ちゃんと最後まで吹ききってさ……なんか、それだけで泣きそうになっちゃって」
「弓さん、
きっと、真剣な子たちが好きなんですね」
「うん。
一生懸命なの、好き」
会話は普通に転がっていく。
だけど、その裏でずっと、
別の言葉が喉の奥で引っかかっている。
“彼氏がいる”
その一言。
言ったほうがいいのか、
言わないほうがいいのか。
言ったら、
どう思われるんだろう。
(……隠してたいわけじゃないし)
(でも、言ったら、この感じ、変わっちゃう?)
胸の奥で、
同じ問いが何度も反響する。
その間も、
会話は続いている。
「弓さんは、今日、一人で行かれたんですか?」
その一言で、
胸の中の重石が、すっと動いた。
「……うん。
本当は、一緒に行くはずの人がいたんだけど」
「“いた”?」
彼の声が、
少しだけ慎重になるのがわかる。
「……ごめん。
なんか、変な言い方になっちゃった」
笑おうとしたのに、
上手く形にならなかった。
彼氏。
彼氏って言えばいいだけなのに。
なのに、
その二文字が、どうしても口から出てこない。
沈黙が落ちる。
電車のアナウンスが、
遠くで聞こえる。
「弓さん」
森さんが、
名前を呼ぶ。
「ん……」
「もし、話したくなかったら、
聞きません。
でも、
誰かのことを“いた”って過去形で言うときって、
ちょっと、しんどいときなんじゃないかな、って思っただけです」
心臓が、
ずきっと鳴った。
(なんで、そんなこと……)
「……森さん」
自分でも、
声が少し震えてるのがわかった。
「わたしさ」
一度、そこで息が止まる。
言わなきゃ、と思う。
でも、言いたくない、と思う。
そのどっちもが、
同じくらい強い。
「……わたし、彼氏いるんだよ」
言った瞬間、
世界が一拍止まったように感じた。
電車の音も、
周りのざわざわも、
全部遠くなる。
(言っちゃった)
喉がカラカラになって、
慌てて言葉を継ぎ足す。
「なんか……変だよね。
こんなふうに電話してるのにさ。
別に、隠してたわけじゃないんだけど……
こういうのって、なんて言えばいいのかなって思ってて……」
自分でも何を言ってるのかよくわからない。
ただ、「裏切った」と思われたくなくて、
必死に言葉を重ねている。
沈黙。
さっきまで穏やかだった沈黙とは違う、
少し重たい沈黙。
(嫌われたかな……)
胸の奥が、
ゆっくり冷たくなっていく。
そのとき、
彼の息を吸う音が聞こえた。
「……そうなんですね」
低くて、
でもちゃんと落ち着いた声。
「いて、当然ですよ」
「……当然?」
「こんなに素敵な音出す人が、
誰にも見つかってないわけがない、って思ってました」
何それ。
心臓のどこか、
油断していた場所を一撃されたみたいだった。
「でも、
“いた”って言ったのが少し引っかかってて」
静かな声で、
彼は続けた。
「その人と……何か、あったんですか?」
「……うん」
胸の奥で、
昨日の夜のシーンが、
もう一度流れはじめる。
「昨日さ、
部屋のことでまた怒られて。
洗濯物が畳めてないとか、
テーブルが散らかってるとか。
“女なんだから普通こういうのちゃんとしろ”って、
また言われて」
「……女なんだから」
森さんが、その言葉だけ繰り返した。
「なんかさ……
わたし、自分でも部屋汚いのは分かってるし、
得意じゃないのも分かってるんだけど。
音楽のレッスンして、
配信して、
子どもたちのことも考えて……ってやってたら、
どうしても後回しになるときもあるじゃん」
「ありますね」
間を挟まずに返ってくる。
「でも、それ言っても、
“言い訳するな”って言われて。
“そんなの、やるかやらないかだけだろ”って。
……なんかさ、
わたしの生活、全部まとめて否定されたみたいで」
そこまで喋ったところで、
声が勝手に詰まった。
森さんは、
すぐには何も言わなかった。
エアコンの音みたいな、
小さなざわざわだけが聞こえる。
「……弓さん」
しばらくして、
静かな声が落ちてきた。
「僕、家事が得意なわけでもないし、
立派な人間でもないですけど」
「うん」
「それでも、
“女なんだから”って言葉で片付けるのは、
かなり雑だなって思います」
「雑、か……」
「弓さんは、
普通に働いて、
レッスンもして、
配信もして。
それ、全部“仕事”ですよね。
その上で、
“普通はこうしろ”って言われるのは、
ちょっと……しんどいですよ」
彼の言葉が、
ゆっくり胸に染み込んでいく。
「しんどいって、
思っていいんです」
その一言で、
視界がぼやけた。
「あ……」
涙が、
頬を伝って落ちていく。
悲しくて、
というより、
何かを許された気がして、
涙腺が勝手に緩んでいた。
「……ごめん。
急に泣いてる」
「謝らなくていいですよ」
「なんか、
わたしがダメなんだって、
ずっと思ってたから」
「弓さんの部屋の状態と、
弓さんの価値は、
まったく別物ですよ」
「……」
「僕からしたら、
あんな音出せる時点で、
生活のちょっとしたことなんて、
正直どうでもいいです」
「“どうでもいい”って、
言い切っていいの?」
「言い切ります」
きっぱりと言われて、
思わず笑ってしまう。
涙と笑いが同時に出て、
自分でも忙しい。
しばらく、
ふたりとも黙った。
でも、その沈黙は苦くない。
スマホ越しに、
相手の呼吸だけが聞こえる。
その呼吸のリズムが、
自分の胸の動きと少しずつ揃ってくる。
「……森さん」
「はい」
「わたしさ、
彼氏いるって言ったけど」
「ええ」
「なんか、
“彼氏”って呼ぶの、
違う気がしてきちゃって」
自分で言って、
自分で驚く。
でも、
言葉は止まらなかった。
「向こうは、
“結婚するならちゃんと家のことできる子がいい”って言ってて。
わたしの音楽のことは、
“いつまでそんな不安定なこと続けるの”って笑うし。
好きって気持ちも、
たぶん……もう、そんなに残ってない」
そこまで言ったところで、
喉がぎゅっと締め付けられる。
森さんは、
やっぱりすぐには何も言わなかった。
時間にすると数秒なんだろうけど、
体感ではずっと長く感じる沈黙。
「……それを、
弓さん自身が口にできたの、
すごいことだと思います」
「え?」
「“違う気がする”って感覚を、
ちゃんと自分の言葉にできるの、
簡単じゃないですよ」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないです。
むしろ、
そこから目をそらして、
“まぁいっか”って流してしまうほうが、
よっぽど簡単です」
その言葉に、
胸の奥が、
静かに震えた。
(あ……わたし、
ずっと“まぁいっか”で流してきたんだ)
部屋の散らかりも、
彼の言い方も、
自分の本当の気持ちも。
全部、「まぁいっか」でごまかしてきた。
「ねぇ、森さん」
「はい」
「わたしさ、
きっと、
普通に“いい彼女”にはなれないんだと思う」
「“普通”の?」
「うん。
家事も完璧じゃないし、
毎日お弁当作るとか、多分無理だし。
相手のために、
自分のやりたいこと我慢するのも、
本当はあんまりしたくない」
声に出してしまったら、
すごくワガママなことを言っている気がして、
胸がざわざわした。
(こんなこと言ったら、
普通の男の人なら引くよね)
森さんは、
少し笑ったような気配を見せた。
「……すみません、笑ってしまいました」
「ひどい」
「嫌な意味じゃないですよ。
“普通にいい彼女”って、
いったい誰が決めたんですかね、って思って」
「誰なんだろ……」
「多分、
どこかの誰かが勝手に作ったテンプレートですよ。
それに合わないからって、
価値が下がるわけじゃないです」
「テンプレート……」
「僕は、
弓さんが弓さんのままでいてくれるほうが、
ずっといいと思いますけど」
「……そんなこと言わないでよ」
ぽろぽろと、
また涙がこぼれた。
「そんなこと言われたら、
期待しちゃうじゃん」
「期待していいと思いますよ」
「なにに」
「“自分のままでも大丈夫なんじゃないか”ってことに、です」
少しの静寂。
胸の奥で、
何かがゆっくりほどけていく。
「……ねぇ、森さん」
「はい」
「あの人とは、
別れると思う」
自分の口から出たその言葉に、
自分が一番驚いていた。
でも、不思議と、
怖さはあまりなかった。
あるのは、
長く締めつけられていたものから
少しだけ解放されるような感覚。
「“思う”、ですか?」
「……ううん」
少しだけ間を置いてから、
はっきりと言い直す。
「別れる。
ちゃんと、終わらせる」
その瞬間、
胸の奥で何かが音を立てた。
怖さと、
寂しさと、
それでも前に進みたいっていう小さな願いとが、
ごちゃ混ぜになって、
一気に込み上げてきた。
「……っ」
声にならない音が漏れて、
涙がまた溢れた。
今度の涙は、
さっきとは少し違う味がした。
悲しい、というより、
長い夢からやっと覚めたみたいな。
「弓さん」
森さんの声が、
さっきより少しだけ低くなっている。
「つらい決断をしましたね」
「つらい……のかな。
よく分かんない。
でも、
このまま続けるほうが、
もっと怖い気がする」
「それが、
今の弓さんの本音なんですね」
「……うん」
「だったら、
僕は全力で味方しますよ」
「……味方?」
「はい。
今日、
ここまで本音を話してくれたことも、
“別れる”って自分で決めて、
僕に言葉で伝えてくれたことも、
全部、
すごいことだと思ってるので」
胸の奥が、
きゅぅっと縮んだまま、
じんわり温かくなっていく。
「……森さん」
「はい」
「ほんとにさ、
出会えてよかった」
言ってから、
顔が熱くなる。
酔ってるみたいだ。
「会いに来てくれた日も。
山で、一緒に歩いてくれたのも。
今日、電話出てくれたのも。
全部、
なんか、救われた気がする」
スマホ越しに、
小さく息を呑む音が聞こえた。
「……僕もですよ」
「え?」
「僕も、
弓さんに出会えてよかったと思ってます」
少し笑いながら、
でも冗談じゃない響きで、
彼は言った。
「配信で初めて弓さんの音を聴いたときに、
“あ、やっと見つけた”って思ったんですよ」
「なにそれ」
照れくさくて、
笑うしかない。
「大げさじゃなくて。
音楽だけじゃなくて、
自分のことをちゃんと好きでいようとしてる人って、
なかなか出会えないんです」
「自分のこと、
好きでいようとしてる、か」
「はい。
だから、
そんな弓さんが“普通の彼女じゃないから”って理由で
否定され続けるのは、
正直、腹立たしいです」
最後の一言だけ、
少し温度が高かった。
それを聞いて、
胸の奥がじん、とした。
誰かが、自分のために
「腹立たしい」と思ってくれている。
それだけで、
こんなに心強いものなんだ。
「……ねぇ」
「はい」
「別れたあとさ、
また電話してもいい?」
「もちろんです」
即答だった。
「むしろ、
してくれなかったら拗ねます」
「ふふ……
拗ねる森さん、見てみたい」
「それは、
もう少し先までお預けですね」
笑い合いながら、
どちらも口には出さないけれど、
多分同じことを考えていた。
(出会えてよかった)
この時間が、
この温度が、
のちの自分たちを
傷つけることになるなんて、
まだ全然知らないまま。
電話を切ったあと、
ソファに座ったまま、
しばらく天井を見上げていた。
さっきまでの会話のひとつひとつが、
胸の内側に、
小さな灯りみたいに残っている。
涙は、もう出なかった。
代わりに、
ゆっくりと大きく息を吸う。
明日——じゃない。
“今日”だ。
ちゃんと終わらせる日。
スマホを胸の上に置いて、
目を閉じる。
まぶたの裏に、
中学校のホールの光と、
森さんの声と、
自分の決めた言葉が浮かんでいた。
(大丈夫。
わたしは、わたしでいていい)
そう自分に言い聞かせるように、
もう一度だけ深呼吸をした。




