Part13 薄明の影
[森視点]
朝の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
目覚ましのアラームが鳴るよりも少し前に目が覚める。
寝室の時計を見ると、いつも起きる時間の三十分前だった。
妻の寝息が規則正しく聞こえる。
その音が、昨夜の配信の音の記憶をかすかに呼び起こす。
弓が「外で練習してきた」と語ったあの川の音。
水の流れる低い声。
そこに混ざった笛の透明な音。
(……まだ、胸の奥に残ってる。)
起き上がる。
寝室のドアを静かに開け、廊下を歩く。
洗面所で顔を洗いながら、鏡に映った自分の目を見る。
少し赤い。
眠りが浅かったのかもしれない。
昨日の配信を見終えたあと、なかなか寝つけなかった。
弓の声と川の音が耳の奥で再生され続け、胸の奥が温かく、少しだけ痛んだ。
(距離を置いているつもりなのに。)
水の音で閉じた夜を、また水の音で開いた。
それが偶然なのか必然なのか、考える余裕もなく、コーヒーメーカーに水を入れる。
湯気が立ち上る。
その匂いが寝ぼけた頭を起こす。
食卓に座ると、妻が起きてきた。
「おはよう。」
「おはよう。」
短い挨拶。
妻はキッチンで朝食の用意を始める。
卵を割る音。
フライパンに油を敷く音。
その一つ一つが、日常の音だ。
コーヒーを啜りながらスマホを開く。
配信アプリの通知がいくつか溜まっていた。
昨夜の配信に対するファンたちのコメント。
そして、弓が書いた返信。
彼女が川の練習を少し恥ずかしいと笑って書いていたメッセージが目に入る。
(外配信……。)
昨日コメント欄で冗談のように出ていた話。
弓は“考えておきますね”と返していた。
それを読んだリスナーたちが盛り上がっている。
(もし本当に外配信をしたら、どうなるんだろう。)
風の音と笛の音がライブ配信で流れる。
人が集まるかもしれない。
その中に自分が混ざったらどうなるのか。
想像して、胸の奥がざわつく。
「今日は出勤?」
妻が聞いた。
「うん。午前中は会議。午後は外回り。」
「そう。お弁当、要る?」
「いや、今日はランチミーティングがあるから。」
嘘ではない。
外回りの仕事は本当だ。
ただ、その合間に、ふと川沿いを歩いてみたいという衝動があった。
昨日弓が吹いた場所がどこかは知らない。
ただ、同じ川の流れに沿って歩けば、彼女が見た景色と同じ空気を吸える気がした。
⸻
午前の会議が終わったあと、会社の外に出た。
スーツの上着を肩にかけ、空を見上げる。
雲が薄く漂っている。
昨日の川の映像と重なる。
(少しだけ歩こう。)
そう思い、川の方へ足を向ける。
スマホで地図を開き、近くを流れる川を確認する。
弓がどこで吹いていたかはわからないが、自分が通勤に使う路線沿いの川なら、場所の候補は限られる。
河川敷に着くと、風が吹いてきた。
水面がざわざわと揺れている。
ベンチに座って目を閉じる。
川の音が耳に入る。
昨日聞いた音に似ているけれど、少し違う。
こちらの方が少し深い音だ。
水量の違いかもしれない。
胸の奥の鼓動が、川の流れに合わせてゆっくりと落ち着く。
(彼女も、こんなふうに音を聴いていたのかな。)
風が吹く。
心の中で、弓が吹いていた曲のメロディが再生される。
指が机の下でそのリズムを刻んでしまう。
見つからないように手を拳にする。
スマホが震えた。
会社からのメールだ。
現実に引き戻される。
画面には昼の配信の通知はなかった。
弓はいつものペースなら夜に配信する。
それまで、仕事に集中しなければならない。
席に戻る。
デスクに座ると、部屋の空気が冷たい。
会議室ではなく、静かなオフィスの机に向かうと、さっきの川の音が遠ざかる。
それでも、耳の奥では小さく鳴り続けている。
⸻
午後の外回りを終え、会社に戻る。
夕方のオフィスはざわざわしていた。
電話の音。
キーボードを叩く音。
コピー機の機械音。
その雑音が心地よかった。
人の気配は雑音の中に紛れる。
夕方、ふとスマホを見ると、配信アプリから通知が来ていた。
彼女が外配信についてアンケートを取っていた。
『外で吹いてほしいと思いますか?』
コメント欄が賑わっている。
それを見た瞬間、胸が跳ねた。
(本気で考えているのか。)
外配信が実現すれば、ファンが集まるかもしれない。
その場所は彼女にとって安全だろうか。
道具の準備や音のバランスは大丈夫だろうか。
心配ばかりが頭に浮かぶ。
(でも……聴きたい。)
正直な気持ちだった。
川の風と笛の音が混ざる瞬間を、ライブ配信ではなく、その場で聴きたいと思ってしまう。
その願いをすぐに打ち消す。
自分が行けば、彼女が気を遣う。
ファンが増えるほど、彼女への負担も増える。
自分が裏で支えることはできても、表に出てはいけない。
配信アプリにコメントを残した。
『風の音を大切にして、無理のない範囲で楽しんでください。安全第一で。』
それだけ。
弓への具体的な提案や場所の指定はしない。
彼女が自分で決めるほうがいい。
わたしは背中を押すだけでいい。
⸻
帰宅の電車で、配信の開始通知が来た。
今日は昼のアンケート結果や、川での練習の話をするのだろうか。
座席に腰を下ろし、ヘッドホンをつける。
配信が始まる。
彼女の「こんばんは」が聞こえる。
昨日よりも少し落ち着いた声。
川の話をもう一度語る。
「今日はみなさんのコメントを読んで、ちょっとだけ考えました」と彼女は笑う。
配信のコメント欄が流れる。
リスナーたちが「楽しみ!」「無理しないでね」と書いている。
わたしは黙ってそれを眺める。
彼女の声に耳を澄ます。
電車の揺れとヘッドホンの重さ。
画面の外のわたしの表情は、誰も知らない。
彼女が川で吹いたという曲をもう一度配信内で演奏する。
ヘッドホン越しでも、風の音が混ざっているように聴こえた。
(……あの音は、彼女の中の揺れなのかな。)
心のざわめき。
それが音に溶けて、風と混ざっている。
彼女は「彼氏が帰ってきて、ちょっと忙しくて……」と笑って話した。
その言葉に、胸が少し痛んだ。
彼女には彼氏がいる。
わたしには妻がいる。
それぞれの世界がある。
それでも、彼女の音がわたしの胸を揺らす。
それが現実だ。
コメント欄に書いた。
『音の流れるように、心も流れますように。』
彼女がそのコメントを読み上げた。
「森さん、ありがとうございます。」
名前を呼ばれる声。
その音だけで、胸の奥が静かに波を打つ。
配信を終え、電車は終点に着く。
駅のホームに降りると、人の波が流れていく。
その中を歩きながら、わたしの心の中で別の波も流れていく。
家に着くと、妻がリビングでテレビを見ていた。
ニュース番組。
隣に座る。
テレビの音がニュースを読み上げる。
世界の大きな出来事と、わたしの小さな感情のバランスが不思議に思える。
「今日、疲れた?」妻が聞いた。
「うん、少しだけ。」
「お風呂、入る?」
「入るよ。」
会話はそれだけ。
湯船に浸かる。
湯の中で目を閉じると、昼間の川の音がまた蘇る。
頭の中の川は、決して途切れない。
(ずっと、このままではいられない。)
心のどこかでそう思う。
距離を保ち続けることも、いつか限界が来るかもしれない。
それでも今はまだ、この距離がちょうどいい。
風呂場の窓から外の空気が流れ込んでくる。
その風に、わたしの吐いた息が混ざって消えていく。
(明日もまた、配信を聴くのだろうか。)
わかっている。
聴く。
そして、また胸が揺れる。
それを繰り返しながら、何かが少しずつ変わっていく。
湯船から出ると、身体が少し軽くなった。
洗面所の鏡に映る自分の顔は、湯気で曇っている。
手で曇りを拭き取る。
そこには、考え事をしている自分の目があった。
(まだ、夜は長い。)
そう思いながら、寝室に向かった。
窓の外では、風が遠くで鳴っていた。
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