Part12 朝の余白
[弓視点]
目覚ましのアラームが鳴る前に、目が覚めた。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいる。
ベッドのシーツが少し湿っていた。
寝汗だ。
夏でもないのに、こんなに汗をかくなんて。
身体がいつもと違うリズムで動いているのがわかる。
(昨日、歩きすぎたかな。)
脚の筋肉が、ほんの少しだけ重い。
腕も、米を持ったときの鈍いだるさが残っている。
それを感じながら、ゆっくりとベッドから起き上がる。
キッチンに向かう。
湯を沸かしながら、頭の中に昨日の景色がぼんやりと浮かんでくる。
木の匂い。
風のやわらかさ。
土の感触。
そして、横を歩いていた背中。
コップに注いだ白湯を一口飲む。
喉を通る温度が、身体の中に落ちていく。
「……ふう。」
小さな息が漏れた。
内側から、どうしようもないため息が出るのは、疲れている証拠だ。
携帯を手に取る。
画面を開く。
昨日のLINEのままだ。
未読のまま、同じ文字が光っている。
『よかった。
またね。』
その二行だけ。
シンプルで、優しくて、線を引いてくれている。
(森さんは……ちゃんと距離を置いてくれる人だな。)
それがありがたくて、ありがたくない。
ありがたくないわけじゃない。
でも、胸の奥に少しだけ隙間ができた気がして、そこが冷たい風に触れているみたい。
「……ごめん。」
誰に謝っているのかわからない言葉が、口から漏れた。
自分の気持ちを整理できないでいる。
男として見られたくないし、見てほしくない。
音を聴いてほしいだけ。
なのに、自分の心が男として意識し始めていたらどうしよう。
それが怖い。
お湯を沸かしたまま、流しに立ち尽くしていた。
そのうちに、ポットの蓋がカタカタと鳴って、我に返る。
朝ごはんを作る気になれず、そのまま適当なパンにバターを塗ってかじる。
味がしない。
味覚がどこかへ行ってしまったようだ。
スマホが震えた。
ライブ配信アプリからの通知ではない。
彼氏からだった。
「今日帰るね」
その五文字だけ。
わたしは既読をつけるだけで、返信しなかった。
彼氏とは、もう長い。
出張が多くて、週に一度帰ってくるかどうか。
彼のいない間は、一人で自由にしていた。
その自由が、今は窮屈に感じる。
(帰ってくるんだ……。)
どう対応すればいいんだろう。
別れる理由がないから別れていない。
情がないわけじゃないけれど、付き合い始めた頃の気持ちはどこかへ行ってしまった。
何かを共有することも減った。
今のわたしには、音楽と配信と、昨日の山がほとんど全てだった。
練習しよう。
そう思って、フルートケースを取りに行く。
ケースを開けると、銀色の管が朝の光を反射してきらりと光った。
思わず指先で触れる。
冷たい。
その冷たさが、胸のざわつきを落ち着かせてくれる。
組み立てて、息を吹き込む。
スケールをゆっくり上がって、ゆっくり降りる。
今のわたしの息は、少し不安定だった。
それでも、音は素直に出てくれる。
(音は正直だな。)
嘘をつけない。
わたしの心のゆらぎが、そのまま音になる。
ごまかしはすぐバレる。
練習はいつも、午前中の静かな時間にする。
今日は、とても外に出たくなった。
部屋の壁の中にいると、頭の中の音が響きすぎる。
窓を開けると、風がゆっくりと入ってきた。
どこかから鳥の声が聞こえる。
(行こう。)
フルートをケースに入れ直し、ストラップを肩にかける。
いつもの練習場ではなく、少しだけ遠くの川沿いの公園を目指す。
川の音が好きだ。
流れる水の音と、笛の音が混ざる瞬間が、いつもどこかに連れて行ってくれる。
外に出ると、街の空気が夏の名残りを運んできた。
少しだけ湿った風。
日の匂い。
歩きながら、昨日の山道の土の感触を思い出す。
あれはもう、別の世界のことのようだ。
川沿いのベンチに座る。
辺りには人が少ない。
犬の散歩をする人が遠くに見えるくらい。
河原に降りて、軽くストレッチをしてからフルートを構える。
音を出す前に一度深呼吸をする。
肺に風が入ってくる。
音を出す。
川の音にのせて、笛の音が空に溶けていく。
今日の音は、少しだけ湿っている。
自分の中の湿度が音に混じる。
(聴いてほしいな。)
誰に?
いや、誰でもない。
音に聴いてほしい。
風に聴いてほしい。
自分の中の何かに聴いてほしい。
そして、どこかで森さんも聴いてくれたらいいのに、とふと思った。
その考えが頭をよぎった瞬間、胸がざわっとした。
音が揺れた。
(だめだ、こういうの。)
息を整え直す。
笛は嘘をつかない。
わたしが嘘をつくと、すぐに音が歪む。
吹き終わって、草の上に寝転がる。
空が広がっている。
雲がゆっくりと動いている。
風が頬を撫でる。
(あの人と歩いた山の空も、こんなだったかな。)
同じ青だった気がする。
でも、少し違う青だったかもしれない。
あのときの空には、彼の歩く足音が混ざっていた。
スマホがポケットの中で微かに震えた。
取り出すと、配信アプリからの通知だった。
「視聴者からメッセージが届いています」
開くと、森さんからではなかった。
常連のリスナーの一人が、昨日の配信の感想を送ってくれていた。
『昨日の曲、すごく好きでした。外配信もいつかやってほしいな。』
それを読んで、少し笑った。
外配信。
昨日、ふざけて「山で吹いてあげようか?」と言った。
半分冗談で、半分本気。
今思い出すと、顔が熱くなる。
(ああ……やばい。)
また、こうして心が揺れる。
揺れるくせに、断るのが怖い。
わたしは拗れている。
自分でも嫌になるほど。
ベンチに座り直し、スマホに返信を書いた。
『ありがとう。外で吹くの、ちょっと恥ずかしいけど、また考えておきますね。』
短い。
それだけ。
そのあと、森さんにメッセージを送ろうか迷った。
「今日、練習で川に来てるよ」
とか
「昨日はありがとう」
とか
何か言ってみたい。
でも、送らない。
送れない。
女として見られたくないと言っておきながら、そういうメッセージはほぼ告白みたいだ。
それが嫌だ。
そういうのは違う。
それに、今は彼氏が帰ってくる。
夜には家にいるだろう。
彼がいる家で、森さんと連絡を取り合うのは、自分の中でルール違反な気がする。
ルールを破るほど、森さんに踏み込みたいわけじゃない。
ただ、昨日の空気がまだ胸の中に残っているだけ。
夕方になり、家に戻る。
玄関のドアを開けると、見慣れた靴があった。
彼氏が帰ってきている。
リビングに入ると、彼がソファに座ってスマホをいじっていた。
テレビはついていない。
その静けさが、逆に重かった。
「おかえり。」
わたしが言うと、彼は顔も上げずに「ただいま」と言った。
声に温度がない。
いつものことだ。
わたしも、温度を乗せる気になれない。
「ご飯、いる?」
「ある?」
「ある。」
「じゃあ、もらう。」
その会話だけ。
その間に、わたしは冷蔵庫から食材を出し、簡単な料理を作る。
彼はずっとスマホを見ている。
会社のメールか何か。
わたしに興味がないわけじゃないが、関心の矛先が違う。
わたしも彼の近況に興味が持てない。
食事中も、会話はほとんどない。
テレビもつけない。
カトラリーの音だけが、小さく響いていた。
(この沈黙の方が、怖いな。)
森さんとの沈黙は心地よかった。
この沈黙は重くて、冷たい。
二人がいるのに、一人で食べている気分になる。
食器を洗い終えて、わたしは自分の部屋に戻った。
フルートをしまいながら、彼の背中を思い出す。
今目の前にいる彼氏の背中と、昨日山を歩いた森さんの背中。
比較している自分に気づき、胸の奥が嫌な音を立てた。
(比べちゃだめだ。)
そう言い聞かせる。
でも、比べてしまう。
どちらが良い悪いではない。
ただ、違う。
同じ背中なのに、見ているものが全然違うんだ。
夜の配信の準備をする。
彼氏のいるリビングには行きたくないので、自分の部屋で小さなライトをつける。
机の上にスマホスタンドを置き、角度を調整する。
フルートを出す。
鏡で一度自分の顔を見る。
目が少し赤い。
風に吹かれたからかな、と自分に言い訳する。
(大丈夫、仕事の顔に戻ろう。)
配信を始める。
「こんばんは、弓です。」
声が、昨日よりも落ち着いて聞こえる。
今日の川で吹いた練習のおかげかもしれない。
コメントが流れ始める。
常連の名前が並ぶ。
森さんの名前は……まだ見えない。
少しだけほっとする。
今、彼が見ていたら、わたしの揺れが画面越しに伝わりそうで怖い。
「今日はちょっと外で練習してきたので、その話でもしながら……。」
話し始めると、自然と笑顔になる。
音楽のことを語るときのわたしは、変に自分を隠さない。
笛の話。
川の音。
鳥の声。
それに合わせて吹いたら、どんなふうに音が変わったか。
リスナーからコメントが来る。
『外配信楽しみにしてます!』
『川の音とのコラボ、聴きたいな〜』
『今日も素敵な音でした』
それを読み上げながら、胸の奥が少しずつ温かくなる。
音楽の話をしているときは、森さんの顔も彼氏の背中も、いったん遠くへ行ってしまう。
森さんの名前がコメント欄に表示されたのは、配信の中盤だった。
森
『こんばんは。川の話、いいですね。空と水の音、聞きたくなります。』
画面の向こうから声が聞こえる気がした。
(見てるんだ。)
胸が少しざわつく。
でも、そのざわつきが嫌ではない。
「こんばんは。」
わたしは画面に向かって小さく微笑んだ。
「今日はね、ちょっと外に出たくなって……川沿いで吹いてたんです。音が風に乗る感じが、とても気持ちよかった。」
森
『音が風に乗る……想像しただけで、心が静かになりますね。』
言葉が優しい。
距離を置いたまま、近くに寄り添ってくれている。
そのバランスが、今のわたしにはちょうどいい。
配信が終わった。
スマホを伏せて、ライトを消す。
暗闇が部屋に広がる。
窓の外から、遠くで車の音が聞こえる。
扇風機の羽根の音が、低く回る。
その音に耳を澄ませながら、ベッドに腰を下ろした。
(大丈夫。まだ大丈夫。)
まだ、境界を越えていない。
越えないつもり。
でも、心は揺れる。
揺れるけれど、音が支えてくれる。
音楽がある。
笛を吹くと、風が答えてくれる。
それで、今は充分だ。
目を閉じる。
さっきの川の音と、森さんの「またね」が、ゆっくりと溶けていく。




