Part11 夜の遠心力
[森視点]
車内の蛍光灯が窓ガラスに映っている。
その白く長い光が、トンネルに入るたびに闇に吞まれ、また現れては伸びる。
帰りの電車は、意外なほど空いていた。
疲れた人がそれぞれの席に身体を沈めている。
隣には誰もいない。
ヘッドホンからは、さっきまで彼女が吹いていた笛の余韻がかすかに残っていた。
(……変な感覚だ。)
昼間は、同じ空気を吸っていた。
さっきまでは、画面越しに彼女の声を聞いていた。
今は、こうして車窓の流れを眺めながら、一人で考えている。
一日の中で、距離が何度も変わっている。
近づいたと思ったら遠ざかり、遠いと思えば音がふいに真横を通る。
駅に着くたびに、扉の開閉音が鳴った。
冷たい風が吹き込む。
そのたびに、胸の奥が少しだけ現実に戻る。
出張の日はいつも、仕事の報告やメールの整理をしながら帰ることが多い。
今日は、スマホを鞄の中にしまったままだった。
ホームに降りた。
靴底がコンクリートを踏む音が、妙に大きく響いた。
改札を抜け、暗い道を歩く。
自宅までの道のりは、街灯が少ない。
その静けさが、今日の余韻を引き延ばす。
彼女から来たメッセージは、夕方に読んだまま、未読で増えていない。
こちらからは「またね」とだけ返した。
あれで正解だったのかどうか。
分からないまま時間だけが流れる。
冷たい空気を吸い込むと、肺が少し痛む。
彼女の笑顔が浮かんで、胸が静かに揺れる。
(ああいう時間を、俺は……必要としていたのかもしれない。)
山を歩いたあの数時間。
誰にも気を遣わず、歩いて、時々話して、時々沈黙する。
そのリズムがあまりに自然で、危なさも感じないほどだった。
危なさを感じなかったからこそ、今こうやって心が揺れているんだろう。
家の鍵を差し込み、ドアを開ける。
廊下の照明は消えている。
リビングに灯りが漏れていた。
妻はテレビを見ながらうとうとしていた。
ソファに半身を預け、薄い毛布をかけている。
画面の中からはニュースの声が低く流れていた。
「ただいま。」
小さな声で言うと、妻が顔を上げた。
「おかえり。遅かったね。」
「ちょっと、帰りの電車が混んでて。」
嘘ではないが、本当でもない。
今日は混んでいなかった。
仕事のあとに、山を歩き、米を運び、配信を見て、心の中が忙しかっただけだ。
「ご飯、残ってるから温める?」
「うん、あとで自分でやるよ。」
妻は安心したように目を閉じた。
その横顔を見ながら、靴を脱ぐ。
リビングに入ると、テレビの音と部屋の空気の温度差にほんの少し酔いそうになった。
(ここが日常だ。)
台所には、温め直しの味噌汁と焼き魚がラップをかけて置いてある。
電子レンジの機械的な音。
茶碗に盛られたご飯。
妻の細やかな気遣い。
それを目の前にしても、昼間の山の香りが鼻に残っていた。
「今日、山に行ってたんだって?」
妻がぼそりと言った。
「ん?」
「さっき帰ってきたとき、服に土の匂いがしたから。」
思わず笑ってしまった。
「そうか、バレてたか。」
「散歩?」
「まあ……そんなところ。」
「仕事で?」
「いや、仕事じゃない。」
言葉を選ぶ。
嘘ではないが、真実も話さない。
そういう返答をしてしまう自分に、少しだけ胸が痛んだ。
妻はそれ以上踏み込んでこない。
温め直した味噌汁を啜る。
口の中に広がる味は、毎日と同じだ。
なのに、心が別の場所を探している。
食事を終え、食器を洗い、ソファに座る。
テレビはまだニュースを流している。
世界のどこかで起きている事件を、他人事のように聞く。
自分の日常も、誰かから見ればニュースの中の一行なのかもしれない。
妻が寝室へ行った。
リビングに一人残る。
テレビを消すと、静寂が降りてきた。
その静けさの中で、ふと、昼間の山の空気が蘇る。
(……危ないな。)
胸の奥で呟く。
危ないと分かっている。
でも、惹かれている。
この矛盾が、今の自分を満たしてしまっている。
仕事としては順調だ。
家も、安定している。
妻との生活に不満があるわけじゃない。
でも、今日みたいな時間は、自分がどこか遠心力で飛ばされたような感覚になる。
笛の音が耳の奥で再生される。
彼女の息が音に変わり、空気を震わせ、耳に届いた瞬間。
昼間の陽射しと、帰りの車内の蛍光灯の光が重なる。
そのとき、胸が不思議なくらいあたたかくなる。
(守りたいのかもしれない。)
彼女が進もうとしている場所。
彼女が見ている景色。
それを守りたいと思っている。
それが、ただの理想論だとしても。
もちろん、彼女に踏み込むことはできない。
既婚である自分が、そんなことをすれば、全部壊れる。
彼女は女として見られることを嫌がる。
ぐいぐい来られるのが苦手だ。
それは配信での発言や、今日の言葉の端々から伝わっていた。
だからこそ、距離を置いている今が、ぎりぎりの均衡なのだろう。
(この距離を壊してはならない。)
そう思う。
思い込もうとする。
でも、胸の奥には別の声もある。
(もう一度、歩きたいな。)
あの山道を。
彼女と同じペースで歩き、同じ風の音を聴き、同じ沈黙を共有したい。
そんな願望を抱く自分に驚く。
洗面所の鏡に自分の顔が映った。
思ったより疲れている。
目尻に細い皺が増えていることに気づく。
若い頃は、こんなふうに誰かに心を揺らされることがなかった。
歳を重ねて、理性だけでは収まりきらない感情が増えたのかもしれない。
寝室に行くと、妻は静かに寝息を立てていた。
布団の中に身体を滑り込ませる。
暗闇の中で、彼女の横顔が薄ぼんやりと見える。
この平穏さを壊してはならない。
それも、揺るぎない事実だ。
(両方は、無理なのか。)
守りたいものが二つある。
現実と、理想。
家庭と、音。
その間で揺れている自分がいる。
目を閉じると、彼女の笛の音と、妻の寝息が重なる。
全く違うリズムなのに、どこかで混ざり合って、遠くへと流れていく。
(……まだ、終わりではない。)
今日一日で終わる気持ちではない。
明日、配信があれば、また見るだろう。
彼女が外で吹きたいと言えば、その場所を探すだろう。
そうやって、距離を保ちながら歩き続ける自分が見えた。
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翌朝、目が覚めると、窓の外が薄く明るんでいた。
妻はもう起きているようで、台所から小さな物音がする。
カーテンの隙間から差し込む光が、枕元を細く照らしていた。
それを眺めながら、頭の中で昨日の山の光景を再生する。
(まだ、続きがあるのかもしれない。)
そう思うことが、少しだけ怖く、少しだけ嬉しかった。
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