Part 1 風が触れた音
その夜、
スマホの向こうで吹かれた笛の音が、
俺の十年を壊した。
コンビニの白い蛍光灯がフロントガラスに縞を作り、
雨は細い糸みたいに斜めに走っていた。
エンジンを切った車内は、
密閉された楽器ケースのように静かで、
送風口の低い唸りだけが呼吸を大げさに映す。
惰性で開いたニュースは、誰かの怒りと勝利で満ちている。
音ではない。雑音だ。
検索欄に指が落ちる。
「イングランド 笛」
思いつきの綴りで出てきた小さなサムネイル。
『弓 live』
くすんだ電球色の部屋、白いブラウス、細い影。
期待もなくタップした瞬間、
車内の空気が変わった。
――一音目は、薄いガラスに触れる冷たい指先みたいだった。
高すぎないが芯のある息の柱が、
夜の空気を撫でる。
音は均一に磨かれておらず、
ところどころに息のざらつきと震えが混じる。
その不完全さが、
逆に世界の輪郭をやわらかくした。
ティンホイッスルの素朴な金属音。
装飾音が風向きを変え、
缶コーヒーがカタリと鳴った気がした。
画面の中の弓は、
眉尻をほんの少しだけ落として息を足し、
窓の見えない方向へ視線をほどく。
後ろのカーテンがわずかに膨らむ。
外は雨。街灯が濡れたアスファルトに溶けて、
光が流れた。
曲が終わる。
マイクが拾う小さな呼吸。
「――ありがとうございました」
掠れた声が、雨の糸に結び目を作る。
コメント欄は静かで、
視聴者は数人。空白の行がこちらを見ていた。
俺は指を動かす。
森:きれいな音ですね。風みたいです。
送信。
四十七にもなって“風みたい”なんて、
少し照れくさい。
けれど、それしか思い浮かばなかった。
彼女は顔を上げた。
目の縁が先に笑って、頬が後からついてくる。
用意が間に合わなかった種類の笑顔。
演出の笑みは、たくさん見てきた。
これは違う。
胸の内側で、錆びた蝶番が小さく鳴った。
もう一曲。
今度は、イングランドの古い旋律の気配。
音と音の間に、
わざと取りこぼすような余白がある。
余白は不安だ。
でも、今夜の車内は、その不安を受け止められる夜だった。
森:夜に合いますね。落ち着きます。
「ありがとうございます」
配信用の明るさより半音低い声。
そこに体温があった。
たくさんの女性と働いて、
笑顔の作り方や声のトーン、裏表の継ぎ目はだいたい分かるようになったのに。
今は――分からなくていい、と思った。
分からないままで、音に浸っていたい。
――どんな人なんだろう。
――どんな曲を、これから吹く?
興味は、純粋にアーティストとしてのそれ。
女として見ない。
そう言い聞かせながら、画面を閉じられずにいた。
***
ライトは顔色を一段明るく見せる。
それでも、手の震えは誤魔化せない。
弓は膝の上で指を握り、
冷えた指と指をそっと重ねる。
“きれいな音ですね。風みたいです。”
胸の奥で湯気が立った。
風。そう言われたかった。
クラシックを学んだ短大では、
正確さが呼吸だった。
間違えないこと。笑って弾いて、楽屋で泣く。
やめられないのは、
音が自分の体温そのものだったから。
救われたのは、イングランドの民謡。
構えない旋律、川の淀みのような間。
固まった心をほどくのに、
言葉はいらなかった。
配信は今日が“再挑戦”。
ライバー事務所に誘われ、もう一度だけやってみようと思った。
名前を変えた。
弓は現実、ユーミは夜の仮名。
月明かりみたいに、柔らかくて匿名な自分。
「こんばんは、ユーミです。……はじめまして」
マイクが声を拾う。
沈黙が怖い。
沈黙は穴だ。
落ちる前に、曲を置く。
置いても、置いても、
穴はやってくる。
曲間。水を飲む間。視線を泳がせる間。
その穴に、一行のコメントが綱を投げてくれた。
森:夜に合いますね。落ち着きます。
「ありがとうございます。そう言ってもらえるの、すごく嬉しいです」
声が半音低くなるのが、自分でも分かった。
森:その笛、どこの出身です?イングランド民謡っぽいけど
弓:はい……たぶん、そう、です。
森:言い切らなくて大丈夫です。風の国から来たことにしましょう。
弓:風の国(笑) かっこいいですね。じゃあ今日は“北西の風”から。
チャット欄の数字が少し増えた。
潜っていた人が浮上するように、スタンプがぽつぽつと流れる。
「じゃあ、もう一曲、短いのを……」
指に息の温度を乗せる。
金属の管の冷たさが、少しずつ人肌に変わっていく。
旋律は短い。けれど間が長い。
間に、心の奥の言葉がこぼれそうになる。
こぼれる前に、音にする。
森:この間が好きです。急がないの、いい。
弓:間って、怖いんですけど……今日は、怖くないです。
森:それ、こっちも同じです。
「同じ……なんだ」
独り言がマイクに乗った気がして、慌てて笑う。
笑うと、肩の力が抜ける。
「森さん、音楽、いつからお好きなんですか?」
森:いつからかな。無音がつらくなった時から。
弓:無音がつらい……。
森:部長時代の帰り道ですね。肩書きはもうBGMです。
弓:BGM(笑)
森:今はただの森です。
弓:じゃあ今日は“明るい森”です。
森:鹿が出るやつ。
弓:笛で呼びます。
森:それは危険です。
弓:(笑)角、ちっちゃいやつにします。
雑談が転がる。
穴の縁に、手が伸びてくるような感覚。
「練習配信って言い訳してたんです。前は。
でも今日は、言い訳しないで、ちゃんと演奏したくて」
森:もう言い訳、要らない音でしたよ。
弓:……ありがとうございます。
森:聞こえてます。
弓:やば……(笑)
拍手アイテムがいくつか飛ぶ。
部屋の温度が少し上がる。
森:息の音、好きです。
弓:息?
森:昼は音符、夜は息。どっちも音楽です。
弓:……うれしい。じゃあ、息、多めで。
森:それは心配です。
弓:(笑)
吹いて、話して、笑って。
沈黙はもう怖くなかった。
「……あの、森さん」
森:はい。
弓:間が、こわくなくなりました。
森:こっちで手を振ってましたから。
弓:見えました。白い手袋してました。
森:誘導員仕様です。
弓:安全第一(笑)
笑い声が、音の余韻と混ざる。
ライトを落とすと、壁の影が柔らかくなった。
「今日は来てくれて、話してくれて、ありがとうございました」
森:こちらこそ。夜に“息”があると助かります。
弓:……息。
森:BGMじゃなくて、人の息。
弓:うれしい。
「もう一曲、いいですか?」
森:もちろん。座席ベルト着用済み。
弓:車(笑)
森:安全運転で聴きます。
弓:じゃあ、ゆっくり道路で。
三曲目は短い。けれど、今夜いちばん静かな曲。
吹き終えて、弓は息を吐く。
「——ありがとうございました」
森:今の、雨が聴いてました。
弓:雨、ですか。
森:ワイパーが休んでたので。
弓:それ、止めてたのでは(笑)
森:ロマンをください。
弓:どうぞ(ロマン渡すジェスチャー)
「明日も……吹けたら」
森:約束はいりません。風が吹いたら、また。
弓:風が、吹いたら。
「聴いてくれて、ありがとうございました」
配信終了の指が迷う。
スクロールを戻し、“風みたい”の一行に触れる。
小さく、声に出さずに。
「ありがとう」
***
配信のあとの街は、
別の都市みたいに静かだった。
スマホを胸に置き、車内灯を消す。
暗闇が、思考の角を丸くする。
耳の奥で、金属の細い響きが続いていた。
“ただの音楽だ”
そう言い聞かせてきた言葉を、
今夜だけは足元に置く。
信号の青がフロントガラスでほどけ、
濡れた街路樹がわずかに揺れた。
森(心の声):また、聴こう。
誰にも聞こえない声で言って、息を吐く。
白い息は出ない。冬は、もう終わる。
この出会いが何を壊し、何を作るのか。
その夜の俺は、まだ知らない。
ただ、
画面の向こうに――音色がたしかに“いる”ことだけを、
初めて信じた。
初投稿です
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