散り落ちたもう一輪の花
ほんの少し、花の雫のように流した私の涙を見てしまった紳士なイレール様は、彼にとって道端の花にもならない私を無視することができなかったようだ。
彼は、人気のない場所にいる私を残しその場を立ち去ることができずに、再び声をかけてきた。
「大丈夫かい? 誰か一緒ではないの?」
本科に通う高位貴族子女であれば、侍女やメイドの付き添いもいるだろう。
けれど、彼は私の制服に飾られたブローチから淑女科に通う女生徒だとわかり、ますます女性を一人にしておけないと思ったのか、こちらの気持ちも知らずに距離を縮めてきた。
私は焦りながらも学舎へと視線を動かすと、こちらへと歩いてくる兄とアンリエッタの姿を確認することができた。
「あ、あの、兄と友達を待っているのです。ほら、あちらに」
真っ直ぐにこちらを見るイレール様の紫色の瞳を避けるように兄たちへと手を向けると、イレール様はゆっくりとそちらへ顔を向け、ピクリと体を硬直させた。
「……サミュエル……アルナルディ」
その声はとっても小さくて、イレール様を意識していなければすぐ隣に立つ私でも聞き取ることは難しかった。
――その名前が私の兄の名前でなければ。
そして、その言葉を発したのが、愛して裏切られて憎んだ、あなたの声でなければ。
「あの……」
まだ、あなたは兄とも私とも出会っていないはず……それとももう、第二王子たちは兄に目を付けていたのだろうか?
あの女、オレリアは兄に近づいていた?
「……校内でも一人にならないほうがいい。危ないからね」
「ええ。……ありがとうございます」
イレール様は私を気遣う言葉をかけると、クルリと踵を返しスタスタと歩いていってしまった。
最後に優しい、どこか悲しい笑顔を私に向けて。
デビュタントのエスコート役として現れたイレール様は、公爵子息に相応しい気高さを持った優しい笑顔の素敵な方だった。
いつも貧乏子爵令嬢の私を気遣い、まるでお姫様のように扱ってくださった。
未体験のデートや退屈しない会話、かわいいお店にドキドキする夜会のダンス。
婚約していた短い時間の幸せな思い出。
でも、あなたは結婚式のその日から変わってしまった。
無表情で冷たく見下ろす紫色の瞳。
指先すらも触れない二人の距離と、会話どころか視線すら合わない日々。
いいえ、あなたは私と暮らす屋敷に帰ってくることはほとんどなかったわね。
愛していたから苦しかった。
愛しているから耐えられた。
それでも、あなたは最後に私の大切なものをすべて奪い、私の命すらも躊躇なく捨てた。
「……イレール・モルヴァン」
許さない、あなたは。
あなただけは……。
「シャルロット?」
ハッと思考の海から覚醒した私はキョロキョロと辺りを見回し、少しふくれっ面をしている親友アンリエッタと苦笑している兄の顔を交互に見て、首を竦めた。
「ごめんなさい。ぼーっとしてたわ」
せっかくアンリエッタお勧めのカフェに来て、色鮮やかなフルーツが飾られたタルトを食べていたのに。
「なにを考えていたのよ? 馬車止めで会っていた男の人のことかしら?」
むふっとアンリエッタの半月型の目に冷たく刺さる視線を飛ばして、私はグサッとタルトにフォークを突き刺す。
「べ・つ・に」
なんで学園を卒業したイレール様が、堂々と学園に来たのか。
しかも、どんな偶然で私と会ったのか……いやだわ、気分が重くなってくる。
大き目な一口でタルトを頬張ると、優雅に紅茶を飲むお兄様と目が合った。
そういえば……。
「お兄様。お兄様は、イレ……モルヴァン公爵子息とはお知り合いなのですか?」
薬草研究で引きこもりがちな貧乏子爵令息の兄に限って、社交界でも注目の公爵子息と接点があるわけがないが、確認しておかないと安心できないわ。
「モルヴァン公爵子息? いや、僕は言葉を交わしたこともないし……学園で一緒だったけど面識はないよ」
「そうですか」
では、なぜイレール様は兄の名前を知っていたのだろう?
いや、兄の姿を見て名前を呼んだということは、彼は兄を見知っていたことになる。
なぜ?
「あら、シャルロットがお会いしたのはモルヴァン公爵子息だったの?」
「えっ! ええ」
アンリエッタには第二王子たちの情報と合わせてイレール様の情報も調べてもらっている。
彼女が何か不都合なことを話し出さないか、私は緊張で胸がドキドキしてきた。
「……。モルヴァン公爵子息はたぶん第一王子殿下のお遣いで学園にいらしたのでは? ほら、サミュエル様と同学年に婚約者のフルール様がいらっしゃるでしょう?」
フルール様?
兄が毒殺したとされる王太子妃のフルール様が、この学園に通っているの?
「本来は王宮で王妃教育を受けるのだけれど、フルール様の王妃教育はほとんど終わっていて、最後の一年間だけ学園に通われることにしたそうよ」
第二王子殿下が通っているから、普段よりも警護も厳しいしちょうどよかったのね、とアンリエッタは言葉を続けた。
前の時間でもそうだったのだろうか?
フルール様は学園に通っているときに、兄となんらかの接点があり……そして兄が彼女を殺したいと思うような何かが……。
「お、お兄様はフルール様とはどのような?」
ん? と顔をあげた兄の口の周りにクリームがべったりと付いていて、私は「はあっ」とため息を吐いた。
「フルール様……ああ、デュノアイエ侯爵令嬢だね。さあ、お顔は知っているが、話したこともご挨拶したこともないよ」
はい、と渡したハンカチで口の周りを拭きながら、兄は虚空を見つめ何かを思い出すように言葉をつなげていく。
詳しく聞いてもフルール様の髪の毛の色も瞳の色さえも覚えていなかった。
……本当に兄はフルール様に毒を飲ませたのだろうか?
やっぱり、第二王子たちの策略だったのだ。
では、彼女を殺して第二王子たちは、いったい何を手に入れたのか?




