過去 1
過去……。
何気なく見た窓の外、慌ただしく一台の馬車が屋敷の門を通ってくるのが見えた。
私は、連絡もなく訪ねてきた彼女を迎えるため、小走りで玄関へと向かう。
「シャルロット!」
「アンリエッタ」
私の前へと走ってきた親友に、私は両腕を広げて応える。
淑女としては失格だが、心細いときに訪ねてきてくれた親友の温もりに、目まぐるしく変わる自分の状況に怯えていた気持ちが少しだけ落ち着くのがわかった。
アンリエッタは私と抱き合いながらもキョロキョロと辺りを見回す。
「シャルロット……」
「わかってる。話は部屋で聞くわ」
そっと彼女の体を離して、近くにいたメイドにお茶の準備を頼んだ。
アンリエッタが子どものころから足しげく通ったアルナルディ家の屋敷は、彼女の記憶とは違う別の屋敷へと変貌を遂げていた。
「驚いたわ。ここも違うのね」
カチャリとカップをソーサーに戻してアンリエッタがため息とともに呟いた。
そしてニッコリとお茶を持ってきたリーズへと微笑む。
「あなたがいてくれてよかったわ。やっとここがアルナルディ家の屋敷だって思えたもの」
「本当に。アンリエッタ様が驚くのも無理がありません、わたしもまだ信じられませんもの」
リーズが片手を頬に当てて、ほうっと息を吐いた。
「そうよね。屋敷中の修繕……壁紙から窓ガラス、カーテンや絵画、花瓶に至るまで新調したもの。廊下は歩いていてもギシギシ音は鳴らないし。ふふふ、窓ガラスと灯りを変えたら屋敷中が明るくて眩しいぐらいだわ」
そして手にしたカップを、私は悲しい気持ちで見つめる。
縁が欠けたカップや柄が消えかけた食器、磨いても黒ずみが取れないカトラリーも全て新しくすることができた。
「庭も……変わってしまったのね」
「ええ……」
花を愛でる人も余裕もなかった我が家は、訪れる貴族の知り合いもいないからと薬草畑にしていたのだけれど、貴族としての面子も保たないといけないと諭されて、立派な庭ができあがった。
「そんなに素晴らしいことだったのよ、サミュエル様の新薬の論文は」
「そうだけど……まさか、ここまでだとは思わなかったの」
私はガックリと肩を落としてしまう。
兄から論文について相談されたときは、ただデビュタントができるだけの資金がもらえればいいと思っていたのに。
まさか、王族が指揮を執るような大事になるなんて。
「アンリエッタ……。ニヴェール家にも謝らなければならないわ。実はその新薬のことだけど、第二王子殿下であるディオン殿下が全ての指揮を執られるの。だから、ニヴェール家の商会で取り扱ってもらうことができないのよ」
申し訳ないわ……ずっと貧乏なアルナルディ家に慈善活動のような支援をしてくださったのはアンリエッタの父親、ニヴェール子爵様だというのに。
「構わないわ。お父様もわかっているわよ、あの新薬は権力者たちが取り合うようなすごい薬なのよ」
「でも、お父様もお兄様も、ニヴェール家に販売権をって思っていたのよ。なのに……その新薬用の薬草の栽培も許してもらえなかったわ」
我が領で薬草の栽培が許されなかったら、領民たちの生活に反映させてあげることができない。
結局、領民の生活は苦しく貧乏なままなのよ。
「ディオン殿下は我が家には沢山の施しをしてくださったけど、流石に領民までは」
「薬草の栽培もダメなの?」
アンリエッタも薬草の栽培までは知らなかったのか、大きな目をさらに大きく見開いて身を乗り出してきた。
私は苦々しい思いで頷くと、兄から聞いたディオン殿下との経緯を話す。
「本当なの? その薬草が王宮の薬草園でしか栽培できないって。それ以外だと生育に難があるなんて」
アンリエッタが疑うように問いかけてくるが、私は顔を俯けて黙り込む。
――そんなわけがない。
兄は学園で薬草を研究するときも、亡き母が残した温室の土を使っていた。
むしろ、アルナルディ子爵領では薬草の栽培は容易だが、王宮の薬草園では生育に不安があると言っても過言ではない。
でも、言えない。
こうして、アルナルディ家とニヴェール家の関係には少しずつ亀裂が入り、私のモルヴァン公爵家との婚姻ではっきりと縁が切れてしまうことになる。
「ねえ、サミュエル様はお帰りにならないの?」
「お兄様はこちらへはもう戻ってこないわ。子爵位は継ぐけれど、王都でディオン殿下の庇護の元、薬草の研究を続けられるの」
お父様が最後まで抵抗していたけれど王族の意志には逆らえず、兄はディオン殿下の側近として王宮勤めになってしまった。
子爵位は兄が継ぐが、領地経営は父が引き続きこなし、その後は……兄の子どもが継ぐのだろうか?
「子どもって……サミュエル様には婚約者もいらっしゃらないでしょう?」
「それがディオン殿下の紹介で既に婚約を済ませ、早急に婚姻することになったの」
本来、学園の卒業論文として新薬を発表してから、さらに効果を高めたり、治験を繰り返したり、実用までには時間がかかるはずだった。
それを恐ろしい速度で完成まで導いたのが、一人の女性だと言われている。
「オレリア・ジョルダン伯爵令嬢」
ディオン殿下の紹介で知り合った女性……彼女は薬の調合に長けた人物だった。
兄にとっては無二のパートナーとして婚約、結婚となったけど、家族である私たちには全て事後報告だったわ。
それに……まるで彼女のおかげで新薬が完成したみたいに吹聴しているけれど、兄はそんな協力者がいなくても完璧に近い状態で新薬を発表したはずよ。
私はガリッと爪を噛んだ。
なんだか嫌なものが私たち家族を包んでいくような気持ち悪さがあった。
「…………ふうーっ。とにかくアルナルディ家にとっては悪い方向にいっているわけじゃないでしょ。シャルロット、せっかくデビュタントに参加できるのだから、気分を変えてドレスの相談をしましょう」
アンリエッタはニッコリと笑って、ニヴェール家の商会から持ち出したドレスのデザイン帳を広げる。
「……私、デビュタントに出ていいのかしら」
不安が私の表情を曇らせた。
しかし、この数日後、デビュタントのエスコート役としてディオン殿下に紹介された人こそが、結婚相手であり私を崖から落とそうとした非情な人、イレール・モルヴァン公爵子息であり、私は彼に一目で恋に落ちるのだった。




