39話 愛しき姫の目覚め
ノアと共に作り上げた、アリーセの過去はこうだ。
アリーセの父である『異端者』は、呪いにかかった娘を哀れに気の毒に思い、神の座を譲った。しかし、神になり不老不死になったはいいものの、魔族に掛けられた呪いは解けなかったため、アリーセは声と表情を奪われてしまう。
イルゼはアリーセの呪いを解く方法を探したが、なかなか見つからずに百年経ってしまった。その間に兄姉たちは寿命が尽き皆亡くなってしまった。
矛盾も何もない、何処にでもありそうなストーリー。よほど下手をやらなければ、まず疑われない嘘。
これなら、自分のした大量殺人を包み隠せるだろう。アリーセに余計な不安や不快を与えずに済むだろう。だから、イルゼは堂々とした態度でアリーセに会いに行くことを決めた。
「ここは……」
ノアが作り出した白い扉。その先に広がっていたものは、色とりどりに染まった花畑だった。
チラチラと舞う蝶。フワフワと漂う花弁。雲一つない青い空。
まるで、天国を落としたかのような空間だ。しかし、天に召したことのないイルゼにも、この場所が何処なのか記憶があって。
「……アイドの庭」
アリーセから城に来て欲しいとお願いされた場所。そして、アリーセの傍にいることを誓った場所。
イルゼにとって、もっとも重要な、ただの思い出の地ではない花園だ。
それなのに、こうして足を運んだのはかなり久しぶりだ。それこそ百年ぶりなのかもしれない。アリーセが長い眠りについてしまってからは、ここに行く理由も無くなってしまったから。
イルゼは懐かしい感覚に溺れながらも、前へ前へと進んでいく。
そして、しばらく蝶と蝶の間を彷徨い歩いていれば、花園の様子が変わる。無造作に生きていた草や花が剪定され始め、めっぽう数を減らしていた。今までは人の気配さえしなかったのに、急に人の手によって整えられた美景。変遷した世界の中央に、誰かがいた。
白い手を胸の上で絡めて、空を仰いでいる、赤髪の娘が。
「アリーセ様!」
見間違えることのない眠り姫にイルゼは駆け寄る。急に走り出したイルゼに、取り巻きの蝶は驚いたようにそれぞれの方向に去っていった。が、知ったことではない。構わず進む。
草を蹴散らし、花を散らすイルゼの走り。しかし、悲しいことにアリーセの反応はない。
彼女は百年もの間見せている穏やかな寝顔を晒して、薄い胸を上下させるだけだった。
それでも薄々予感がする。良い予感だ。ずっと待ち焦がれていたその時が、今訪れるという予見が、体の中を巡って頬を緩ませる。
「アリーセ様」
イルゼはゆっくりと、それでいて少し強くアリーセの肩を揺する。
これは付き人としてアリーセの傍にいた時に、アリーセを起こしていた方法だ。アリーセは寝起きが悪く、少しでも気を抜くと二度寝してしまうため、比較的強い力で体を揺するのがポイントだ。
懐かしい手癖に、イルゼがまたもノスタルジーに浸ったその時、変化は起きた。
「う、うーん……」
イルゼの目の前にいるアリーセが、不意に声を上げたのだ。意識していないと、まず聞き逃すであろう呻き声を。加えて、それと同時、アリーセはゆったりと体を捻って、起床の準備をし出していた。
普段なら全く気にも止めないであろう、ありきたりな人間の仕草。しかし、それでもイルゼの思考と手を止めるには十分な衝撃だった。
実際、イルゼはアリーセを起こす手を止めて、その場にしゃがみこんだ。腰が抜けた。大袈裟かもしれないが、足腰が震えてまともに機能しなくなっていた。
イルゼが愕然とアリーセを見上げていることに、当の本人が気付くことはない。アリーセは一人、ゆったりと上品に長い睫毛を動かして、アップルグリーンの瞳を覗かせていた。
「…あ…ア、リーセ…」
底の見える泉のように澄んだアリーセの目。久方ぶりに光の入った彼女の瞳は、静かにイルゼを映す。
その瞳に取り憑かれたイルゼの口からは、言葉が出なかった。体を芯から壊すような緊張が全身を支配してしまっていたから。喉はカラカラに乾いていてしまっていて、とても機能できる状態ではなかったから。
「………」
お互いの顔を黙って見つめ合うという、奇怪な沈黙。
これからどう進むのか全く読めない、変な方向に進んでいた空気だったが、不意に壊れる。
良くも悪くも空気を読まず、己の道を進んでいたアリーセが、持ち前の明るさで木っ端微塵に砕いたのだ。
「イルゼ!」
たった一言声を発して、表情を綻ばせて笑顔を見せるだけで、アリーセは何もかもを壊し自分のものにする。
百年ぶりの会合の雰囲気も、これからの話も、イルゼの心や感情さえも。
「……あ…」
気付けば、イルゼの頬には涙が伝っていた。
バカだ。目が潤んでしまったら、アリーセのことが上手く見えないだろう。それなのに、一瞬一秒でも長く、アリーセのことを目に焼き付けていたいのに、涙が止まらない。
アリーセがこうして声を発してくれていることが嬉しくて。表情を変えて、百年ぶりの笑顔を見せてくれたことに感動して。
「イルゼ?」
無言で号泣していたイルゼを、アリーセは心配そうな顔をして見つめる。そして、慰めようと思ったのか、白い腕を伸ばしてイルゼの顔を隠している髪に触れた。
「あっ」
しかし、その途端イルゼはさっと身を引いていた。アリーセに触れられないよう、彼女の手の届かぬ場所に逃げていた。
「………え」
アリーセの手が虚空で止まる。彼女の顔には先ほどまでの笑顔はなく、驚きと悲しみが前に出て悲痛なことになっていた。
それでも、イルゼはアリーセの手を掴めない。前に進んで、アリーセに近寄ることが出来なかった。
もちろん、イルゼがアリーセを拒絶したんじゃない。アリーセに触れられるイルゼを拒んだのだ。
数多の人を殺し、嘘を吐き、のうのうと前の関係に戻ろうとする、穢らわしい自分が、こうも眩しいお方に触れられることが許せなかった。
登場人物
イルゼ…火敵星の魔族。アリーセの眷属。
アリーセ…火敵星の神『統治者』。呪いに掛けられており、百年もの間意識がなかった。
『異端者』…アリーセの父。アリーセの前の火敵星の髪だった。




