三十二話 いすず
ゆづりのいる日本が突然の微雨に襲われているのと同時刻。
土獣星も地球と同じく酷雨に包まれており、星に降りたいすずを最悪のコンディションで迎えていた。
「………」
うん。約束。待ってるよ。
いすずはそう、ゆづりに言われた。無事に神座剥奪の儀を乗り切り、ここに戻ってきてくれと、訴えられた。
いすずはそれに頷いた。彼女と指切りまでも交わした。
それは彼女を一時的に安心させたからじゃない。いすずもこの三日間、何事も起きずに過ぎ去り、彼女と再び会うことを望んだからだ。
それなのに。
いすずは社の前にワラワラと集まっている土獣人たちを一瞥すると、己の死を確信した。
****
五十年前、いすずは神にふさわしくない人間だった。
彼女には前代の『叛逆者』のような洗練された知能もなければ、前々代の『好戦者』のような圧倒的な武力もない。優しい心を持った素朴な少女だった。
唯一、目ぼしいところと言えば、いすずが妖狐であることであろう。妖狐とは百年に一度、狐族に現れる戦闘の天才のことで、術の腕は土獣星の中でも五本の指に入る腕を持つと言われている。
そんな天才ととして生まれたにも関わらず、いすずは喧嘩を嫌い争いから逃げ続けた。
理由は単純、人を傷つけることをこの世で一番嫌っていたからだ。喧嘩をして自分が痛い目を見ることは当然好まないが、相手が傷ついて泣いたり恨まれたりするのはそれ以上に嫌っていた。
しかし、そんないすずの意思など構わぬよう、彼女の同族たちはいすずを争いの場に送り込み、敵を殲滅させようと促した。彼らは待望の天才児が先陣を切って武神のように戦うことを望んだのだろうが、いすずが敵を害することは一切なかった。彼女は戦場へ送り込まれても、敵を倒すことはせず、怪我しそうな同族を救うことのみに徹していた。
そんな強固ないすずの意思に、同族たちは痺れを切らしたらしい。ある日、罰だ制裁だと適当な理由をつけると、いすずの喉を抉り声を奪った。彼らはこれでいすずが懲り、自分たちの言うことを聞くと思ったのだろう。
しかし、いすずはこの出来事に怒りも悲しみもしなかった。まるで道を歩いていて、すれ違い様に肩がぶつかった程度の反応を取ると、翌日には里を出た。
その日以降、いすずは同族たちに会っていない。
「キツネさん、その喉どうしたの?」
行く当てもなくブラブラと彷徨い歩くいすずに声をかけたのは、彼女と同年代の少女だった。彼女の名前はもう忘れた。忘れるしかなかった。
ただ、狸族の娘だったこと、自分のことを友人だと言ってくれたことは覚えている。
「あの鬼に私の族、壊滅させられたの」
狸の娘と親交を続ける中、その少女は自らの苦境を語った。鬼族に親族を皆殺しにされたこと。少女一人生き延びたこと。いすずに出会うまで一人で寂しく生きていたといくこと。
いすずは初めて出来た友人の話を疑うことはなく、真っ直ぐに哀れに思った。だから、今神の座にいる鬼を拘束して自分の元へと持ってきてくれと言われた時、いすずは二つ返事で承諾した。
そして、来る儀式の日、いすずは叛逆者を襲った。
得意の術で身を隠し、叛逆者を待ち伏せた。そして、まんまと通りかがった叛逆者の前に現れ、許さないと囁いた。彼は急に現れたいすずに驚き、咄嗟に進路を変えた。その際、無防備な背中をいすずに見せてしまっていた。
もちろん彼を殺すつもりは毛頭なかった。ちょっと気を失ってくれればよかった。
しかし、いすずが叛逆者の背中を少し引っかいた時、彼の体から見たことのないくらいの量の血が舞った。訳が分からないまま血飛沫を見上げるいすずの下で、鬼の体はパズルのようにバラバラに砕けた。そして、空気に溶けるようサラサラと消えていく。最終的に血痕と彼の衣服のみがその場に残った。
そこでいすずはとんでもないことをしてしまったと悟る。
一人の人間をこの手で殺してしまったのだと。
「なんでアンタが殺したのよ!」
意図せず人を殺してしまった罪悪感に茫然とすること一夜。
叛逆者の血痕も薄れ始めた頃、鬼をつれてきてくれと訴えてきた少女がいすずの前に姿を見せる。そして、耳を疑うような台詞を吐いた。
「最悪。私が殺せば狸族の繁栄は確定したのに…」
話が違う。いすずが咄嗟に問い詰めば、少女がいすずによって傷を負わされた鬼を殺し、神になる算段だったと語った。
突然の裏切りに途方にくれるいすずに、彼女は一通り暴言を吐くと、死んだ筈の同胞と共に森に帰っていった。
それ以降、いすずは彼女とは会っていない。会いたくもなかった。
「へぇ、こんなチビが神になったんだな」
「はじめまして。よろしく」
「記録更新。消去『叛逆者』、更新『継承者』」
「お嬢ちゃんがアイツを殺したんだ。ははっ、どうやって殺したの?」
「いすず様…いえ、『継承者』様。不束者ですが、これからどうぞよろしくお願いします」
「ど、ど、どうも……よ、よろしく、ね…」
意図せず神になったいすずだったが、神としての責務は果たそうとした。
そんないすずを当時の神たちは、にこやかに歓迎してくれた。皆優しかった。親切にしてくれた。八星について色々と教えてくれた。
しかし、それでもいすずには分かってしまう。叛逆者を殺して神になったヤツがこんなヤツなのかと、誰もが思っていたことに。
「…………」
そんなこと、一番分かっていたのはいすずだ。
叛逆者は結界を作り争いを減らしたという功績がある。巷では三大賢神なんて言われている人格者だ。そんな英雄を殺して、こんな力も何もないちんちくりんが神になったのだ。場違いなんてハナから分かっている。
でも、途中で神の座を降りることは出来ない。嘆いたって喚いたって泣いたって、五十年は神をやらないといけない。やり抜く義務があるのだ。
だから、その日からいすずは神を目指した。
叛逆者のような、とまではいかなくとも、まぁマシだったと評価されるくらいの神になろうとした。
そのために最初にやったことは叛逆者について知ることだった。彼の思考、意志、見解、何もかも真似れば完璧な神になれると、そう思った。
いすずは叛逆者のことを知るため、度々オニの集落を漁っていた。そんな時、一人のオニと出会った。それが、叛逆者と共に死んだはず眷属こと、紅玉だった。
「神はオレだ。てめぇは眷属だよ」
死者が生きているという秩序の裏切りに驚いて、紅玉を問い詰めたいすずに、紅玉は簡潔に自分が生きている理由を教える。
叛逆者はいすずに殺される直前に自害していたこと。そのために、神の座が紅玉へ移されていたこと。しかし、そのことに気づいた者はいなかったため、儀式はいすずを神と見なして終わったこと。
そして、今の土獣星の神こと『継承者』は紅玉であること。
あの儀式の舞台は深夜の森だったため、月光も他の光源もありゃしなかった。だから、いすずが叛逆者を殺したわけではないということは、すぐに理解した。
しかし、分からないことが唯一ある。それがいすず自身のことだった。
いすずは不死の身を持つ。これは絶対だ。儀式が終わった後、いすずは重い体を引き摺って彼岸神社に行った。そして、土獣人に襲われ己が死なない身であることを証明した。
だから、いすずは神であると信じたのに、それが否定されるなら、この奇怪な体は何なのだ。
「……あ?なんだよ」
しかし、それもすぐに理解する。紅玉から送られる、憎しみと怒り混じった瞳に見下ろされていれば、答えにすぐ辿り着いた。
いすずは紅玉の眷属になったからだ、と。
眷属になるには神からの特別な感情が必要だ。しかし、それは愛情だの友情だの優しい感情だけではない。殺意。敵意。憎悪。そんな負の感情でも繋がれる。眷属になれてしまう。
「神はてめぇがやれ。オレはやらない。オレが生きてることも他言するな」
紅玉はいすずに直接、胸の中にあるであろう激情をぶつけることはなかった。代わりに、神の立場をいすずに押し付けて姿を消した。
そして、その日以降、いすずは彼と遭遇することは無くなる。
紅玉がいすずと会わないようにしていたのに加え、いすずの方も土獣星にほとんど降りず、中継場にいたからだろう。
なんで紅玉が神をやらず、眷属であるいすずが神を演じているのか。
何もかも分からないまま、五十年の月日は過ぎて。
「おい」
あの酷雨の中、いすずと紅玉は再会したのだった。
****
いすずの目前に集っている、多くの土獣人たち。彼らは今にもいすずを殺さんと息巻いていたが、実際に彼らがいすずを襲ってくることはない。
もちろんいすずを殺すのが忍びないからとか、まだ儀式が始まってないからという可愛らしい理由ではない。
ここで真っ先にいすずに手を出したら、他の神の座を狙うヤツらに袋叩きにされ殺されるから、我慢しているだけだ。
「よぉ」
そんな一触即発の空気の上。あまり空気にそぐわない、杜撰な声が降りかかる。
その聞き馴染みのある声に、いすずは警戒心を解くことなく上を向く。すると、社の上に人が立っていた。瓢箪水筒を逆さにして豪快に酒を煽っている、一人の鬼こと紅玉が。
「もうすぐ儀式が始まるな」
急に現れた強者の風格を醸す彼に、集まっていた襲撃者たちはどよめく。が、そんな音は彼に聞こえていないらしい。紅玉は持っていた瓢箪を適当に捨てると、社から飛び降りた。
いすずの足元に転がった瓢箪。その入り口からは仄かにアルコールの匂いと、鼻を刺すような人工的な香りがした。
「………」
その刺激臭に思い当たったいすずは無言で紅玉を見上げる。
しかし、紅玉の様子に変わったところはない。彼は汗を垂らすことも、息を乱すこともなく、泰然とした様子で立っていた。
「なに見てんだよ」
「……」
「しっかり気を持て。てめぇが次代の神になんだろうが」
まじまじと紅玉を見つめるいすずの視線が、彼はどうやら気に入らなかったらしい。彼は露骨に舌打ちをすると、眉間に皺を刻んだ。
「………」
叱責されたいすずは紅玉から目を逸らし、顎を引く。すると、彼はもういすずに用はないと見なしたのだろう。特に何も言うこともなく、いすずから離れていった。
「あぁそういえば」
が、存外すぐに彼の足は止まる。
まだ言いたいことが、伝えたいことがあった。振り返った彼の瞳は、そういすずに語っていた。
「この五十年間、てめえは色々とやってくれた」
「………」
「今更だが、感謝する。ありがとな」
そして、紅玉は笑った。
間違っても殺意を向け、憎んでいる相手には向けないような顔で、くしゃりと笑った。
いすずは目を見開く。同時、何か伝えようと口を開けた。
しかし、もう遅い。儀式の開始を告げる鐘が、いすずの頭上で鳴ってしまっていたのだから。
鐘が響くと同時、紅玉は今度こそいすずから距離をおく。そして、彼は地面を蹴り飛ばしながら、前へ前へと駆けていった。
ぐんぐんと遠ざかる背中。彼の手元に鈍く光る鞘。靡く白の乱れ髪。
彼はまるで映画のアクションシーンのように、石畳を走り抜け、土獣人たちを蹴散らしていく。彼が目指している先は、竜が支配する空。こちらに飛んできている、一番神の座に近い種族。
「見てろよ愚民ども」
彼は空を目指すための足場として、鳥居の上に飛び乗った。それと同時、鞘に手を回し刀を抜く。そして、凛と研ぎ澄まされた刃に月光を閉じ込め、空に掲げた。
空上の天災と地上の破壊者。伝説の存在である竜と鬼が今、ぶつかる。彼らはこれから、歴史に残されるであろう戦闘を繰り広げると、誰もが固唾を飲んだ、のだが。
「邪魔」
不意に聞こえた竜の声と共に、紅玉の上半身が吹き飛んだ。誇張なく、文字通りに紅玉の体が腰で二つに切断された。
噴出花火のように溢れる血。ぐしゃりと肉が潰れる音とともに落ちた上半身。その傍に落下した彼の刀。鳥居の上で立ったままの下半身。
死んだ。紅玉が死んだ。生き返ることも、実はノーダメージでしたなんてこともなく、正々堂々命を散らした。
そしえ、その無情な光景の後ろ、星は静かに変わっていく。
バチバチと唸っていた電気は姿を消した。荒れていた天候は元に戻り、夜の静寂に染まった。種族同士の潰し合いは否定され、失くなった。
紅玉という神の死を対価に、すべての結界が修復されたからだ。
「………」
いすずは片目のみ瞑り哀悼を示す。両目は瞑れない。
既にいすずの正面には竜が降り立っているのだから。
「あ、いた。神様」
紅玉の死体を跨いで前に出るのは、紫紺の髪と桃の目を持つ竜の娘だ。彼女は己の顔に付着している血を乱暴に払うと、いすずへと歩みを進める。
そこには人を殺したことに対する罪の意識も、反省の意もない。ただただ気だるそうに生きていた。
「………」
怒りは涌かない。当たり前だ。神座剥奪の儀はそういうものだ。人が死ぬのも、仲間が死ぬのも、家族が死ぬのも、全て当たり前に起こる。それにいちいち悲しんだり怒りを膨らませたりするのは、無駄だ。
だから、いすずは何も言わない。顔にも出さない。しかし、一枚の紙を竜に見せた。
「何故、神を志す」
やけに達筆で、高尚な言葉。神にふさわしい品格と威圧。
この五十年間、ろくに神としての威厳を見せつけてこなかったいすずが、初めて見せたその姿に、彼女の周りにいた竜は恐れ、手を止め足を止める。
しかし、いすずの目の前にいる竜は違った。
「え、別に。やりたいことなんてない。神になれって言われたらなる。それだけだよ」
竜はくだらないと嘲笑すると、紙を息吹で吹き飛ばした。
「………」
いすずは無言でその光景を見届けると、審判を下す。結論はもちろん一択だ。
こんなヤツに神の座は譲ってやらない。殺されてやらないと。
いすずの目に確固とした意志が灯る。そして、ぶらぶら揺れている竜の有り様を燃え尽くさんと言わんばかりに襲いかかった。