三十一話 雨と傘
ノアとソフィーに在監者に対して忠告を受けた後は、特に何も起きることなく事を終え、ノアと共に地球へ降りた。
そして、ゆづりの自宅へと向かった二人だったが。
「あっ」
ゆづりが自宅の玄関の扉を開けると、脱ぎ捨てられた靴がいつもより一個多かった。
不審者などではない。家の中いるのは、間違いなくゆづりの母だ。どうやら母がここに来てきているらしい。
ゆづりは自分の母がいつ家に帰ってくるのか把握していない。そのために、母の靴が玄関にあるか否かのみで彼女の存在を確かめていた。
「ノア。母親が家にいるから返事できない」
「ん、分かった」
ゆづりはノアに一言掛け、玄関に入る。すると、すぐに異常に散らかったリビングがチラチラと見えた。そして、その中央に人の足が揺れている。言うまでもなく母の足だ。
何してんだろうとゆづりがそっと部屋に入れば、母がくるりと首を回す。その瞬間、ゆづりの全身がピタリと凍った。
「ねぇどこ行ってたの」
彼女の機嫌がすこぶる悪いのだ。目付き、表情、声のトーン、組まれた足。彼女を構成している全てが、ありとあらゆる方向に向けて不愉快を撒き散らしている。
「学校…」
「は?なんで?いつも家にいるんだから家にいればいいでしょ」
「あっ、ごめんなさ」
「喋んないで。うるさいから」
彼女はピシャリとゆづりの言葉を切り捨てると、こちらに歩み寄ってくる。すかさずゆづりは壁にへばりつき道を作ったが、狭い廊下で彼女を避けきるのは無理だ。ドンと彼女の肩がゆづりにぶつかる。
「邪魔」
「す、すみません」
母はこれから用があるらしい。特に追い討ちをしてくることはなく、倒れたゆづりの前を淡々と通り過ぎていく。そして、バンと荒々しい音を立てて扉を開けると、家を出ていった。
「………」
ゆづりは床に転がったまま、母が居なくなったのを確認する。そして、何の音もしなくなった後に、ぬくりと起き上がった。
かなり大胆に倒れたというのに、体の何処も痛くない。痣も傷もできていない。これも不死になったことによる恩恵なのだろう。
「ノア。もう喋っても平気だよ。返事できるから」
「えっ。あっ、うん」
ゆづりが首を回して玄関を振り返れば、そこにいたノアはオロオロと居心地悪そうにしていた。
確かに、ゆづりの部屋は彼が怯むのも分かるくらい荒れている。床にはゴミが撒き散らかされ、衣服が適当に捨てられているのだから。とても客人を迎える部屋ではない。
が、家に来たいと行ったのはノアだ。文句は聞かない。
「あのさ」
「おう」
「今から買い物行ってもいい?」
「お、おぉ急だな。なんで?」
「タイムセールが始まるから」
ゆづりが母とぶつかり倒れた際、リビングの壁についている時計が見えた。指している時刻は二十一時。近所のスーパーで惣菜に割引シールが張られ出す時間だ。
ゆづりにとってタイムセールというものは、二十四時間の中で一、二位を争うほど大切な時間なのだが、水魔星ではタイムセールという概念はないらしい。ノアは話について来れないのか、唖然とした顔のまま固まっていた。
「タイムセールっていうのは、まぁ楽しいものだよ」
「へぇ、そうなのか!なら、さっさと行こうぜ」
「うん」
ゆづりは床に散らばるゴミを跨いで、母が机の上に置いていったお金を回収する。金額は千円だ。彼女は週に一度ここを訪れては、一週間分の食費として千円を置いて帰る。そこに、ゆづりに処理してほしいゴミも添えるのが、彼女のルーティンとなっていた。
ゆづりはありがたくお金を受け取ると、自分の財布に詰める。そして、ノアに声をかけ家を出た。
「その、なんていうかさ」
「うん」
「ゆづりのママ、ちょっと怖いな」
「え?そんなことないでしょ。見た通り普通の人だよ」
「えっ、そうなのか」
「うん」
ノアは唖然とした顔で、足を止める。だが、ゆづりがスタスタと進んでしまえば、すぐに後を追ってきた。
どうやら水魔星の家族関係は、地球のものとは異なるらしい。ゆづりが何度もこれが普通だよと言っても、ノアは釈然としない顔をしていた。
「そんなことよりさ、ノアに聞きたいことがあるんだけど」
「お?なんだ」
「ノアって地球行きたい行きたいってずっと言ってるじゃん。それ、なんで?ここってそんなの楽しいの」
「もちろん。ここには戦争がないからな。平和でいいよ」
「ふーん。水魔星は戦争中なの?」
「そうだ。魔法使えるヤツと使えないヤツで千年以上揉めてるよ」
「せ、千年も?!」
「あぁ。バカらしいだろ?」
戦争って長くても十年くらいで終わるものだと思っていた。が、違う星には千年近く戦争している星もあるらしい。
神の座を殺し合いで決めている土獣星がぶっちぎりで危ないと思っていたが、水魔星もなかなか過酷そうだ。あまり行きたくない。
「ノアは神として戦争を止めることは出来ないの?」
「頑張ってるけど無理だな。せめて一日で亡くなる人間が百で収まるように仕事してるよ」
「百って結構多い気がするけど、そんなことはないんだよね」
「魔法使いの中には一発で何万殺せちゃうヤツもいるし、なんなら星ごと破壊出来るヤツもいるんだ。そう考えると妥当だろ」
「うん」
詳しく聞けば、ノアは水魔星で起きている戦争を傍観して、あまりにも危険な魔法や兵器が行使されそうになったら、彼が魔法を打って相殺しているらしい。『中立者』の名にふさわしい所業と云える。
「それなら、地球にいる暇ないんじゃないの。今だって戦争中なんでしょ」
「それは心配ご無用。星から離れてても水魔星のことは分かるからな」
「へぇ。流石は神ってことね」
「そうだ」
ノアはフフンと鼻を鳴らしドンと胸を張る。やけに誇らしげな姿だ。これ以上褒めたら、おそらく次は踊り出すだろう。
それも面白いから、もう少し彼をおだててみようか。そう企んだゆづりが言葉を探している最中、ピタリと一滴の水が頬にぶつかった。そして、ポツポツと細かな音を立てて、地面にシミを作っていく。
雨だ。どうやら雨が降ってきたらしい。
「うっわ最悪……」
「ゆづり、傘は?」
「持ってきてない。降ると思わなかったから」
不意の雨に、ゆづりははぁとため息をつく。そして、スーパーまでひとっ走りするかと体制を整えたが、ノアに腕を掴まれた。
「なぁ、家には傘あるんだよな」
「うん。あるよ」
「じゃあ俺様がそれ取ってきてやるよ!」
「え」
「待ってろ」
ノアはピシリとゆづりを指指すと、雨の中を走っていく。そして、ゆづりが止めるまでもなく姿を消した。
「足はっや」
あっという間に見えなくなったノアの背中。ゆづりはアイツ意外と足速いんだなと呆気に取られる。しかし、ポツポツと何度も服を濡らす雨音に我を取り返すと、慌てて雨宿り出来る場所を探し始める。
すると早速、人気のない公園が目に入った。そして、こじんまりとした滑り台も見つかる。
ゆづりが目を付けたのは、滑り台の下の部分だ。子供用ゆえに遊具は小さく、しゃがまないと雨は凌げないだろうが少しの辛抱だ。ゆづりは躊躇うことなく公園に入ると、滑り台の下に潜った。
「やっぱ狭っ……」
想像以上に滑り台の下は狭い。ギュッと体を纏めないと肩あたりが濡れそうだ。
モゾモゾと体が濡れない且つ足腰を痛めない体制を模索していると、ジャリジャリと公園の砂を踏みつける音が近づいてきた。
「あ、ノア……」
「えっ、佐々木さん?」
ノアが帰ってきたのだとゆづりは表情を明らめて振り返ったが、いたのはノアではなく、至って普通の青年だった。
さっぱりと整えられた黒髪に、二重の黒瞳。世間ではイケメンと称されそうな整った顔立ち。清潔感はあるものの、特に特徴のない服装。
ノアではないが、だと言って見知らぬ人ではない。彼の顔には見覚えがある。おそらく、この青年はゆづりのクラスメイトとかそんなところなのだろう。去年の人なのか今年の人なのかは知らないし、名前も分からないが。
「えっと……ここで何してるの?」
「……あぁ、ちょっと蟻の観察を…」
「えっ、こんな雨の中で?傘も持たずに?」
「……うん」
青年は正気かと言うような眼差しで、ゆづりを見下ろす。ゆづりも自分は何を言っているんだろうなと思いつつ、ヘラリと笑った。
大の中学生が滑り台の下にしゃがんで蟻を見てますの時点で意味が分からないのに、雨の日にそれをやっているのだ。どうしたのだと頭を心配されるのが普通だろう。
しかし、人を待っていると素直に説明したとしても、面倒なことになる。肝心の待ち人が、地球人には認識されない幽霊のようなヤツなのだから。
余計なことは言えない。そして上手いことも言えない。その結果とんでもない状況説明になってしまったが、まぁどうでもいい。そんなことよりも、この青年に早く立ち去って欲しいところだ。
「もちろん、もう帰るから…その、平気です」
「そっか。それならいいんだけど」
ゆづりが誤魔化すようにヘラヘラと笑えば、相手はあっさりと引き下がる。おそらく頭のおかしいヤツと絡みたくなかったのだろう。そう考えると、もう少しいい言い訳がなかったのかと後悔の念が沸くが、深く考えなければ明日には忘れてることだ。気にしないでおく。
青年はじゃあまた明日と軽く手を上げると、雨の中へ姿を消した。
「結局、誰だったんだろ」
また明日と言ったことから、彼はおそらくクラスメイトで確定だ。
しかし、何度教室のことを思い出しても、彼の名前は出てこない。というか、ゆづりは誰の名前も覚えちゃいない。出てこなくて当然だ。
明日学校で見かけたら気にかけてみるか。ゆづりがぼんやりとそんなことを考えている最中、「よぉ」と背後から声がかかた。
「お待たせ。傘、持ってきたぞ」
「ありがとう」
今度こそはノアだ。
ゆづりはのそのそと滑り台の下から這い出る。そして、ノアの持っているビニール傘を受け取ると、再びスーパーへと歩きだした。
「さっき話してたヤツは知り合いか?」
ノアも傘に入れてやろうと苦戦していれば、ノアがそう首を傾げた。どうやらゆづりが謎の青年と話しているのを見たらしい。いつからノアが戻ってきていたのか、気になるところだ。
「うん。多分、クラスメイト」
「へぇ。名前は?」
「分かんない」
「えっ、クラスメイトなのに名前知らないのかよ!」
「うん。どうせ一年後にはバイバイだから、覚えてなくても問題ないよ」
「うっわ、はくじょー!」
ノアは何かツボに嵌まったらしく、ケラケラと笑い出す。しかし、ゆづりはそんなに爆笑される意味が分からず、顔をしかめていた。
「いや、ノアだって五百年も生きてれば、人のことなんて忘れてるでしょ」
「それは当たり前だろ!何万の人と出会えば皆一緒に見えてくるよ」
ノアは雨を負かすようなカラッとした表情と共に、神としては酷なことを言う。
こんな態度でよくもまぁ人のことを薄情なんて言えたものだ。コイツもゆづりと同じじゃないか。
ゆづりはそう意味を込め、ノアに薄情とだけ返す。すると、彼はどうやら違う意味で捉えたらしい。まるで弁明でもするように手をワタワタと動かす。
「あっ、もちろん、ゆづりのことは忘れないぜ。絶対な。お前もそうだろ?」
「うん。それはそう」
ゆづりはおそらく、ノアのことは忘れない。いや、ノアだけじゃない。ソフィーもいすずも理解者のことも、死ぬまでゆづりの記憶に残る。
というか、忘れる方が無理だ。神やら八星やら創造者やらと、訳の分からない話に巻き込まれているのだから。忘れられるわけがない。
そんな風に至って当たり前の思考を辿ったゆづりだったのだが、ノアにとっては何が可笑しいらしく、ヘラヘラしていた。
「……なんで笑ってんの」
「嬉しいからに決まってるだろ!」
「なんで?」
「神を覚えててくれる人は、多い方が良いからな」
「へぇ。そういうもんなんだ」
「あぁ!そういうもんだ」
相変わらずノアはニマニマと頬を緩めている。
ゆづりは神である彼の心情や価値観などは一切分からないままだった。ただ、彼が嬉しそうならそれでいいとは思った。
ゆづりはそれ以上ノアに聞くことはしない。代わりにさっさと買い物を済ませて家に帰ろうと、スーパーへ急いだ。